日本語ワープロを開発した森健一さん
信州上田之住人
太田 和親
2001年3月3日随筆
私は放送大学が好きでよく見るのだが、先日、「日本語ワープロの開発」という特別講義が放映されていて、東芝の何とかという子会社の社長になられた森健一さんが講師としてお話しされていた。私は実に20年振りに森さんをお見受けした。森さんは、もう髪がロマンスグレイになっていて、テレビでは57,8歳に見えた。子会社とはいえ社長となられてずいぶん偉くなっておられた。あの森さんであればさもありなむと、テレビを見ながら私はうものであった。
私が東芝総合研究所にいたのは1981〜1982年の極短い期間であったが、当時、総研内にある2階のレストランで夕方、確か若手の有志の主催か何かで、1ヶ月に1回ほど、30代の中堅で特に顕著な業績を上げている研究員から、研究開発の苦労話や秘話を若い人たちが聞くというざっくばらんな勉強会があった。私は、何回か出席していろいろな話を聞かせてもらったのだが、いつまでも印象に残り今でも覚えているのが、日本最初の日本語ワープロJW-10(ジェーダブリュ=テン)を開発した森さんの話であった。その時、森さんは30代後半の年齢に見えた。もちろん当時は髪も黒かった。20年振りにテレビで見て、ずいぶん白くなったなあと思うと同時に、歳月の流れの速さを感じた。レストランでコーヒーを飲みながら一通りお話を聞いたあと、座長を務められておられた電子部品研究所(電部研)の花田さんだったと思うが、花田さんが森さんに、「このJW-10を開発する上で一番苦労されたのは何ですか?」と聞かれた。その答えは2つあったと記憶している。1つは、日本語の文法がわからないので、文法を徹底的に勉強し、同時に計量国語学という分野の学会に入ったとのことであった。およそ、それまでの理科系人間からは想像できないようなことを一からやった。それで、当時東芝総研の図書館には、場違いだと思われる計量国語学の学会誌が並んでいたのが、私はその時初めて納得がいったのを覚えている。2つ目は、日本語ワープロの開発は1971年にアンダーザテーブルとして始めたことである。アンダーザテーブルとは、東芝総研の独特の言葉だと思うが、本務の研究テーマを、研究員はやるが、もし、自分に興味のある独自のテーマが別にあれば、1割か2割くらいの力をそれに注いでも良いという自由裁量が、東芝の伝統として許されていた。しかし一応上司の許可は必要であるので、闇研究という意味ではなく、オープンな研究であった。そうはいうものの私個人の当時の印象では、上司により、チームの抱えている本務の研究テーマの方が忙しい場合は、とても許されないという雰囲気があったように思う。従って、研究員各自の自由裁量といえども、上司によりけりだと思っていた。それで森さんの2つ目の答えがとても印象深かった。1971年に日本語ワープロの研究を始めて、3年たっても4年たっても全く開発の目途が立たない。上司もサラリーマンだから自分の在任期間中に部下の成果が上がらないようだったら、その研究テーマをやめさせようとするのが普通なのだが、森さんの上司は、所長などさらに上からの圧力を一切はねのけて、森さん達を守ってくれ、このアンダーザテーブルのテーマを続けさせてくれた。森さんは、「この上司の防波堤がなかったら7年間もこの研究を続けられなかったと思う。」と答えた。私は、森さんの上司を研究管理者として見習うべきところが大いにあると感銘を受け、長く記憶に残った。
20年振りに、この森さんから同じテーマで、今度は放送大学の特別講演として聞いた話には、この上司の話は出て来なかったが、改めて聞いてみて一層深い感銘を受けた。大学の講義であるのでよく整理されていて、日本語ワープロ開発の歴史もよくわかった。
邦文タイプライターは1915年に発明され、1923年にはカナタイプライターも発売された。しかし、欧文タイプライターと違い、邦文タイプライターは字数が極めて多く、一字一字を拾う植字形式なので、特別に訓練された技能者でないと、一般の人には、とても使いこなせるものでは到底なかった。またカナタイプライターの方は、カナばかりで書いた文章が極めて読みづらくて、普及しなかった。そこで、1971年に森さんら3人が東芝総研で日本語ワープロの開発を始めた当時、3つの目標を立てた。
(1)かな漢字変換:かなを打つと自動的に漢字かな混じり文に変換される機能を持たせる。
