信州大学繊維学部の歴史等について

2018814-17日筆記
信州大学名誉教授

前信州大学繊維学部図書館長
太田和親

信州大学繊維学部の敷地やその周辺地区に関する歴史について、私がこれまでに知りえた記録や口伝について記します。これらは、上田市民もまた信州大学繊維学部の人さえ多くの人が忘れ去ってしまっているか、知らないことで、煙滅しないようにここに記録しておきたいと思います。御一読いただければ幸いです。

I.                   古代

1.      現在、遺伝子研究施設とFIIが建っている土地は、これらが建設されるときに、上田市教育委員会が埋蔵物の発掘調査を行った。その時判明したのは、ここは弥生時代後期の集落があったことである。この発掘調査の結果は、当時の教員会議で、応用生物学科教授の岡崎先生から報告された。またそれから何年後かその近くのFII建設予定地の発掘のときにも、20軒ほどの竪穴式の住居がみつかった。その住居遺跡から、糸をつむぐときの「はずみ車」が2個出てきた。この発掘現場の公開見学会のとき、教育委員会の発掘責任者から、繊維学部の敷地から、繊維に関係する「はずみ車」が出たことは、大変、興味深いとの指摘があった。それは、直径5センチくらいの円盤状の粘土でできた焼きもので、真ん中に直径5ミリくらいの穴があった。この「はずみ車」は、レンガ造りの繭蔵を改装して出来た「繊維学部資料館」に、一時的に教育委員会から貸し出されて展示されていた。

2.      総合研究棟が建設されるとき、感性工学棟と総合研究棟の間の地下から、奈良時代か平安時代の水道の遺跡が出てきた。この時代にすでに水道の設備を備えた建物が、この周辺にあったことになる。そのような建物は、国衙(こくが:古代の県庁)であろうと推測されている。当時中本先生が、この水道の遺構を写真を撮って教員に示された。

因みに、今昔物語には、この信州の国衙を舞台にした艶笑奇談がみえる。

3.      繊維学部正門前、塀沿いの小道は、1200年前の古代からある道でこの道を、空海が若いころに、全国を行脚した時に、歩いていた。なぜなら、この道を少し北に行くと、今の祢津街道(スーパー西友)に出る手前に、空海ゆかりの「帰り石」という小字(こあざ)があるからである。この小字には、現在は民家「児玉整体院」の中になってしまっているが、大小2つの大きな岩がある。ここで旅の途中の空海が、小さい方の岩に腰掛けて休み、大きい方の岩の上に、懐に持っていたお経の巻を置いて、湿り気を取り除くため、乾かしていた。休憩が終わり、また旅を続けたが、しばらくして、岩の上にお経を忘れたのを思い出し、取りに帰って来た。それで、この石を「帰り石」という。この「帰り石」からここの小字がついたと、地元の地名研究家の滝澤主税さんが、「踏入物語」に書かれている。他にも、上田小県郡には、空海にまつわる話がたくさん残っている。

4.      繊維学部キャンパスのメインストリートは、昔の祢津街道と言われている。現在の祢津街道は、繊維学部と上田東高校に間、上田東高校正門前にある広く拡張した道路である。これは古代の条里制の中心線であり、京都の朱雀大路に当たる。この条里制のため、上田市では、この条里制制定以前や江戸時代以降などに作られた道を除くと、千曲川両岸とも、ほとんどがきちんと東西南北に道が通っている。

II.                中世・近世

1.      平成29年(2017年)まで繊維学部キャンパス南東地区にあった「手筒山官舎」は現在取り払われて、その跡地に「信州大学オープンベンチャー・イノベーションセンター」が平成30年(2018年)から建てられている。「手筒山」というのは、この官舎があったあたり、大字(おおあざ)「踏入」の中の小字(こあざ)の名前である。この「手筒山」という地名は、戦国時代に、上田に敵が踏み入って来たときに、この河岸段丘上から手筒(鉄砲)を構えていたことに由来するといわれている。ここが千曲川の河岸段丘の一つであったことは、このイノベーションセンターの裏が約2メートルの高さの崖になっていることからすぐわかる。現在、イノベーションセンターが建って、「手筒山官舎」という名前もなくなり、手筒山という地名を思い起こさせるものは皆無となってしまった。しかしながら、1キロほど離れた踏入地区の産土神である古家神社境内には、合社された「手筒山神社」という小社にその名をわずかにとどめている。

