井上卓弥著「満洲難民 三八度線に阻まれた命」を読んで 

2016年6月25日11月19日 随筆
信州上田之住人和親

2016.6.25

よくぞ井上卓弥さん、この本を書いてくれました。涙ながらに一気に読破しました。感謝します。戦後史を知るために今後欠かせない本となるでしょう。戦後の歴史の闇を正確に解き明かしてくれた素晴らしいルポルタージュです。私は井上さんと同じ戦後生まれですが、私もいつも38度線があと3日早くソ連によって閉鎖されていたら、私の父母も2人の兄も生きて帰れず、私はこの世に存在しなかったと感じていました。著者の井上さんが全く同じ気持ちでおられることに、非常に感動しました。こんなことを感じている人は私以外にいないといままで思っていたのです。

 満州難民の父母は民間人でしたが、本当に奇跡的に、ソ連軍、八路軍、アメリカ軍がそれぞれ来る正に直前を逃げ切って、満州、朝鮮がまだ日本の施政権下にあるうちに、日本に帰ってきました:1945.8.12牡丹江―8.13ハルビン新京―8.15安東―8.17ソウル―8.31釜山―9.1山口県仙崎港という逃避行でした。確かに井上さんが本書に書かれているとおり、民間人ではそんな人はほとんどいないはずです。私の家族はおそらく民間人で唯一の家族かもしれません。

満州国の国家公務員は、民間人よりも先に列車を仕立てて満州国から脱出していたのですが、どういうわけか、一気に日本に帰ってこず、多くの中級国家公務員の家族は、満鮮国境付近にとどまってしまいました。何か理由があったのかしれません。満州国の国家公務員には何か上からの命令があったのでしょうか。満鮮国境付近の北朝鮮にとどまったため、厳しい北朝鮮の寒さの中、そこで越冬することになり、たくさんの人が衣食住に事欠き、亡くなりました。そのことは、戦後の昭和24年にベストセラーになった藤原ていさんの小説「流れる星は生きている」にも、書かれています。藤原ていさんの夫は作家の新田次郎さん、次男は元お茶の水女子大理学部数学科教授の藤原正彦さんです。正彦さんは、「国家の品格」を書き文筆家としても有名です。藤原ていさんの夫、新田次郎さんも満州国の気象庁に勤めていた国家公務員でした。藤原さん一家も、しばらくは38度線がまだ封鎖されていないにも関われずどういうわけか一気に日本に帰ってこず、北朝鮮にとどまりました。そのため38度線がソ連軍によって封鎖され、夫の新田次郎さんはソ連によりシベリアに抑留されてしまいました。残った妻の藤原ていさんは、越冬で悲惨な生活を体験されたのち、38度線を、想像を絶する苦難の末、幼子2人と乳飲み子(藤原咲子さん当時1))を抱えながら歩いて越えて、生還されています。

2016.72

井上さんの本「満洲難民 三八度線に阻まれた命」にも、北朝鮮の郭山で越冬する家族が次々と亡くなっていく悲惨な状況が出てきます。

北朝鮮の「郭山」で難民となった方々は、多くは満州国の中級公務員の妻子で、38度線がソ連に封鎖されたために帰国できず、極寒の中で越冬の際、住居不備、栄養不良、伝染病で半数以上の方々が亡くなりました。中級公務員の妻たちはそれ相応の学歴の方々でした。その中で香川県の丸亀高等女学校の出身の方の最期を読んだときには、私は、他人事と思えず涙しました。

私が涙を禁じえなかった、部分を抜き書きします。

106-109:井上卓弥著「満洲難民 三八度線に阻まれた命」

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生き地獄の様な病室

・・・

・・・病室には身動きできない五人の重病人が収容されていた。・・・「膿胸」で寝たきりとなった女性の向こうにはやせ衰えた赤ん坊が横に寝かせて臥せっていた。藁布団が子供の汚物で真っ黒に汚れている。薄い掛物一枚で横たわり、苦しそうにうめく母子の姿は痛ましく、生き地獄のような有様であった。

・・・・

涙を浮かべて感謝の言葉話繰り返す母親の枕元に座り、身の上話を聞いた。母親は山口カズ子と名乗った。香川県の丸亀高等女学校を出ており、喜代より一回り若い二十八歳という。男の子は進一といい、満年齢では二歳そこそこだった。長男の進一が病気になり、ろくに寝ないで看病を続けていたら、間もなく自分も動けなくなってしまったという。

・・・

翌々日が大みそかだった。・・・

・・・・

医務室を尋ねると、みそかの夜から翌朝にかけて母子はほとんど時間をあけずに息が絶え、つい今しがた、共同墓地に葬られたという。母子いっしょに息を引き取って一つの穴に葬られたことを、せめてもの救いと考える他なかった。

亡くなられた山口カズ子さんは、私の母とほぼ同じ年齢で、同じ香川県の出身者。御親戚の方々は今どうされているだろうか。夫は無事シベリヤから帰ってきただろうかと、思いました。

2016.1119

今日、平成28(西暦2016)1119日は亡母の100歳の誕生日である。89歳で亡くなったが、今も生きていてくれたらなあと64歳の息子の私は思う。今朝の新聞に、同時代の藤原ていさんが老衰で数日前の1115日に98歳で亡くなったことを知った。藤原ていさんは小説「流れる星は生きている」に、幼い子供3人を連れて壮絶な満州からの引き上げを描いて、戦後の昭和24年にベストセラーになった。私の家族も、藤原さん一家と全く同じくソ連が攻めてきた満州から、壮絶な逃避行を経て生きて日本に帰ってきた。その話を私の随筆集「和親記」第40(ネット掲載:20世紀の記録として残しておきたいこと)に書いた。朝刊を読みながら、もう父母や藤原ていさんの年代の方々がつぎつぎとあの世に旅立たれてしまうなあ思った。



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