日本語ワープロ発明 Before and After

信州上田之住人
太田 和親  
2003年12月10日 随筆

 現在45歳以上の方なら、覚えておられるかもしれません。今の様に日本語のワープロがない時代、公式の文書を清書するのには、印刷屋さんへ行って頼むか、自分で、とても一人では運べないような極めて重い日本語タイプライターを買って、一字一字鉛の活字を拾って打つかしなければなりませんでした。だから、1982年に私が運転免許証を横浜の二俣川へ書き換えに行った時、警察の人が、「この申請書をそのままコピーして作りますので、氏名住所が手書きのまま交付されますが、いいですか。もし活字がよかったら、前にあるお店でタイプで打ってもらって申請して下さい。」と言われました。そこで、行ってみると、日本語タイピストの女の人が、猛烈な速さで鉛の活字を選んで、私の名前と住所を打ってくれました。「さすがプロ!」などと思って感心しました。
 一方、私の家内の日本語タイプライターの思い出は、逆に悲惨です。彼女は独身時代、大阪大学工学部応用化学科で塩川二郎先生(前塩川正十郎財務大臣の実弟)の研究室で技官として勤めていました。その頃、塩川先生の日本化学会賞応募のため大変分厚い申請書類を作成する必要から、塩川研でわざわざこの植字式の日本語タイプライターを購入したそうです。そして幸か不幸か、その書類のまとめを、彼女が担当することになりました。彼女は化学の出身の技官で秘書ではありませんし、また日本語タイピストの資格を持っているわけではなく、全くの素人でした。それでプロじゃないので、2800字に及ぶ鉛の活字がどこにあるのか判らず、一つ一つ探すのに大変苦労しました。遅々として進まず、またその上、一度間違えると修正がもう大変で、精根尽き果てたといいます。
 したがって、今から20年前の当時では、プロの資格を持っている人以外、日本語のタイプライターに触れることは、私の未来の家内以外、まずほとんどなく、まして、自分の家に1台持とうなんて思うことなど念頭にすらありませんでした。当然、一般の人は皆文書は手書きが普通でした。学会の講演予稿集なんかも、確か1985年くらいまでは全部手書きでした。それで、字が上手な人は立派な教養人に見えたものです。字が下手だと、何だか講演内容も安っぽく、その人物もぱっとしないのではないかと勘ぐったりしたものです。だからでしょうか、歴史上有名な人の手紙など、達筆だと額に入れて、「何でも鑑定団」に出されて高額な評価を得たりするわけです。教養人=字の上手な人というのが、2000年近く日本における長年の評価基準でした。ところで、皆さん知っていますか?信州大学繊維学部の前身、上田蚕糸専門学校の初代校長針塚長太郎先生の書が、少なくとも二つ学内に残っていることを。一つは、農場建物脇の石碑の碑文「蚕霊供養塔」が、針塚先生の書です。碑の裏面によると大正12年に建立されたようで、今年で丁度80年になります。また、図書館脇の古い建物「旧千曲会館」の床の間の掛け軸「啄徒啄師(たくとたくし)」も針塚先生の書だと聞きました。極めて達筆で流麗です。字を見てやっぱり大変立派な人物だったとお見受けします。
  話がそれましたが、今はほとんどの人がパソコンで日本語の文章を作成したり、携帯(電話)で(電子)メールを送ったりしています。これらは全く「日常茶飯事」となりました。現代風に言い換えると、「日常パソコン・メール事(ごと)」と言えるでしょうか。しかし一体誰が、このように、コンピューター上で日本語を扱えるようにしてくれたのでしょう。以前はローマ字しかコンピューターで処理できなかったはずです。これは、日本語の大革命だと私は思います。
 私は、この大革命を成し遂げた人、森健一さんを、偶然にも知っています。私が、東芝の総合研究所に勤めていたとき、研究所内でざっくばらんな勉強会が組合主催で夕方行われ、森さんの「最初の日本語ワープロ・ジェーダブリュ-テン(JW-10)の開発」の講演を聞いたからなのです。その時、講師の森さんとは同じ総合研究所にいたとはいえ所属の部所が違っていたので、この時1回会ったきりで個人的なつきあいは全くありませんでした。しかし私はこの素晴らしい講演を聞いて深い感動をおぼえ、永く記憶にとどめていました。その詳細は、既に2001年10月の、この季刊紙Library 41号に、寄稿した通りです。今、これを読んでくれている皆さん、是非あのLibraryの記事も合わせて読んでみて下さい。きっと、森健一さんらが世界初の日本語ワープロを開発した当時の御苦労が判って頂けるものと思います。また、この開発思想が、後に多数の非ヨーロッパ諸語のワープロ開発に、多大の貢献をしていることもお判り頂けるものと思います。日本語ワープロの開発は、実は日本という枠を越えた世界の画期的な出来事だったのです。
 それで、私はあのLibraryの記事にも書いたように、NHKの人気番組「プロジェクトX」にこのことを取り上げて欲しいと思い、電子メールでNHKにLibraryの記事を添付してお願いしました。そしたら半年位して本当に取り上げてくれ、2002年9月3日に森健一さん達3人が「プロジェクトX」に出演されました。私は陰ながら応援していたので、自分のことのように本当に嬉しく思いました。
 さて、誠に不思議なことがあるものです。私は東芝に1981年から1982年の2年ほど在職した後、この信州大学繊維学部に赴任して丸20年になりますが、21年ぶりに東芝の森さんと、今年2003年の9月4日に信州大学で再会しました。森さんが信州大学の私の所へわざわざ訪ねて来られ、御丁寧なお礼を述べられ、高価なワインを2本置いていかれました。なぜかというと、全くインターネットの威力の賜なのです。ただし「プロジェクトX」のことではありません。森さんは私が「プロジェクトX」にメールを送ったことなど知る由もありませんから、全く別のことで、わざわざ来られたのでした。
 上に述べた通り、私は2001年10月にこの季刊紙Libraryに「日本語ワープロを開発した森健一さん」を寄稿しました。これはすぐ、信州大学繊維学部図書分館のホームページにアップ(掲載)されました<http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/seni/online/no41/2.html>。それから1年半後の2003年の5月、突然図書館の内海係長が来られ、「本田財団から、『太田先生が書かれた森健一さんに関する記事を読みました。是非、先生に頼みたいことがあるのですが、大学のホームページからは先生の電話番号などの連絡先が判らないので、連絡先を教えて欲しい。』とのことです。」と、図書館宛の電子メールのコピーを手渡されました。そこで、お尋ねの本田財団の事務局長さんに電話したところ、「本田財団では、ノーベル賞級の人を毎年独自の基準で一人選び、1980年から毎年本田賞を授与しています。森健一さんが今回候補者の一人として推挙され、その為、インターネットで森さんのことを調べていたら、信州大学繊維学部図書分館の季刊紙に太田先生が、森さんのことを書かれている記事を見つけました。これをコピーして選考会の先生方に読んでもらったところ、皆大変感心して、森さんが最終選考に残られました。つきましては、太田先生に正式に森健一さんの推薦状を書いて欲しいので、御連絡しました。」とのことでした。大変光栄なことですが、私の専門とは全く違う分野のことですしLibraryの記事以上のことは書けないので、事務局長さんの了解を得て、Libraryの記事に英文の要約を付けてこれを推薦状として、本田財団に送りました。8月の末に、本田財団から私に森健一さんが、見事本年度の本田賞受賞者に決定されたので、是非、御夫婦で11月17日の授賞式に参加して欲しいと、手紙で連絡を受けました。それから間もなくして、9月4日に森健一さんがわざわざそのお礼に、私の所へ訪ねて来られたという訳なのです。21年振りにお会いし、誠に奇縁というか、人と人とのつながりの妙に改めて感動した次第です。
 森さんは、その後東芝の子会社の東芝テックの社長となられたと聞いていました。お会いしてお話を伺うと、2003年の5月には65歳で社長を勇退され、現在は相談役となっておられました。21年振りに会ったのですが、一瞬で時空が埋まった感がしました。その際、私は授賞式に必ず出席するお約束をし、また、森さんには信州大学の学生の前で一度話をしてもらいたいとお頼みしたところ、快諾して頂きました。

