折口 信夫 作詞
信時 潔 作曲
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三 二 一
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信 あ し よ 人 青 広 の う 然 烏 こ 学 信 安 こ 千 わ 言 信 志
州 あ づ き 心 み き ど る 遠 帽 と び 州 く の 曲 が ふ 州 美
の か 歴 枉 た 胸 か は き 子 だ 得 の あ 国 川 誓 こ の し
我 な 史 げ り な し 岳 て て 青 れ は ひ と 青 き
青 等 る ざ 寛 れ き わ の の 年 ゆ ぞ 年
年 夢 世 り 小 げ 我 が 山 正 聡 は 我 ほ ほ 山 の
よ 末 霞 々 し 県 て 師 が 文 の し 明 が ろ び 川 潔
遠 む を の 郷 化 磐 さ に 父 ぼ か に き
き 経 君 土 興 根 よ よ さ に か
上 て よ し 延 じ 行 け
田 な な ふ く て
城 ご む ご き 言
や と は ふ
か み
に
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本校は、大正6年4月に町立上田女子実業補習学校として創立されました。爾来幾多の変遷を重ね、昭和24年4月に県立移管となり現校名に改称されました。 創立以来80年間、卒業生も2万2千人を越え、地域はもとより国内外で広く活躍をしております。
その間、常に「質実剛健」の校訓の下に実業教育に徹し、現在工業科・商業科・家政科と
3つの大学科を擁する上小唯一の総合的な専門高校に発展して参りました。
大正 6年 4月 |
町立上田女子実業補習学校として上田女子尋常高等小学校に 併設される(本科・研究科を設置) |
大正 8年 5月 |
市立上田女子実業補習学校と改称(市制施工) |
大正 9年 4月 |
長野県上田実科高等女学校と改称(本科・補習科を設置) |
昭和 18年 4月 |
長野県上田市立高等女学校と改称 |
昭和 21年 4月 |
旧熊谷飛行学校上田分校跡を文教場にする |
昭和 22年 6月 |
全校を旧熊谷飛行学校上田分校跡に移転 |
昭和 17年 4月 |
長野県上田市立商工学校が設立され上田市立東国民学校跡に 設置される(商業科・建築科を設置) |
昭和 18年 4月 |
機械科を設置 |
昭和 19年 4月 |
戦時の要請により商業科を機械科に課程変更 |
昭和 20年 4月 |
長野県上田工業学校(市立)と改称 |
昭和 21年 4月 |
長野県上田商工学校(市立)と改称商業科・建築科・機械科) |
昭和 23年 4月 |
長野県上田市立高等学校を設立。学制改革に伴い、 長野県上田市立高等女学校と長野県上田商工学校(市立)を合併昇格。 位置は、旧熊谷飛行学校上田分校跡とする
(建築・機械・商業・家庭・普通の五学科)。同時に校章を制定 |
昭和 24年 4月 |
長野県上田千曲高等学校と改称(県立移管) |
昭和 24年 8月 |
校歌を制定(作詞 折口信夫 作曲 信時 潔) |
昭和 25年 3月 |
普通科を廃止 |
昭和 31年 11月 |
創立四十周年記念式典を挙行 |
昭和 33年 4月 |
電気科を設置 |
昭和 36年 4月 |
定時制機械科を設置 |
昭和 37年 4月 |
家庭科を家政科と改める |
昭和 44年 3月 |
校旗を制定 |
昭和 45年 9月 |
長野県上田千曲高等学校校舎改築期成同盟会の結成 |
昭和 48年 5月 |
校舎全面改築起工式を行う |
昭和 50年 8月 |
新校舎へ移転(体育館・HR棟・管理棟・電気棟完成) |
昭和 54年 11月 |
創立六十周年、新校舎落成記念式典を挙行 |
昭和 60年 4月 |
機械科を一学級とし電子機械科を設置 |
平成 8年 4月 |
電気科を一学級募集減とする |
平成 9年 4月 |
家政科の学級改編に伴い、食物栄養科・生活福祉科を設置 |
平成 9年 10月 |
創立八十周年記念式典を挙行 |
平成 15年 3月 |
上田千曲高校 公共下水道工事竣工 |
平成 17年 7月 |
トレーニングルーム新築寄付(創立90周年記念事業) |
平成 18年 4月 |
商業科1学級募集減 |
平成 19年 10月 |
創立九十周年記念式典挙行 |
千曲高校の校章は上田城の藩主松平氏の桐の紋をヒントに、 デザイン化したものを校章として制定しました。
校章制定委員会を設立し、全校生徒からデザインを募集しました。 しかし、校章の決定には至らず、商業科の西沢豊先生が
デザインを考案することになりました。
松平氏は、宝永三年(一七○六年)前藩主仙石氏が出石に移封と なったあとをうけて、明治二年(一八六九年)廃藩置県となるまで、
一六三年間に亘って上田城主であり、真田、仙石両氏の城主としての 期間に比べてはるかに長いことや、上田城は、千曲川をへだてて指呼の間にあり、
生徒たちが朝な夕な眺めることのできる上田城の藩主松平氏の紋を校章にとり
入れることは、郷土愛を育成する教育的見地からも、大きな意味があると考え、
松平氏の桐の紋をヒントに校章のデザインに取り組みました。
西沢先生は校章について、次のように解説しています。 校章の下部にある三枚の葉は、工業、商業、家政の本校の三大コースを表し、
桐の花は本校女生徒の美しさと、左右から伸びる触覚は女性の優雅さと各科の
統合を象徴するものである。また、下地と調和のとれた対照をみせるため、 中央に「高」を浮き彫りにして、全体として落ちつきのある安定感が期待できるとしています。 この図案は、校章制定委員会で採択され、職員会でも賛同を得て正式に決定し、
昭和23年以来千曲高校の「家紋」として現在に至っています。 帽子の徽章と側章はもちろん、ボタンや襟章は、すべてこの図案が用いられていました。
また、それぞれの学科の科章は、上田千曲高校のuの字をヒントにしてデザインされました。
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