針塚賞と毘沙門堂

                       信州上田之住人
太田 和親 
2004215日随筆
                        2004217日加筆修正
                        200431-2日加筆修正
                        2004613日加筆修正
   2004911-13日加筆修正
20041115日加筆修正

  信州大学繊維学部では20043月の卒業式から、各学科1名、学業人物共に最も優秀なる卒業生を、顕彰するために「針塚賞」1を授与することとなりました。この賞の由来は、繊維学部の学祖、つまり上田蚕糸専門学校の初代校長の針塚長太郎先生に因んでいます。

  針塚先生は大変に立派な方で、当時の勅任官、つまり天皇陛下の勅令により赴任した校長先生であった様です。そのため、従三位を、後に正三位を、国から授けられています。昔、私の高校の化学の先生は、戦前の広島高等師範学校卒で、勅任官だと言われていました。戦後生まれの私達にはよく解らなかったので、同僚の老先生に説明して頂いたところ、勅任官というのは、天皇陛下の御命令(=勅令)により、任官するもので、この場合任官と同時に、従五位とかの身分も与えられるのだと言うことでした。従って、勅任官というのはエリートというのと同義語であったと言うことでした。これは、奈良時代や平安時代から続く国家公務員のキャリア組を処遇する制度だったのだそうです。確か、今もこの制度は生きていると思います。昨年イラクで亡くなった奧大使も、殉職に報いて、はっきりとは覚えていないのですが、従四位とか何かを与えられたはずです。

  このように針塚先生は勅任官で大変立派な方でした。同時に大変教養のある方で、書は誠に達筆でした。大教養人は達筆であるというのが、日本語のワープロが出来るまでの2000年間近く、万人の認める基準でした。先日、信州大学繊維学部図書分館の季刊紙Library< http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/seni/online/no49/1.html>に書かせて頂いたように、針塚先生の揮毫の書は繊維学部キャンパス内に、私の知るところ、2つ残っており、1つは農場の建物脇にある石碑「蚕霊供養塔」、もう一つは旧千曲会館の一階日本間にある掛軸「啄徒啄師(たくとたくし)」です。どちらも、実に流麗達筆で、大変感心します。

  最近、日頃の運動不足を解消するために、私は休日テーマを決めて市内を長時間散歩しています。車に乗らず自身の足で、市内を歩き回ると、本当に色んなことを発見します。先ず、一ヶ月くらいは水辺を歩くのをテーマにして歩き回りました。市内の常田池や矢出沢川に、冬、沢山の鴨が飛来して越冬していることや、美しく歴史を感じさせる矢出沢川には、何と鴨ばかりか、大きな錦鯉も泳いでいることなど、今まで20年以上も上田に住んでいて全く知らなかったことなどがわかり、大変散歩が楽しいものとなっています。先日は、市内の神社仏閣をテーマに歩き回りました。

  そこで、針塚先生の書を3つ、上田市内で偶然発見して大変驚きました。繊維学部のキャンパスの外でも3カ所、針塚先生の書が残っているのです。1つは、国分の上沢公会堂前の公徳碑の題字と本文です。本文横に「昭和十六年四月 正三位勲一等針塚長太郎撰並書」と明記されているのでわかります。もう一つは、シナノケンシの社屋が丁度見下ろせる丘の上に建つ愛宕神社、その中にある石碑です。昭和九年の愛宕神社改築記念碑の「記念碑」という大きな書が針塚先生の手になるものです。この書の横にも「従三位勲二等針塚長太郎敬書」と明記されています。さらにもう一つは、常田地区にある毘沙門堂の入口に建つ石柱2本のうちの1本です。右の石柱がそうで、「指定保存史跡 毘沙門堂阯 長野縣」という書です。石柱側面に昭和六年五月に建てられたとありました。その反対側の石柱側面には「従三位勲二等針塚長太郎書」とやはり明記されているので判りました。

