液晶紳士随想百選 連載 No. 9

信州上田之住人
太田 和親  
1998226日随筆

パリESPCIの思い出
  1986年当時、ジャック=シモンはまだ39歳の若さであった。ほんの2、3年ほど前までは、ストラスブールのルイ=パスツール大学で研究をしていたが、パリの伝統あるグランゼコールの一つESPCIの無機化学及び電子材料部門の教授として赴任し、新しい研究室を作りつつあった。そこへ私は彼の最初のポスドクとして、フランスへ妻と1歳半の長男とともに渡った。

英語が通じないフランス
  フランスに着いてまず、驚くほど英語が通じないことに苦労した。日本の方がまだ通じるのじゃないかと思うくらいであった。また、パリ市内はスーパーマーケットがあまり発達しておらず、八百屋は八百屋、魚屋は魚屋へ買い物かごを下げて買い物をするのだ。店主の言うフランス語の値段が聞き取れなくて、私も妻も3カ月くらいは本当に往生した。スーパーならレジの数字を見て払えるのでなんとかなるのだが・・。それで、私も妻もサバイバルのためフランス語をすぐ習い始めた。半年を過ぎてから、何とか聞き取れるようになり、生活を少しづつ楽しめるようになった。ところで、フランス人は英語が分かっているのにわざとフランス語で答えるのだとよくいわれているが、実は本当に英語ができないらしい。日本と同じく12歳から初めて学校で英語を習い始めるので、年齢的に遅すぎるのが原因だと全く日本と同じことをフランス人から聞いた。
  さて、シモンさんとは1984年頃から研究上のことで手紙のやりとりをしていて知ってはいたが、会うのはその時が初めてであった。私の方は、彼が1982年にJ. Am. Chem. Soc. に最初のフタロシアニンのディスコティック液晶の論文を出してから、ずっと注目していた。また、彼も私の論文について質問してくるなどお互いに気になる存在であった。私には、またフランスに当時もう一人気になる女性研究家のアン・マリー=ジルさんがいて、この人にも是非会いたいと思っていた。ジルさんは金属錯体液晶のパイオニアの一人で、もしグラントが取れたら私の所に来いと言っていてくれていたが、シモンさんの方が先にグラントが取れたので、シモンさんの方へ行ったというわけである。

フランスと液晶の基礎研究
  液晶の基礎研究はヨーロッパ、特にフランスが当時も今も群を抜いていると私は思う。私がいたESPCIの当時に学長は、後に液晶でノーベル賞を取ったドゥジャンであったし、ESPCIに隣接するコレージュ・ドゥ・フランスで当時いたジャン・マリー=レーンも、後にノーベル賞を取ったが、ここで当時クラウン化合物の液晶の研究をしていた。また、以前このコレージュ・ドゥ・フランスにいたビヤールは液晶界の世界的巨星で、当時、ドゥジャンより有名であったように記憶している。
   私のフランス滞在中、インドのチャンドラゼカールがESPCIで講演したとき、スライドの第1枚目に私の論文が引用されていたのには驚いた。質問のとき礼を言ったら、「貴方がドクター太田か!」と言って偶然会えたのを大変喜んでくれた。このときホスト役に巨星ビヤールも来ていてチャンドラゼカールとビヤールと私の3人で写真を撮ったのは楽しい思い出となった。

ESPCIとキューリー婦人
   フランスの液晶に対する研究はとにかく独自の思想を創造することに情熱を傾けており、極めて理学的であった。一人一人が独自の液晶に対するイメージを持っていた。日本では一つの研究室でボスが考えている液晶と部下の考えているものが異なっていれば、合意するまで話し合い、まずグループとしての統一見解のようなものを持っているだろう。しかし、私がいたシモンさんのところでは、ボスのシモンさんが考えている液晶と助教授や助手の考えている液晶とは、どうも異なっていると感じた。別のフランス人も皆あらゆることに関してそうで、他人が考えていることには全く干渉しない個人主義が徹底していた。フランス人に、私が冗談で、「日本人が10人いたら1つの意見にまとまろうとするが、フランス人が10人いたら10個の意見がでてまとまらない。」と言ったら、「いやいや20個の意見が出るよ!」と混ぜ返されてしまった。良くも悪くも、フランス人は個人主義で日本人は集団主義である。全くお互いに鏡像の関係にあると思った。
   私のいたESPCIはパリ第5区のいわゆるカルチェラタンにあり、キューリー夫人が夫とともにラジウムを発見した有名なグランゼコールである。現在までに6人のノーベル受賞者が出ており、物理学と化学の専門の単科大学といったものである。入学試験の倍率はなんと250倍の超難関校である。正門にキューリー夫妻がラジウムを発見した場所であることを示す銘板が埋め込まれている。また歩いて行ける距離にある近所のコレージュ・ドゥ・フランスは400年の歴史があり、教授だけの研究専門の大学で、学生はいない。ここの教授に選ばれることは大変な名誉であるという。正門を入ると正面中央に、ロゼッタストーンを発見したシャンポリオンがスフインクスの頭に足をかけて考え込んでいる大きな像が飾ってある。日本なら小学生でも知っているシャンポリオンであるが、全く観光ガイドに載っていない穴場である。是非、一度訪れてみられては如何か。