 以下は、「手筒山神社」にまつわる踏入自治会の役員から25年ほど前に、私が聞いた話である。信州大学繊維学部の前身の「上田蚕糸専門学校」が、明治43年(1910年)に開校するとき、手筒山地区には「手筒山神社」があった。しかし、この辺り一帯を広大な演習桑畑にするのにこの神社が障害になった。そこで、地元民と話し合って、この「手筒山神社」を「古家神社」境内へ移設合社することになったという。松本地区には、大学構内に神社が残っていて、地元の私立大学の教授から国の土地に宗教施設があるのはけしからんという裁判が、以前、起こされたのを思い出す。一方、上田では、開校前に、地元民納得のもとこの手筒山神社を、1キロほど離れた古家神社に移設したとのことである。

現在、「手筒山」という地名をもはや思い起こさせるものが、その地には何も残っておらず、このような歴史も忘れ去られることに哀惜の念を禁じえないので、ここに記す。

III.             近代(明治以降)

1. 「上田蚕糸専門学校」が旧制帝国単科大学であったこと示す文部省学校令と掛け軸

(1)文部省学校令

現在、多くの日本人が誤解しているが、戦前の「上田蚕糸専門学校」は、戦後の学制による専門学校や高等専門学校とは全く別物であり、戦前の専門学校は、総合大学(university)に対する単科大学(college)の位置づけであった。明治政府は、フランスの高等教育制度、Université(ユニベルジテ)とGrands Ecoles(グランゼコール:大きな学校という意味)という2本立ての制度をまねて、日本にも東大や京大などの総合大学(ユニベルジテ)とは別に、各種の専門性を持つ単科大学(グランゼコール)を作った。フランスのグランゼコールはナポレオンによって創設され、工学や、土木、化学、教育、政治などをそれぞれ専門とする単科大学として作られた。フランスの高等教育は、今もユニベルジテとグランゼコールが並立しており、一般にグランゼコールの方がユニベルジテよりもレベルが高い。

翻って、明治43326日勅令第66号の法令「文部省直轄諸学校官制」によれば、そのフランスのグランゼコールに相当する日本の諸学校の一覧が第1条に記載されており、次のような学校名が載っている。

東京高等師範学校(現在の筑波大学)

東京高等商業学校(現在の一橋大学)

東京高等工業学校(現在の東京工業大学)

大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)

東京外国語学校(現在の東京外国語大学)

東京美術学校、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)

秋田鉱山専門学校(現在の秋田大学国際資源学部:上田と同じ明治43年創立)

上田蚕糸専門学校(現在の信州大学繊維学部)

東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)

奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)

などである。

(参考文献)

上田蠶絲專門學校一覧 明治四十四年十二月

https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=15244&item_no=1&page_id=13&block_id=45

これを見れば明らかなように、他の諸学校と同じく「上田蚕糸専門学校」も、国家の大きな期待のもとに蚕糸専門の単科大学(College)として創設されていることがわかる。

従って、「上田蚕糸専門学校」は旧制帝国単科大学の一つである。

当時の教員や学生もその認識でいた。その証拠を、下記の教育用の掛け軸で示す。

(2)      掛け軸

https://www.jaici.or.jp/SCIFINDER/jirei/case16_1.html

上の写真とURLは、私が数年前に化学情報協会のインタビューに答えたものである。インタビューの中で、この掛け軸と繊維学部の歴史について私が簡略に説明している。それを下に引用する。

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 平成22年(2010年)に創立100周年記念を迎えた際,開学以来あるレンガ造りの旧貯繭庫(ちょけんこ/カイコのまゆの保存倉庫)をリニューアルして,繊維学部の資料館にすることになりました.そこでいろいろと昔の資料を探していたところ,上田蚕糸専門学校時代に授業で使われていた掛け軸がたくさん出てきました.現在はパワーポイントなどを使って学生に図の説明などを行いますが,当時は掛け軸に解剖図などを書き,それを授業に使っていたのです.当時の授業は英語で行われたそうで,説明文は英語で書かれています.下の方をみると「Ueda Imperial College」と書かれており,上田蚕糸専門学校が帝国単科大学と見なされていたことがわかります.このほかカイコの模型や,養蚕関係の図書,錦絵など貴重な資料を展示しています.

