戦後のRecreation and Amusement Association
信州上田之住人
太田 和親
2007年9月30日随筆
2008年3月2日修正
1982年頃の話である。その頃私は東芝に勤めていて東京の山手線に乗っていた。そこへ、黒人の若者一人と初老の日本人の女性二人、その弟らしい日本人男性一人が乗り込んできた。女性二人は五十七・八歳くらい、その弟は四十七・八くらいで、黒人の若者は二十歳から二十五歳くらいに見えた。この弟は今北関東のどこかに住み、それ以外は全員アメリカに住んでいて、何十年かぶりに日本に帰国したらしい。弟はアメリカ帰りの姉さんとその息子や友人を東京見物に連れて案内しているという風であった。黒人の若者はその日本人女性の息子らしかった。彼だけは日本語が判らないようで、つり革につかまり、他の三人が日本語で盛んに終戦直後の進駐軍の思い出話をしているのをつまらなそうに眺めていた。彼らはすぐ私の横にいたので会話が全部聞こえてきた。二人の初老の日本人女性は、終戦直後、仙台の米軍キャンプで生活し、アメリカ人の旦那とその後結婚して渡米した。あの頃日本は貧しかったが、私がいた仙台のキャンプの生活は別世界で豊かだった、本当によかったと思い出を話していた。私は聞いていて、何だか悲しくなった。その時の気持ちをうまく言えないが、日本人の若い女性が生活のために日本を捨ててアメリカにすり寄っていったような気がしたのだった。男が戦争に負けたら女は喜んで敵の男に走るのか。男はつらいものだ。私の心のどこかで無意識にそう叫んでいたような気がする。その頃の日本の貧しさから仕方なかったことは私も判っているのだが、戦争体験のない若い私にも、聞いていて彼我の貧富の差に打ちひしがれ悲しかった。電車が東京駅に近づいたら、弟は姉さん次ぎ降りるからと言った。すると、その女性は英語で黒人の息子にそのことを告げた。そして皆電車から降りていった。
その後10年位して、つまり今から15年くらい前にテレビを見ていたら、次のような話が取り上げられていて、その話は上の私の体験と重なった。今はアメリカにいるその日本人女性は、戦後家族が食べられなくて、日本政府が公に募集したアメリカ兵相手の「特殊施設」の広告の条件があまりにも良かったので、家族の危機を救うため栃木県からこれに応募した。飢えと貧困から逃れるためであった。しかし、これはアメリカ兵への公認の売春施設に他ならなかった。そのため偏見や故郷の両親への影響を心配して、その後施設で知りあったアメリカ兵が帰国する際に、アメリカへ渡って結婚した。テレビの内容はこんな内容だった。こういう戦後の「特殊施設」の報道はそれまでもなかったしまたその後もほとんどない。
現在アジア各国やオランダ、オーストラリアなどから「従軍慰安婦」問題で、戦前の日本の国辱的性への組織的犯罪を、追及され続けているが、戦後も同様なことを、今度は日本人の女性に対して、政府が主導して行なっていたことを知り、私は大変なショックを受けた。しかし、このことは話題になることもマスコミに取り上げられることもほとんどなく、今の日本人からは忘れ去られてしまっている。「従軍慰安婦問題」に比べてあまりにも落差があり不思議でならない。
2007年、このことを正面から取り上げた本が、白川充さんによって初めて書かれた。
以下に2007年9月30日日経朝刊23面に出た書評を引用する。
白川 充、「昭和平成ニッポン性風俗史」展望社、2000円
敗戦直後に「特殊慰安施設協会」のちにRAA(Recreation and Amusement Association)と呼ばれた組織があった。
RAAは政府関係者が占領軍の「性の暴力」を心配して民間業者に作らせた“国家的緊急施設”。旧遊廓や料亭などを利用し「進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む(中略)宿舎、被服、食料全部当方支給」の広告で女性達を集めた。
広島の原爆の惨劇から十日前後しかたっていない時点で、アメリカ兵のための性の慰安所が政府によって企画されていた。戦争は一体何をもたらしたのか、ショックだった。国辱としか考えられない。
日本政府は自らの国辱的過ちを自ら正すことをしないといけない。戦前の「従軍慰安婦問題」と戦後の「特殊慰安施設」は発想が極めて類似しており、おそらく同じ官僚組織の発想だろう。後世の歴史家の解明と評価を待つ。