高嶋幸雄叔父さんのこと 

2017820随筆

信州上田之住人和親

 

石川さんが、香川県立観音寺第一高校時代、担任の高畑喜代志先生のお宅で、彼が戦前将校だった時の軍刀を見せて頂いたという話で思い出しました。以下の軍刀にまつわる話も、私がここに書き留めておかないと永遠に歴史の闇の中で忘れ去られていくのではないかと思い書きます。古い話ばかりですみません。

これは私の母のすぐ下の弟、私の叔父さん、高嶋幸雄の話です。もう何年も前に亡くなりましたが、幸雄叔父さんは、香川県観音寺市古川町の出身で、戦前、中国戦線を何年も転戦していました。終戦の報に接したあと、今となっては何のためだったかはっきりしませんが、陸軍から秘密の特命を受け、すぐに部隊を密かに離れて、2年間、中支から上海まで中国人の孤児の少年を連れて歩いていました。そのため、郷里には先に帰国した同じ部隊の戦友から、幸雄は終戦直後に行方不明となり亡くなったものと思われるとの知らせがあり、母親(私の祖母)は、そのことを聞いて激しく泣いたとのことです。中国人の少年孤児を連れていたのは、中国人の親子を装い、日本人と悟られないようにしたためです。上海に着いたとき、日本に帰国する命令があり、その少年と別れなければならなくなりました。別れ際に、中国人の少年は、叔父さんを本当の父親のように慕っていたので、大泣きされて不憫だったと言います。

 上海では、次の命令がありました。それは、満州皇帝愛新覚羅溥儀の弟で溥傑の王妃となっていた皇女浩(佐賀浩)と、その2人の幼い娘、彗生(えいせい)と嫮生(こせい)さんたちが、上海から佐世保まで船で帰国する予定である。その道中を幸雄叔父に警護せよとの命令でした。乗船前には、中国軍による身体検査があり、それまで密かに持っていた軍刀は、手放さざるを得なくなりました。そこで、乗船前に油紙に包んで、土の中に埋めたと言います。今どうなっているかなあと言っていいたのを私は叔父から聞いたことがあります。帰国後、数年して、幸雄叔父さんは、一の谷村の最後の村議に立候補して当選しました。一の谷村が観音寺市に編入されるのに反対し、同じ三豊中学区である山本町と合併することを主張したのですが、多数は観音寺市に編入することを望んだそうです。それで一の谷村は観音寺市に編入されました。また、幸雄叔父さんが上海から警護して日本に帰ってきた彗生(えいせい)さんが、戦後、天城山中で学習院大学の同級生と一緒にピストル自殺したことはショックだったようです。嫮生(こせい)さんは日本人の方と結婚されて、今も尼崎市でご健在です。

幸雄叔父さんが、皇女浩の親娘を、船中警護したことは数多の書籍のどこにも書かれておらず、私がここに書き留めておかないと永遠に歴史の闇の中で忘れ去られていくのではないかと思い書きました。



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