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 以上のように、戦後信州大学繊維学部となった旧上田蚕糸専門学校は、信州大学では、唯一、戦前からの国立(帝国立)の大学であった。従って、松本地区とは歴史を異にしており、繊維学部は、松本地区のように大正8年(1919年)4に創立された「旧制松本高校」を祖としてはいない。来年平成31年(2019年)に松本地区と一緒に信州大学創立70周年、旧制松本高校創立100周年を祝うことには、個人的には、大きな違和感がある。祝賀には協力はするが、歴史を混同しないでほしい。繊維学部はすでに平成22年(2010年)に創立100周年の祝賀会を独自に挙行している。来年の祝賀会では、繊維学部の独自の歴史を明確にして、ちゃんと、記録を残してほしい。

2. しだれ桑と三吉米熊先生

 上田が、蚕(かいこ)の都、「蚕都(さんと)」と呼ばれるようになったのは、明治から昭和初期にかけて蚕業教育に尽力された2人の偉人のおかげである。その一人が、三吉米熊先生である。三吉米熊は長州藩士三吉慎三の子である。父三吉慎三は、槍の慎三と言われ、「寺田屋事件」のとき、龍馬の命を救った。慎三は、龍馬の命の恩人であり、龍馬の親友であった人である。龍馬は慎三を大変信頼していて、自分がどうも暗殺されそうなことを悟って、自分にもしものことがあったら、妻のお龍(りょう)を頼むと、慎三に預けた。

その三吉慎三の子、三吉米熊は、明治22年から24年まで、フランスの蚕都のリヨンに留学し、帰国後、明治255月に開校した長野県小県郡立蚕業学校の初代校長として赴任して、蚕業の育成に努めた。この小県郡立蚕業学校は、蚕業教育において幼年部であるが、さらに高度な教育をする高等部を作るため、上田蚕糸専門学校(:信州大学繊維学部)の創立委員となり、創立に尽力した。明治43年に上田蚕糸専門学校が開設されると、同校教授を併任した。昭和2年に68歳で亡くなった。米熊の功績を顕彰するために、上田城址公園内に米熊の銅像が建っている。この銅像に至る道の両脇には、「しだれ桑」の並木になっている。このしだれ桑は、米熊がフランスのリヨンに留学から帰国の際に、観賞用に持ち帰り、小県郡立蚕業学校と上田蚕糸専門学校に植えたものらしい。上田城址公園には昭和の初めに蚕業学校から植樹された。従って、現在の上田東高校と信州大学繊維学部には、しだれ桑の古木が並んでいる。このしだれ桑は数十年なってもそれほど太くならないので、古木とは一見して分からないが、上田東高校、信州大学繊維学部のしだれ桑は、幹がかなり太く100年を越えているようである。大して太くないように見えるからといって、このような貴重な「しだれ桑」は、誤って伐採することがないように、後進の皆さんに注意を促したい。

上田城址公園の三吉米熊の銅像としだれ桑      繊維学部キャンパス内のしだれ桑

 この「しだれ桑」は、日本の他の地域では見たことがなく、上田を代表する木なので、前母袋上田市長が、三吉米熊の関係から、上田市と下関市とが姉妹都市になるとき、下関市に持って行って植樹した。

(参考文献)

三吉米熊の略歴:http://museum.umic.jp/jinbutu/data/030.html

三吉米熊としだれ桑の謎http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s24.htm

3. 繊維学部の前身上田蚕糸専門学校開学の祖、針塚長太郎先生と針塚賞

 上田が、「蚕都」と呼ばれるようになったのは、明治から昭和初期にかけて蚕業教育に尽力された2人の偉人のおかげである。上には三吉米熊先生のことを記した。もう一人の偉人が、針塚長太郎先生である。

 針塚長太郎は、明治29年(1896年)7月に東京帝国大学農学科を卒業後、文部省の官僚となり、その在任中にアメリカとドイツに留学した。上田蚕糸専門学校設立が計画されると明治41年(1908年)に創立委員長に任命され、明治43年(1910年)に上田蚕糸専門学校が設立されると、その初代校長として赴任した。昭和13年(1938年)3月に退職するまでの28年間の長きにわたって、校長を務め、蚕業並びに繊維学の教育に尽力し続けた。その学識及び人品は、上田蚕糸専門学校の在校生や卒業生、上田市民から多大なる尊敬を集めた。書道に優れ、上田市内には針塚先生の墨跡による石碑が、少なくとも14か所、以下のように確認されている。これらは、私が上田市内をくまなく歩いて見つけたものである。

