引き裂かれた夫婦の絆三題話

 

信州上田之住人和親随筆

平成26年(2014517日、66

平成27年(20151122日追記

 

1. キャスト・アウェイ(難破漂流)

昨日NHKBSテレビでトムハンクス主演のキャスト・アウェイという映画を見た。この映画を見て夫婦の絆についていろいろと考えさせられた。

まずこの映画は、南太平洋上の飛行機事故で遭難し、たった一人生き残り、絶海の孤島で4年間生き延びて生還したノーランドという男の話である。ノーランドは無人島の絶海の孤島に流れ着いた当初は、あまりの孤独に耐えきれず自殺しようとした。しかし、思い直し、小さなロケットの中の妻の写真を洞窟の中に飾り、バレーボールに人の顔を描いてウィルソンと名付けて話し相手とした。そうしてだんだん気を取り直して、生活や道具に工夫するようになった。4年後にはスケート靴の刃を利用して、木を伐採して丸太を作り、木の皮を剥いでロープを綯い、これで丸太を縛って、人一人乗れるいかだを作った。そして、この小島に流れ着いた大型のプラスティックの板をへの字に曲げて、いかだの上に屋根のように設置して、雨をしのげて中で寝られるようにした。風が吹いた時にはこのプラスッティクの板を立てて風を受け帆になるようにして帆走できるようにも工夫した。また、4年間、島の季節風の向きを観測して、風向きがよくなった季節に、とうとうウィルソンと2人で、この絶海の孤島を脱出した。なぜなら、ここにじっといても発見される可能性はほとんどなかったからだ。自分から、どこか人のいるところまで帆走と手こぎで行く方が、希望を持って生きる意味があるからだ。しかし、途中嵐に遭い、帆を失い、相棒のウィルソンもノーランドが眠っている間に流されてしまった。食料も尽き、衰弱して死にかけているとき、偶然通りがかった大型のコンテナ船に救助された。こうしてノーランドは九死に一生を得て、故郷のアメリカの町と職場に帰った。ノーランドはFedexというアメリカの宅急便の会社員だった。そこでFedex社は会社を挙げて、ノーランドが生還したことを祝福した。しかし、そのパーティーにはノーランドの妻の姿はなかった。ここからの話は、夫婦というものの絆についてとても考えさせられた。

パーティーが終わって、ノーランドが一人で残っている時、一人の男が現れ、ノーランドに言った。

「私は、君の妻と今結婚して新しい家庭を築いている。子供も一人いる。君の妻は、ここに来る予定だったが、とても精神的に混乱して、君と会えない状態だ。誠にすまない。」

と言って帰って行った。この男も元の妻も悪いことは何もしていない。事故後生死不明の夫を3年間待っていた。しかし、ほとんど死んでいる可能性の方が大きい。いつまでもいつまでも、妻は待つべきだろうか。妻の多くの友人達は、

「彼は死んでいる方が勝っている。あれだけ、捜索を続けても見つからなかった。若いあなたが、悲しみを抱えながら老人になってしまうまで待つべきではない。再婚して、新しい人生をやり直しなさい。」

と助言した。そして、歯医者の男性と再婚し、一子をもうけた。

ノーランドはそのパーティーの夜眠れなくて、深夜に雨の中タクシーに乗って、元の家に行った。外から自分が元住んでいた家を眺めた。すると玄関に電気が点いて、元の妻が出て来た。

「今、子供も夫も寝ている。私はどうしても眠れなくて起きていた。あなたのことを考えていたら、外で自動車の音がして、あなたが来たと思って出てきたの。」

「君は幸せにしているか。」

「ええ。」

「子供は一人か。」

「もう一人作ったらいいんじゃないか。俺だったらそうする。」

「君が幸せなら俺はいい。」

「あなたのことを今でも愛しているわ。」

「俺もだよ。」

「でも、仕方がない。俺はもう行かなくちゃ。」

「待って、ガレージに来て。」

雨の中、別棟のガレージに二人で行った。

「これは僕らの乗っていた車だ。」

「ずっと、これ、廃車に出来なかった。あなたと私の二人の思い出が詰まっていて。」

ノーランドはこの車に乗って、妻と別れた。雨の中、元の妻は濡れるのもいとわずノーランドの車が暗闇に消えていくのを見送り続けた。今も変わらぬ愛を持ち続けている元の妻とノーランドの二人の心中を思いやるとやるせない。でも、仕方ない。ノーランドは元の妻の現在の幸せな生活を壊したくはなかったのだ。ノーランドの潔さが、この映画の余韻として残り、見る者の心に響いた。

この話では元夫のノーランドの方が身を引いた。

 