(2)ポータブル機能:それまでの植字型の邦文タイプライターはものすごい重さだったので、誰もが携帯できるものにする。
(3)アクセス機能:遠隔地へ転送できる機能を持たせ、通信に日本語が使えるようにする。
目標の(1)は、森さんらが日本語の文法を徹底的に研究し、それまで国語学者が明らかにしていなかったところまで、新たに文法を作り出して解明した「精緻文法」と、語順により現れる語彙の組み合わせが決まる「共起関係1)」を10万語の一語一語につけた日本語辞書とを、日本語ワープロに組み入れることにより達成した。また、コンピューター用の漢字は縦横24ドット×24ドットの点の集まりで表すことにし、約1万字を3年がかりで作った。気の遠くなるようなものすごい努力である。この「かな漢字変換」を組み込んだ、日本最初の、ひいては世界最初の日本語ワープロJW-10が、1978年東芝から発売された。1台、630万円もして、記憶容量はわずか64キロバイトしかなく、8インチのプロッピーディスクを用いていた。図体は事務机くらいありかなり大きなものであった。しかし、まさに画期的な「かな漢字変換」機能があり、2001年の今も日本国内でまだ3台が現役で使われているそうである。また、1985年にパーソナル型ワープロRupoが東芝から発売されて、森さんらの目標の(2)のポータブル機能が初めて付与された。さらに1995年頃までには、日本語ワープロで書いた文章が、インターネットで転送できるようになり、目標の(3)である遠隔地とのやりとりも可能になった。このように、森さん達が1971年に立てた目標は現在全部達成されたことになる。
これらは、日本語における革命的な出来事と言って良い。ほんの10年20年ほど前までは日本語の手紙は、個人では手書きが一般的であったが、現在はワープロ書きが8割を越えていると言われ、さらに、手紙も、多くは電子メールに変わりつつある。これらは、森さん達が発明した「かな漢字変換」の技術がなければ可能ではなかったであろう。
今では、このかな漢字変換は当たり前になっているが、森さん達の大変な努力のおかげで、日本国民が大いに利便性を享受しているのである。森さん達に感謝しなければならない。また、日本だけにとどまらず、このかな漢字変換の技術はアジアの多くの言語に応用され、自国語ワープロの開発モデルとなっていると聞く。現在の中国語ワープロは部首による入力法が一般的であるそうだが、入力速度に限界がありかなり遅い。かつての邦文タイプライターの植字方式に近いらしい。そこで、高速入力を可能にするため、今、併音字母漢字変換(ピンイン漢字変換)の開発が、このかな漢字変換を手本に進んでいるという。因みに、中国語は略字体(漢字)を用いているのはご存じの通りであるが、発音は中国語独自のローマ字表記法、ピンインツィームー(併音字母)が正書法として用いられている。したがって、発音だけを打てば漢字が自動的に正確に出て来るという方式を開発しようというものである。つまり、日本語の発音(かな)を打つと漢字かな混じり文が自動的に出てくるという、森さん達が開発した同じ方式である。東南アジアの諸言語のワープロにもこの方式が採用されているという。森さん達の発明は、アジアに巨大な恩恵をもたらしているのである。
森さんに、ノーベル賞を与えても良いと思う。ノーベル賞は欧米中心のきらいがあるというなら、先ず日本で森さんに文化勲章を与えるべきであろう。私は、多くの日本人に森健一さんの業績を知ってもらいたいと思う。最近のNHKの人気番組、プロジェクトXに取り上げてもらったらいいのではないかと陰ながら思う。日本人は日本人を独自に評価すべきである。白川先生はノーベル化学賞をもらったあとで文化勲章や日本化学会賞を授けるといわれ、日本化学会賞は辞退されたのは記憶に新しい。この件で日本人は大いに考えさせられたであろう。森健一さんの業績を顕彰し、この轍は2度と踏むまいと、日本国民の一人として私は思う。
注:1)「共起関係」というのは、例えば、「きかん」という言葉があると「産業」と一緒の時は「基幹(産業)」、「試験」の時は「(試験)期間」というように、語彙の組み合わせで正しい漢字がそれぞれ自動的に決まることをいう。この共起関係を用いることにより現在では98%の正しいかな漢字変換率になっているそうである。