01信大繊維学部内蚕霊供養塔

02常田区毘沙門堂門碑

03横町公会堂前太神宮献灯

04中央東愛宕神社境内

05上田城三吉米熊後背銘板

上田蚕業界の2人の偉人のうち、三吉米熊が先に亡くなり、その追悼と顕彰を、もう一人の偉人の針塚長太郎が書いたものである。

06上沢公民館横碑

07荒井宅内(林之郷329-1)功農碑針塚先生撰文

碑文の文章は針塚先生撰文。墨跡は違う。
この碑の除幕式の時出席されていた針塚先生の写真が荒井家に残っており、これを荒井氏に、私は見せて頂いた。

08丸子塩川坂井信号近横堂笹澤先生之碑

09丸子公園内下村碑

10築地区弓立神社横上野翁堂碑

11築地区弓立神社社殿改築記念碑

12沢山湖記念碑

13矢沢公園内蚕霊供養之塔

14蚕養国神社(こがいくにじんじゃ)の石柱

大星神社境内の左手には、上小蚕糸業同盟会が造営した養蚕国神社が祀られている。その蚕養国神社の石柱は、初代上田蚕糸専門学校長 針塚長太郎筆による。

 繊維学部内メインストリートの横には、針塚長太郎先生の銅像が飾られている。平成21年(2009年)929に撮影した右の写真は、その銅像と御子孫である。この銅像の右手の人物は、上田市在住の孫:K様、左手の人物は、神奈川県在住の曾孫:S様である。S様は、曾祖父針塚長太郎先生が、留学したドイツのフンボルト大学に、約100年後同じそのフンボルト大学に留学している。大学主催の歓迎パーティーの挨拶のとき、そのことを話したら、学長が後に針塚長太郎の古い学籍名簿を探し出してきて、Sさんに見せてくれたとのことであった。100年後同じ大学に曾孫が留学するという大変珍しい例を聞いて、極めて感動した覚えがある。因みにSさんは英語、ドイツ語、中国語に堪能な才媛である。

 針塚先生の名前を冠した「針塚賞」は、戦前、上田蚕糸専門学校の全学科卒業生の中で最優秀の者1名を表彰する制度として、かつて行われていたそうである。しかし、戦後はそのような賞を授与することがなくなってしまい、60年という長い年月がたった。そのためそのような表彰制度があったことさえほとんどの教職員が知らなかった。平成17年(2005年)3月に復活するまでの23年前から、学生の表彰制度が教務委員会で議論されてきて、最終的に名称が「針塚賞」となった。議論の過程で昔の表彰制度のことを知っていた人は皆無であった。それで本当に全くの偶然で同じ名称が付けられた。これは、初代校長針塚長太郎先生が非常に偉かったというのは、多くの人が知っていたからであろう。針塚先生の御遺族の方にこの賞の復活のことを当時の学部長がお話ししたところ、大変喜ばれたとのことであった(平成1832日八森学部長談)。また、学内メインストリート中央脇の針塚先生の銅像と名盤が、それまでの数年間台座から外されていたが、平成18年(2005年)3月の卒業式までに間に合うよう、平成17年(2004年)9月に復元された。その卒業式で「針塚賞」を受賞した卒業生が、ここで記念写真を賞状とともに撮っていたのを思い出す。また、針塚先生の銅像の復活は、OBの方々に昔のキャンパスをしのぶよすがとなっている。

(参考文献)

針塚賞と毘沙門堂http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s12.htm

4. 和田仙太郎先生の剣道と幕末三筆の鑑定、先生寄贈の文久3年(1863年)製日本最初の英和辞典

上田蚕糸専門学校が開設されてすぐ、東京帝国大学出身でフランス留学を終えて帰国した和田仙太郎先生が、英語教師として赴任された。和田先生はもともと英語が専門であったが、蚕の研究を志していて、そのためには蚕業研究の先進国のフランス語の修得も必要ということで、フランスに留学されたそうだ。このように和田先生は、英語とフランス語の両方に堪能で、上田蚕糸専門学校では英語を学生に教える任に当られた。現在、94歳になる信州大学元学長昭和56[1981]1110日から平成元年[1989] 19日まで在任)北條舒正(のぶまさ)先生は、戦前、上田蚕糸専門学校の学生のときに、この和田先生から英語を習ったという。背の高い方だったそうだ。フランス語の方は、針塚校長先生をはじめ教員に教えていたという。また、和田先生は、福島県出身の士族で剣道に秀でていたため、上田蚕糸専門学校と旧制上田中学の剣道部の師範もしていた。さらに、書の鑑定にも秀でており、特に、幕末の三舟である勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の書の鑑定では右に出る者がいなかった。