2.モロタイ島

 私は、この映画を見てもう一つの実話を思い出した。今年は戦後69年だが、39年前の戦後30年の昭和50年(西暦1975年)の話である。これも南洋のモロタイ島で発見された元日本兵の中村輝夫さんのことである。中村さんは台湾の出身で、アミ族であった。アミ語の名前はスニヨン(スリヨンとの表記もある)であった。日本兵として応召し、インドネシアの孤島のモロタイ島に派遣されて、アメリカ軍と戦った。アミ語も現地の言葉もインドネシア語系で基本語彙が似ていたので、中村さんも現地人と会話が可能で、日本軍には大変役に立つ存在だったらしい。しかしある時斥候に出ていて自分以外は戦死し一人生き残ったが、ジャングルの中で本隊とはぐれてしまった。そして、戦後29年間も、38歩兵銃の手入れと毎朝の宮城遙拝を欠かさず、ジャングルの中でアメリカ軍を避けながら畑を耕して暮らしていた。そうこうしているうちに、1974年にフィリピン・ルバング島で残留日本兵の小野田寛郎さんが発見され、この小野田さんと同じように、モロタイ島にも残留日本兵がまだいるらしいと現地でうわさになった。そこで、インドネシア軍による大捜索で中村輝夫さんはとうとう見つかり捕えられた。そして、中村さんは31年ぶりに台湾に帰った。空港で待ち構えていた台湾のテレビ局が北京官話でいくら質問しても答えない。それもそのはずで、中村さんは日本語かアミ語しかわからなかったのだ。だから日本語のインタビューには答えた。戦後、台湾は蒋介石の国民党の支配下になり、北京官話が国語に変わっていたのだ。中村さんの出身地の村では、村を挙げて生還の祝賀会の準備をしていた。空港からバスで村に帰る途中、バスの中で妻から、別の人と再婚しているとの告白を聞いた。中村さんは怒って、村に着く手前でバスを降り、祝賀会場には行かずに、実家のある別の村に歩いて行って引きこもってしまった。中村さんは出征前に、入り婿として結婚し子供も一人もうけていた。戦後30年も生死不明で妻子も大変困ったに違いない。妻の再婚は仕方がないと思うが、しかし、中村さんには妻の再婚が大ショックだったのだ。ここで、素晴らし後日談がある。再婚相手の現在の夫は、「中村さんが帰ってきたのはうれしい。私が身を引けば中村さんは幸せになるだろう。」と言って、自ら進んで離婚に応じ身を引いた。そして、中村さん夫婦は元通りになった。再婚相手の男性の潔さが光る。中村さんは帰還してから5年後に亡くなった。

 

1話のノーランドの場合と違い、この話では再婚相手の男性の方が身を引いた。第1話と第2話を比べてみると、第1話では元夫のノーランドと妻の間には子はなく、再婚相手と妻の間に子がいる。第2話では再婚相手と妻の間には子はないようで、元夫の中村さんと妻の間に子がいる。子供がいない方の夫が身を引くのが全体の幸福度が高いからだろう。それが、このような引き裂かれた夫婦の後始末における幸せの方程式のような気がする。では次の第3話のような元夫婦の両方がそれぞれ再婚して子供がある場合はどうしたら一番良いだろうか。

 

3. 軍曹どうしたらいいでしょう

ここでもう一つ、私の母方の叔父から聞いた話を思い出した。1972年つまり昭和47年に、日中国交復興した後の話である。私の叔父高嶋幸雄は、戦時中中国戦線でずっと戦っていた。部下からは鬼軍曹と言われていたらしい。私が子供の頃、この叔父さんは香川県三豊郡一の谷村の最後の村会議員をしていたが、眼光鋭くとても怖い感じの人だった。私が大学生になった年が丁度日中国交復興の年であった。大学2,3年生の冬休みに私が帰省していた間だったと思うが、叔父さんも50を過ぎ少し丸くなった感じになっていて、私の母、つまり幸雄叔父の姉の家を、訪ねてきた。私の父が中国語が堪能だったので通訳を頼みに来たらしかった。帰りがけに叔父が私に話したところによると、軍隊で部下だった人が、軍曹どうしたらいいでしょうと相談に来たという。戦後30年もたっていてもその人は元上司の叔父を信頼して相談に来たらしい。