 2003年11月17日(月)には東京のホテルオークラで開かれた本田賞授賞式に、夫婦で出席致しました。本田賞は日本の賞ですが、日本に限らず世界中でノーベル賞級の仕事をした方に、本田財団独自の選考基準で毎年1名に授与されています。過去23年間で日本人は森さんを含めてまだ4人しかいません。森さん以外の日本人は、青色LED 発明の中村修二さんなどがおられます。副賞は1000万円です。何故11月17日に授賞式をするかというと、本田の創立者、本田宗一郎氏の誕生日が11月17日だからだそうです。もし生きておられれば今年で97歳になられたそうです。ノーベル賞もアルフレッド・ノーベルの誕生日に授賞式が行われています。授賞式の後、受賞者の森さんの講演が1時間程あり、その中で、推薦者の二人、国際基督教大学の村上陽一郎先生と信州大学の私に、感謝の意が表されました。大変光栄に思いました。講演台横手には、NHK「プロジェクトX」番組チームから贈られた生花が飾ってあったのが印象に残りました。
 全くインターネットの威力は絶大です。「世の中、見ている人は見ている」とよく言いますが、インターネットに載った私の書いた文章を、見ている人は見ている、という単純な意味も、また、私が20年間も森さんのことを覚えていて個人的に大変評価していました、これも見ている人はちゃんと見ているという本来の意味にも、なるでしょう。インターネットはこういう隠れた支持者や評価者の声が、一瞬のうちに全国いや全世界に届くということに極めて価値があると思います。また、インターネットのホームページが日本語で書けること、日本語をインターネットで送れることなどは、森さんが発明した日本語ワープロの技術のお陰なのです。多くの日本国民が、森さんの発明で極めて大きな恩恵を受けています。現在、中国語も韓国語もタイ語もアラビヤ語もまた、自国の言語と文字でホームページが作成出来、さらにインターネットで文章を送ることも出来ます。これら多くの非ヨーロッパ語のワープロは森さん達の日本語ワープロの開発思想そのものが手本になっていると言われています。森さんの業績を是非皆さんに、改めて知って頂きたいと思います。
 来る2004年1月21日(水)にその森健一さんを信州大学繊維学部に御招待し、午後4:00時から5:00時、大学院棟の604講義室でインターンシップ講演会を開きます。多数の学生教職員の方々に、是非、御来聴して頂きたいと思っています。                                          (終)

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文中でもご紹介のありましたとおり、講演会が開催されます。
皆さまぜひご来聴ください。


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