信州大学繊維学部には、山岡鉄舟直筆の一双の屏風があるが、なぜここにこの屏風があるのか、不明だったので、私が繊維学部図書館長のときにその由来を図書館で調査した。私は古い退職教員に聞いたが不明であった。元繊維学部長の田中一行先生に電話をかけてお聞きしたときに、お答えは「そのころ生きていなかったから自分は知らないが、最も古くてご存命の北條元学長に聞いたらどうか。」との示唆を受けた。北條先生も、戦前すでにこの山岡鉄舟の屏風があることは聞いていたが、その由来については知らないとのご返答で、調査は暗礁に乗り上げてしまった。そうこうしているときに、繊維学部図書館職員の武居総子さんから、昭和26年(1951年)の和田仙太郎先生の蓋棺録に、「和田先生は、書の鑑定にも秀でており、特に、幕末の三舟、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の書の鑑定では右に出る者がいなかった。」との趣旨の記事があることを発見されたとの連絡を受けた。このことから、おそらく、和田先生が関与して、この山岡鉄舟の屏風がここにあるのであろうという推測で調査の幕を閉じた。後進の解明を待つ。

このように、繊維学部は非常に歴史が古く、貴重な文化財がたくさんある。和田先生関係では、もう一つ忘れてはならない日本最初の英和辞書の寄贈がある。幕末の文久3年(1863年)に、日本で最初の英和辞書「英和対訳袖珍辞書」が発行された。この本は現在日本に数冊しか残っていないそうだが、そのうちの3冊が繊維学部にある。これらは、和田仙太郎先生が昭和20年(1945年)6月に寄贈されたものである。これらの貴重な蔵書が、雨漏りのする老朽化した建物中に置かれている現状に、繊維学部図書館長として大変心を痛めていた。

文久3年製日本最初の英和辞典:「英和対訳袖珍辞書」

新しい研究用の建物には予算が付きどんどん建てられていくのだが、古い貴重資料をきちんと保管するアーカイブス館には、予算が付かず放置されている間に、これらが煙滅していくのではないかと心配している。千曲会理事の石坂さんと私の連名で、繊維学部アーカイブス館を、機能高分子棟西側の空地に、ぜひ建設してもらいたいと書面や公聴会で学長に述べてきた。私は、これらを実現する前に定年が来てしまったので、後進の繊維学部の教員の方々に、引き続き、建設に向けて運動を行ってもらいたいと思い続けている。

(参考文献)

和田先生フランス留学の理由:https://monsieurk.exblog.jp/20930949/

和田仙太郎先生逝かる:1951年千曲會報第424-5

https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=14957&item_no=1&page_id=13&block_id=45

5. 繊維学部内にある歴代天皇陛下にちなんだ石碑、樹木

繊維学部内には、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、今上陛下(平成天皇)にちなんだ石碑や樹木がある。

(1)旧千曲会館の庭園内に「御真影奉安殿」という刻銘のある石碑。これは明治時代の開学以来あった「御真影奉安殿」に対し、卒業生が開学10周年記念に建てた石碑である。明治天皇、大正天皇、昭和天皇の御真影を飾っていたものであるが、戦後GHQの指示により、御真影奉安殿そのものは取り壊され、石柱のみが残った。

(2)機械工場裏、現在の千曲会館へ出る出口脇に建つ「記念碑」との刻銘のある石碑。この石碑の裏面に、大正天皇御即位に際し教職員の寄付によりこれが建てられた旨が書かれている。

(3)繊維学部講堂対面にあるヒマラヤスギの大木。

昭和天皇が皇太子時代の大正8年(1919年:旧制松本高校が開学した年)にお手植えされたもの。来年ちょうど100年周年となる。
全国の大学で、このように昭和天皇が皇太子時代にお手植えされた樹木は、私が調べた限り6か所あるが、大木になって今も大学のシンボルになっているのは、次の3か所。