その人は、満州で所帯も持ち妻子がいたが、陸軍に召集となり幸雄叔父の部隊に配属となった。終戦後、武装解除となって捕虜となり、数年間シベリアに抑留された後、日本に帰還した。満州は知ってのとおり、日本の敗戦後、ソ連、国民党、中国共産党の三つ巴の勢力争いの舞台となり、多くの日本人の婦女子がその大混乱に巻き込まれ、死んだり行方不明となった。そして、日中国交復興するまで連絡不能で、現地に残留した日本人孤児や残留婦人の消息は、長い間不明だった。なぜなら、成人男性のほとんどは終戦直前の根こそぎ動員で兵隊に取られ、戦後はシベリアに抑留されるなどしたために、婦女子と老人だけで、決死の日本への逃避行をおこなわざるをえなかった。そのため家族や夫婦が引き裂かれた例は枚挙にいとまがない。叔父に相談に来た人も、またその一人であった。

元の妻は、満州で残留婦人となってしまい、生きていくために仕方なく満人(=中国人)と再婚しその人との間にも子供もできた。3人の子供とともに今、国交復興した故郷の日本に一時帰国している。3人の子供は中国語しか話せない。一方、元夫の方は、シベリアから帰ってきて、満州の妻子のことを片時も忘れたことはないが、あの大混乱のさなか妻子は満州で死んだらしい。国交がないため生死が皆目わからない。そのため元の妻には大変悪いが、別の女の人と再婚し、今は新しい家庭を営んで子供もいる。ところが、戦後30年、死んだと思っていた妻子が満州(中国)から今一時帰国し、妻は元の夫である私に是非会いたいとそっと連絡して来た。こういう状況で、この人は元の上司である叔父にどうしたらいいだろうかと相談に来たのだ。

「私は、元の妻には悪いが、別の女性と結婚している。待っていなかった自分が後ろめたく会わせる顔がない。また、今の妻に事情を話すと家庭の中で騒動が起こるに違いない。せっかく帰って来て私に会いたいと言っているが、会ってやるべきだろうか。それとも、お互いにそっとして今のお互いの家庭の幸せを守るべきだろうか。」

あの怖かった叔父が、とても情のある意見をその人に言った。

「お互いに再婚したのは、戦争のためであり、仕方のないことだ。戦後30年経っても、お前に会いたいというのは、30年間片時もお前のことを忘れずに想っていたのだろう。会ってやれ。会ってやるべきだ。」

その人は、幸雄叔父の意見に従って、元の妻とそっと会った。私の父は、二人の面会の日、叔父に頼まれて、中国語しかできない3人の子供を連れて近くの観光地を見せて回ったそうだ。二人はその後、日中それぞれの家庭に帰った。二人にとっては大変悲しい別れだが、この再会で吹き切れてお互いが納得できたのではないかと思う。満州から一時帰国した残留婦人や残留孤児の中には、日本の親戚や肉親が現在の状況が許さず名乗り出て来てくれない例も多数あったと聞いている。あの時若い大学生だった私は、夫婦の絆の機微について少しもわからなかったが、還暦をすぎた今では、叔父や父の計らいは二人のその後の人生を配慮したすばらしものだったと思える。

 

以上は3話とも、引き裂かれた夫婦の絆に関する話でしたが、皆さんが自分がこういう立場になった時にはどう考えてどう行動するでしょうか。

 

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20151122日追記

この3話を書いてから1年後の今年8月の終戦記念日に前川治助さんの娘さん(76)の話が新聞に載っていて、もう一つどうしても忘れてはならない話があったのに気がつきました。皆さんは、渡辺はま子さんの歌「ああ、モンテンルパの夜は更けて」(昭和276月)という歌をご存知でしょうか。戦後、フィリピンのモンテンルパ刑務所に、多くの日本兵が戦犯として死刑判決などをうけて収監されていました。渡辺はま子さんは、この歌で日本世論を喚起し減刑運動を盛り上げました。また、現在私の勤務している信州大学繊維学部でも、昭和18年の卒業生で死刑判決を受けている上野正美さんの助命減刑運動を同窓会中心に昭和26年から展開しておりました。千曲会報 第42号5頁(1951https://soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10091/9588/1/Chikuma_kaihou042.pdf。前川治助さんも上野正美さんとともに死刑判決を受けて収監されておりました。前川さんには妻と子供が3人いましたが、戦後戦死公報を受け取った妻は、周囲の勧めもあり再婚しました。ところがその後、前夫の前川治助さんがモンテンルパで死刑判決を受けながらも、生きていることがわかりました。今年8月の終戦記念日に新聞に載った前川治助さんの娘さん(76)の話から、お母さんは大変苦しみましたが、新しいお父さんの方が自ら身を引き、前のお父さんの前川治助さんの元へまた家族が一つになったとのことを知りました。再婚相手の男性の潔さに感動します。上記第2話に出てくる台湾の中村さんの話を思い出しました。

 

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