三吉米熊としだれ桑の謎

 

信州上田之住人和親

2009109日随筆

2011816日加筆

201311日修正

 

 どなたか上田東高校の前身の小県蚕業(ちいさがたさんぎょう)学校の初代校長三吉米熊と「しだれ桑」の関係を知っているはいませんか。

突然こういうことを言われても皆さん質問の意味がわからないと思いますので、順を追って以下に説明します。

 

信州大学繊維学部の先生は、県内の高校から信州大学繊維学部を受けてくれる高校生が増えるよう、3人くらいのチームを組んで秋ごろにチーム割り当ての高校を回って受験案内を行っている。いわゆる企業努力の一環である。村上泰先生と渡邊真志先生と私の3人がチームとなって、上田高校、屋代高校、上田染谷高校、それに上田東高校の4校を訪問することになった。今日は、高校訪問の最後の4校目として上田東高校へ、3人で信州大学繊維学部講義棟前に1245分に集合してから一緒に歩いて行った。上田東高校は繊維学部のすぐ隣にある。

上田東高校は、実は信州大学繊維学部よりも創立が20年ほど古く、明治24年にできた。ここが蚕糸教育のための幼年学校で、初代校長先生は、フランスのリヨンで蚕糸学を修めてきた三吉米熊という人である。この人のお父さんは「槍の慎蔵」といって幕末活躍した人で、長州(現在の山口県)下関出身で、坂本龍馬の親友だった人である。龍馬が、自分が暗殺されそうな事を悟り、自分が死んだら、妻のお龍(りょう)を頼むと手紙で頼んだ相手である。上田にはこの慎蔵の曾孫(ひまご)の三吉治敬さんが今も在住しており、お家に龍馬の手紙が多数残っているそうだ。この慎蔵の息子が米熊で、上田東高校の前身の小県蚕業学校の初代校長である。また、この米熊は、信州大学繊維学部の前身の上田蚕糸専門学校を作った立役者である。中心的設立メンバーだった。米熊は専門学校が設立された当初は、専門学校の教授もしばらく兼任していた。昭和2年に亡くなった時、蚕都上田の恩人の死を惜しんで、上田城址公園内に銅像が建てられた。今も、上田城の二の丸橋から真っ直ぐ正面を入ったところに銅像が建っている。この銅像の前の銘板には、信州松本藩出身で明治の初代文部次官辻新次の書で、功績の説明文があり、裏面の壁には上田蚕糸専門学校の初代校長の針塚長太郎先生の書の銘文もある。針塚先生は、上田蚕糸専門学校が明治43年に開校され翌明治444月から入学生を受け入れ以来、24年間校長を務めた我が信州大学繊維学部の学祖である。したがって、蚕都上田は、三吉米熊と針塚長太郎の2人の偉大な蚕業教育者によって支えられたといえる。彼らが設立した学校が、幼年部としての小県郡蚕業学校で現在の上田東高校と、高等部としての上田蚕糸専門学校で現在の信州大学繊維学部である。したがって、上田東高校と信州大学繊維学部はもともと兄弟の学校であった。それで今も隣同士であるのだ。

本日は、東高校からも信州大学繊維学部を受験してもらうよう、我々3人は入試案内に行ったというわけである。3人で、午後1時から約30分間、入試の説明を東高校進路指導主事の櫻井先生に行った。説明が終わりよろしくお願いしますと言って校舎を出て、3人で東高校正門に向かって左に建っている「校基百年」の石碑を見た。この碑文は海部俊樹元首相の書である。私は、村上先生と渡邊先生に、この石碑の裏面に校歌が刻印されていることを話し、裏に回って、これは土井晩翠が作詞したものですと説明した。お二人は知らなかったようで有名人の作詞にびっくりされていた。繊維学部大会議室にも土井晩翠の直筆の書が飾ってある。

3人で東高校からスーパーつるやを抜け、繊維学部まで帰ってきながら、私は三吉米熊について語った。そして繊維教育実験実習棟わきに一列に並んで植えられている「しだれ桑」を見ながら、私が約30年前に繊維学部へ赴任した時に聞いた「しだれ桑」の歴史についても話した。私が赴任した時、学部長は長島先生であった。当時は古き良き風習が残っていて、新任の若い先生は古参の先生に連れられて、全学科の先生方のところを回り、紹介され挨拶をして回ったものだった。私は、山本巌先生に連れられて回った。そのため、キャンパス内では教官はお互い全員顔を知っていたものだった。現在、この風習が途切れていて残念だ。最近キャンパスを歩いていても知らない人が多いし、お互いに知らん顔して通り過ぎてしまうのはさみしい限りだ。話が横道にそれたので、元に戻すと、挨拶回りはしたのだが、学内の建物や植物の歴史については全く知らなかった。しばらくしたころ、停年直前の松田英臣先生から、声をかけられ、キャンパス内を知らないのなら私が案内してあげようと昼休みに親切に連れて歩いて説明してくれた。その時の一つとして、「しだれ桑」はこの大学の前身の上田蚕糸専門学校が設立されたころ、フランスのリヨンに留学した人が、観賞用にフランスから持って帰った大変珍しい植物だとの説明を受けた。上田では「しだれ桑」は方々で見るので珍しくはないが、他では全く私は見かけたことはない。昨年の平成202008)年5月、米熊の出身地山口県(長州)の下関市とここ長野県上田市が姉妹都市になったとき、これを記念して母袋(もたい)上田市長が「しだれ桑」の苗木を下関に持って行って植樹した。それくらい珍しい上田を代表する植物なのだ。私はこの「しだれ桑」を持って帰ったフランス帰りの人は、誰だったのかといつも考えているのだが、誰に聞いても誰も知らない。その人のことよりも、まず「しだれ桑」のことさえ、ほとんどの人が知らない。私は「しだれ桑」を留学先のフランスリヨン市から持ち帰ったのは三吉米熊その人ではないかと考えている。

 

どなたか「しだれ桑」と三吉米熊の関係を知っている人はいませんか。


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