・この信州大学繊維学部のヒマラヤスギの大木

・鹿児島大学正門わきにある銀杏の大木。大正91920年)、当時皇太子だった昭和天皇が農学部の前身、鹿児島高等農林学校(ここも日本版グランゼコールの一つ)に行啓、植栽された記念樹、

台湾台南市成功大学のガジュマルの大木。昭和天皇(皇太子時代)大正12年(1923年)にお手植え。台湾は当時日本領だった。戦後も、台湾の京大と言われている成功大学では大事にされ今に到っている。

(4)元学部長の白井芳汪先生から聞いた話では、講堂の横にある柏の木も、昭和天皇のお手植えという。このことは白井先生が、古い先輩から聞いたという。調査のうえ、不用意に切られないように保護が必要である。

(5)2年前の平成28年(2016年)8月、今上陛下と皇后陛下が繊維学部に行幸され、繊維学部資料館を見学された。それを記念して資料館前に石碑が設置されている。また、モミジの木を、繊維学部では記念に植えることに決まっているがまだ実現されていない。

 全国の大学で、このように、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、今上陛下にちなんだ石碑や樹木がそろってある大学は、この信州大学繊維学部をおいて他にない。

6. 巡視秋山善行翁のレリーフ

昭和天皇お手植えのヒマラヤスギの大木の東隣に、人の顔のレリーフがついた石柱がある。レリーフの下には「巡視秋山善行翁」となっており、この石柱の裏には「至誠動人」の刻銘がある。この刻銘達筆すぎて読めなかったので、書道の達人に読んでもらって初めて「至誠動人」と書かれていることが分かった。

 古い言葉で巡視、もう少し現代風に言うと守衛さん、今の人にはガードマンという方がわかりやすいが、繊維学部ではガードマンの方が正門の守衛と夜校舎の巡回を担当されている。私が繊維学部に赴任した昭和57年当時には、2名の守衛さんが雇われていた。その後数年して、その方々が定年退職した後は、外注、つまりアウトソーシングとなったため、現在繊維学部のガードマンの方々は信州大学の正職員ではなくなっている。

 秋山巡視という方は、上田藩士だった人で、武芸に秀でるも学生に対し極めて温厚誠実で、多くの学生から慕われた。「花は桜木、人は武士」というが、人の鑑のような人物であった。そのため、その秋山巡視を忍んで、このようなレリーフ付きの石碑が昭和の初めに建てられた。その人となりは、昭和7年(1932年)815日発行の千曲時報、第29号に詳しく、読む人に感動を与えずにはいられない。

(参考文献)

巡視秋山善行翁:昭和7815日千曲時報、第29

https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=15119&item_no=1&page_id=13&block_id=45

(これは繊維学部図書館の寺澤真由美係長が平成28年(2017年)6月に膨大な資料の中から発見されたものである。)

7. 沖縄出身の卒業生、緑間武さんと寄贈された石造物

 信州大学繊維学部の正門前には、沖縄県出身の卒業生、緑間武さんから寄贈された巨大な石造りの看板があり、訪問者のよい目印となっている。緑間さんは母校愛の大変強い方であり、開学80周年などという記念の年に、それぞれ、石造物を寄贈されている。私の知る限り、次の三つが緑間さんから繊維学部に贈られている。