  ところで、この毘沙門堂は、私は今まで知らなかったのですが、「信州の松下村塾」2と言ってもいい、日本の歴史上、大変重要な所だったようです。何故か余りにも知られていないのが残念に思う程でした。幕末に活文禅師という大学者のお坊さんが、ここで私塾「多聞庵」を開き千余人もの弟子を教えました。その中に幕末活躍した偉人佐久間象山(松代藩士、後に吉田松陰や勝海舟を教え、攘夷派に暗殺される。)や、英国式兵学者の赤松小三郎(上田藩士、京都で薩摩藩士に暗殺される。詳しくは季刊紙Library<http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/seni/online/no51/1.1.html>)らが、この活文禅師の高い学識を慕って集まり、勉学に精励したというのです。活文禅師は長崎や江戸で学び、和漢蘭の三つの学問に通暁していたようです。そして、伝えられるところによると、活門禅師は、日本の詩文ばかりか中国語もぺらぺらで、さらに蘭学による天文数学も出来て、一弦琴も弾いて教えたし、彫刻も一流で、これら全部をたった一人で教えたのだというのです。レオナルド・ダ・ビンチみたいな人ですね。そして、弟子の佐久間象山とは深い師弟愛で結ばれていたそうです。碑文によれば、佐久間象山がさらに江戸に出て学問を究めることにしたとき、出発前にこの私塾を訪ね、一夕恩師の活文禅師と共に詩歌を詠み、また大いに語り合ったそうです。そんな有名な人を教育した大学者がこんなひなびた所にいたのかと思うと、大変感動しました。もっと日本国中に有名になってもいい史跡と思いました。さかのぼると、吉田松陰→佐久間象山→活文禅師という流れが見えてきます。つまり、松下村塾をたどると、この信州上田の毘沙門堂が源になるのです。皆さん、ここが日本国中にもっと有名になっていいと思いませんか?

  この活文禅師が亡くなって、八十年ほど過ぎた昭和の初期、常田地区の方々が、禅師が大教育者であったことを顕彰するために、ここに碑を建てました。そして入口には史跡であることを示す、石柱があり、この文字を、後世の大教育者であった針塚先生に頼んで、書いてもらったらしいのです。針塚先生が如何に当時の市民からも敬愛されていたことを示す出来事ではないかと、私は1人、毘沙門堂の前で思いました。

  なお、境内には、二つの碑、「鳳山禅師追福之碑」と「龍洞鳳山禅師碑文」があります。2つとも昭和3年に常田地区の有志の方々の募金で建てられています。追福之碑は、漢文書下し文の名文で、読んでみると、大教育者の人格を彷彿とさせ、大変感動します。また、禅師碑文には、何と佐久間象山の直筆の篆額(篆字による表題)が揮毫されています。こんな所に幕末の偉人の直筆があるなんて、何で今まで知らなかったのだろうと、悔やむほど感激します。針塚先生も、きっと二人の偉人の学識に感激して入口の石柱の書を引き受けられたのではと思いました。
「針塚賞」1が信州大学繊維学部に20043月から復活されたのを機に、以上のことを皆様にも是非知って頂きたく筆を執りました。毘沙門堂は信州大学繊維学部からも近くです。教職員の皆様、あるいは学生大学院生の諸君、是非、訪ねてみてください。

補足

1)  「針塚賞」は、戦前、上田蚕糸専門学校の全学科卒業生の中で最優秀の者1名を表彰する制度として、かつて行われていたそうです。しかし、最近までそのような表彰制度があったことさえほとんどの教職員が知りませんでした。2〜3年前からこの表彰制度が議論されてきて、最終的に名称が「針塚賞」となりました。議論の過程で昔のことを知っていた人は皆無でした。それで本当に全くの偶然で同じ名称が付けられました。これは、初代校長針塚長太郎先生が非常に偉かったというのを、多くの人が知っていたからでしょう。針塚先生の御遺族の方にこの賞の復活のことを学部長がお話ししたところ、大変喜ばれたとのことでした(200432日八森学部長談)。また、学内メインストリート中央脇の針塚先生の銅像と名盤が、ここ数年間台座から外されていましたが、20053月の卒業式までには間に合わせて復元されることが、20043月の教官会議で決まりました。そして、20049月に復元されました。今度の卒業式には、「針塚賞」を受賞した卒業生は、ここで記念写真が撮れることでしょう。また、OBの方々には大変なつかしい像として昔のキャンパスをしのぶポイントとなることでしょう。

2)  毘沙門堂入口脇に、戦後の上田市教育委員会による、史跡指定の説明文が建っていますが、文中にここを単なる「寺子屋」としているところが、大いに誤解を招いているのではないかと思います。佐久間象山や赤松小三郎等を輩出しているほどの、学識を授けた場所を、単なる「寺子屋」では誤解されて当然ではないでしょうか。「寺子屋」を少なくともやめて「私塾多聞庵」と表記するべきだと思います。「鳳山禅師追福之碑」には、「常田ノ毘沙門堂ハ即チ先賢問道處ト称スヘキナリ」とあり、和学漢学蘭学を教えた「松下村塾」のような私塾で「先賢問道處」あるいは「信州の松下村塾」と、説明文を訂正すべきでものと思いますが、皆さん如何でしょうか?



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