(1)現在は、生協マルベリーホールと総研棟の間にある広場の中に移設された、石で出来た地球儀のよう球形のオブジェ(創立80周年記念:1990年)。

(2)繊維学部図書館と講堂の間にある芝生の中に建つ石灯籠と水鉢

(3) 繊維学部正門前の巨大な「信州大学繊維学部」と刻銘された重さ10トンの石造りの看板

 緑間武さんは、現在ももし生きておられたら100歳に近い年齢になる方で、出身は沖縄本島のすぐ近くの津堅島(つけんじま)である。

製糸学科の同窓会誌の「信州大学繊維学部 製糸科物語 p81-83.」に、緑間さんの手記が載っている。これを読んで、なぜ緑間さんは母校愛が強いのかよくわかった。

緑間さんは、戦前、沖縄本島から4キロ離れた小島の津堅島(つけんじま)の大秀才で、昭和18年(1943年)、島始まって以来初めて本土で高等教育を受けるため、島民200人全員が港でどらや太鼓でこの前途有為の青年を見送り、全国から秀才の集まる「上田蚕糸専門学校」に送りだした。津堅島を出てから6日かかって信州の上田に着いたところ、46日というのに大雪で、初めて見る雪に耐えられないくらい寒い。学生寮の修己寮でぶるぶる震えながら初めての夜を過ごした。入学式が終わり、物理の講義の第1日目、教授は、Introduction, Chapter One…と英語で講義を始めたので、全く面喰ってしまった。講義について行けず、思い悩み、1カ月して、退学を決意して両親に手紙を送った。両親から、「悲しいこともあるだろう。辛いこともあるだろう。しかし、じっと我慢して頑張れ。それが男だ。」と、退学に猛反対されたという。気を取り直して必死で勉学に頑張った。ところが、戦局はますます緊迫して、緑間さんは昭和19年(1944年)11月に第2次学徒出陣で出征した。出征前に講堂の前で、出征する学生たちは黒い学生服に学帽、白い襷にゲートル、片手に鉄砲という姿で集合写真を撮った。その写真が今も残っており、平和な現在、この同じ見慣れた講堂の前で、75年前には、同じ年齢の若者が出征して行ったのだと思うと、感無量になる。緑間さんは、南支、仏印の激戦を潜り抜け、マレー半島で終戦を迎えた。クアランプールやシンガポールなどで苦しい捕虜生活を送ったのちに、昭和22年(1947年)5月にシンガポールから日本に復員することになった。復員船で故郷沖縄の横をとったとき、沖縄が全滅したと聞かされ、絶望的な気持ちになった。そこで上田までとにかく帰ってきたら、ものと下宿の伯父さんの香山さんが、「よく生きて帰って来た。沖縄は全滅したから、沖縄に帰っても仕方がない、上田蚕糸専門学校に復学して卒業しろ。学費は俺が出すから。下宿代もいらない。」と言われた。津堅島は、沖縄でもとくに激戦地で島民は昭和24年(1949年)まで帰島が許されなかった。そのため、もう島民や両親からの経済的援助が期待できるはずもない。学費は下宿の伯父さんが払ってくれるというが、生活費が全くない。そこで多くの同級生や母校教官からの援助を受け、さらにあらゆるアルバイトをして糊口をしのいだ。別所温泉でサングラスをかけ笛を吹いて按摩のアルバイトもしたという。暖かい母校や上田の人々のおかげで自分は何とか卒業できた。緑間さんは、昭和18年(1943年)4月製糸科入学者40人中、最も遅れて卒業した人であった。その後、沖縄に帰って昭和33年(1958年)石材加工会社「沖縄関ヶ原石材」を立ち上げて、事業に成功して今日に至っている。緑間さんは、このときの上田の母校や市民の恩に報いるため、信州大学繊維学部開学80周年などという記念の年には、それぞれ、石造物を寄贈されているのである。

(参考文献)

信州大学繊維学部 製糸科物語 p81-83.

8. 卒業生上野正美さんの助命嘆願と渡辺はま子の「あゝモンテンルパの夜は更けて」

 皆さん、渡辺はま子さんが昭和27年(1952年)に歌って大ヒットした「あゝモンテンルパの夜は更けて」という曲を知っているだろうか。もう、多くの日本人が知らない時代が来てしまった。繊維学部の卒業生とも非常に関係している話なので、ここに取り上げ、多くの皆さんに語り継いでもらいたいと思う。

フィリピンでは終戦後、旧日本軍の将校ら137名の人たちが、BC級戦犯として長く捕虜として収容され、死刑を待つばかりになったが、この歌が、きっかけで彼らにフィリピン大統領から恩赦が下り、命が救われた。その一人に、上野正美さんという方がおられる。上野正美さんは、上田蚕糸専門学校養蚕科を昭和18年(1943年)9月卒業されて、その10月に1次学徒出陣で出征されたようだ。非常に優秀な方だったので、軍でも将校として、フィリピンで戦闘の指揮に当たられた。そのため、戦闘を現場で指揮した日本人将校らは、具体的な戦争犯罪がなくても、BC級戦犯として死刑の判決を受けた。それは、フィリピンの多くの国民がこの戦争で無念の死を遂げた、その怨恨が彼らに死刑をという声となったものだった。昭和27年(1952年)にサンフランシスコ条約が調印され、戦後処理が終わったように日本国民が思っていたその年までに、フィリピンでは17名の死刑が実施され、100名を越える残りの人々は、いつ死刑が実行されるかわからない絶望の淵で、死刑を待つばかりになっていた。日本国民も多くがこの人たちのことを忘れてしまっていた。

歌手の渡辺はま子はそのことを知り、収容所で作詞作曲された歌を見て、すぐにレコード会社に持ち込んでレコードにした。大ヒット曲となり、多くの日本人が、モンテンルパに残された同胞のことに気づいて、全国的な助命嘆願運動がおこった。歌の力は偉大である。また、渡辺はま子は、まだ国交のないフィリピンに、密入国までして、マニラ近郊にあるモンテンルパの収容所に、慰問に行き、彼らの前で着物姿で日本の曲を歌った。最後の曲に、彼らが作詞作曲したこの曲「ああ、モンテンルパの夜は更けて」を歌うと、みんな涙を流して、一緒に歌ったという。渡辺はま子の勇気ある行動は賞賛すべきものである。フィリピンで密入国者として逮捕され監獄行きになる恐れがあったのにもかかわらず、このような慰問を、政府とは関係なく独自に行ったのである。このことは映画やテレビドラマにもなったので、ご覧になった方もいるのではないかと思う。

上野正美さんは、この渡辺はま子の慰問を受けた一人なのである。モンテンルパで死刑囚として収監されている間に、名古屋の高校生と手紙のやり取りもしていた。その中で、上野さんは、「出来ることなら君のような若い世代の人と共に平和日本の建設をしたいと思います。」と書き送っている。

このとき繊維学部の同窓会の千曲会では、全国の卒業生に呼び掛けて、上野正美さんの助命嘆願活動を行っている。それが、上の第4項で書いた「和田仙太郎先生の蓋棺録」の記事が出ていた1951年千曲會報第42号の5頁に「上野正美君助命減刑運動」として載っているのを、私は偶然見つけて驚愕した。繊維学部の同窓会は、こんな活動までしていたのだと思った。「モンテンルパの夜は更けて」の歌で助命活動をした渡辺はま子さんのことは知っていたが、身近な繊維学部の先輩が、この死刑囚の中にいたことをその時初めて知ったからである。上野さんは私の親父と同じ年代の人たちのことなので、この記事を読んで目が潤んだ。

「モンテンルパの夜は更けて」の歌で、もう一つどうしても忘れてはならない話がある。遠い話ではない。話は終わってはいなかった。今から3年前の平成27年(2015年)8月の終戦記念日に、前川治助さんという方の娘さん(当時76)の話が新聞に載った。前川治助さんも上野正美さんとともに死刑判決を受けて収監されていた。前川さんには妻と子供が3人いたが、戦後戦死公報を受け取った妻は、周囲の勧めもあり再婚した。ところがその後、前夫の前川治助さんがモンテンルパで死刑判決を受けながらも、生きていることがわかった。娘さんの話によると、「お母さんは大変苦しみましたが、新しいお父さんの方が自ら身を引き、前のお父さんの前川治助さんの元へもどり、また家族が一つになったのです。」とのことであった。戦争で引き裂かれた夫婦と家族の苦悩に涙が出る。また、再婚相手の男性の潔さに感動する。

本学の卒業生の上野正美さんも恩赦を受けて、日本に生きて帰って来られた。上野さんは、晩年、このときのことを本にまとめられ、「荊の青春 : モンテンルパから生還した一学徒兵の手記」として平成4年(1992年)に出版されている。その後しばらくして、平成12年(2000年)に上野さんは埼玉の実家で亡くなられている。

 上野正美さんのことは、繊維学部の歴史の一つとして是非語り継いでいってもらいたいと思う。

(参考文献)

上野正美さん助命減刑運動:1951年千曲會報第42号5頁

https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=14957&item_no=1&page_id=13&block_id=45

渡辺はま子の歌「あゝモンテンルパの夜は更けて」:https://www.youtube.com/watch?v=mPsozoEC9bE

いなほ随想:http://www.kodairatoumonkai.com/nazca/inahozuisou/igaki_akira/montenrupa_senpanshikeisyuuto_kouryuu.html

上野正美/著「荊の青春 : モンテンルパから生還した一学徒兵の手記」、産学社, 1992.

以上は、信州大学繊維学部の歴史に関連して、私がこれまでに知りえた記録や口伝についてまとめたものです。これらは、多くの人が忘れ去ってしまっているか、知らないことで、煙滅しないようにここに記録しました。上田市民の方々や信州大学、特に繊維学部の関係者の皆さんに、御一読の上、語り継いで頂けば幸いです。


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