オランダ・デルフト工科大学の思い出
   私は大変幸運なことに、1996年1月から5ヶ月間、今度はオランダのデルフト工科大学に客員研究員として滞在する機会を得た。一生に一度しか留学できないという暗黙のルールが全国の大学教官の間にあるらしいが、私は2度も留学したと同僚からうらやましがられている。
   1995年の初夏の頃、突然学科長から呼び出され、明日までに文部省の在外研究員応募の書類を書いて提出するようにと言われた。明日までと言われても招聘状が間にあわないのではと言うと、明日が締切だから国際電話ででもして頼めと言われた。時差の関係があるので便利な電子メールを使うことにした。そして、最近ディスコティック液晶の伝導度測定で独自の手法を用いて極めていい仕事をしているオランダのデルフト工科大学のジョン=ウォーマンさんに、招聘の可能性を打診した。ウォーマンさんは12時間後、気を利かしてサイン入りの招聘状をFAXで送ってくれた。

英語の通じるオランダ
   オランダに着いて驚いたことに、英語がどこでも通じる。どこのお店のおじさんやおばさんも、また床屋の主人も皆流暢な英語を喋る。聞くところによると、オランダ国民のほとんどが2?3ヶ国語は喋れるという。ホテルの受付やレストランのボーイさんなんかは英独仏+アルファができないとつとまらないらしい。また、オランダ人学生の語学教育は徹底しており、皆完璧であった。研究室のゼミでさえ学生の発表は英語でやることと決められており、また、オランダ国内の学会発表も全部英語であった。恐るべき大学教育である。現在、ヨーロッパの大学はフランスもドイツもどこも崩壊寸前のようで問題が多いが、オランダだけは正常に高等教育がなされていると感心した。日本も大学生の学力低下が最近著しく研究指導に大変手間がかかるようになったとどこの大学の先生に会っても言われるが、オランダ人の学生は学力も非常に高く研究指導にもそれほど手間がかからないようであった。日本はもう一度オランダから学ぶべき時期が来たのではないかと思った。また、ヨーロッパでオランダほど日本人にとって住み易いところはないとも思った。さて、私の滞在したデルフト市は、日本の京都のようなところでオランダ建国の父オランニュ公のお城が残っており、住人の約15%が学生である。デルフト工科大学は約200年の歴史があり、工科大学としてはオランダ随一だそうである。
   私は日本から伝導度測定用に長年合成したディスコティック液晶から約50種を持参して、博士課程1年生の美人女子学生のアニーク=ファンデクラーツと、一緒に巨大なバンデグラフを使って伝導度の測定を行った。ドイツのハーラーらの高速伝導性よりも、私が持参したサンプルの方が更に高速で、カズ(私のこと)はダイアモンドを持ってきてくれたと、ウォーマンさんに感謝された。因みに私はヨーロッパの知人友人からは、日本プロサッカー選手のカズよりもずっと以前の1986年当時からカズと呼ばれていた。

ディスコティック液晶と応用の芽
   さて、読者諸兄にはおそらくなじみのないディスコティック液晶の話が出たので、話の都合上ちょっと説明したい。一般に良く知られている液晶材料は分子の形状がお箸のような棒状をしている。しかし、ディスコティック液晶はお皿のような円盤状をしている。この液晶は、インドのチャンドラゼカールらが1977年に発見した。ディスコティック液晶の研究は現在までの20年間を通して基礎研究が中心であったが、最近、ディスコティック液晶中で高速の電荷移動が発見されたり、負の複屈折性を利用した液晶ディスプレイ(LCD)の視野角改善フィルムへの実用化などがあり、応用の面でも急速に注目されてきている。現在までLCDと言えば、材料的には、より電気の流れない誘電体(絶縁体)の棒状液晶の開発を目指してきた。ディスコティック液晶はこれとは全く逆に、より電気の流れる高速伝導分子配線などへの応用が将来期待され、従来とは全く異なる分野に応用されていくことになろう。

私と液晶研究
   私が液晶の研究を始めて今年で丁度20年になる。私と液晶との出会いは、1978年に阪大の博士後期課程に入学したとき、教授の三川礼先生から液晶をやらないかといわれたことに始まる。三川先生は有機半導体がご専門であるが、丁度その年、山口大学に行っておられた液晶の物理化学がご専門の艸林成和先生が、阪大の教授として帰ってこられることになっていた。それで、それに合わせてということだったらしい。ところが艸林先生の赴任が種々の理由で1年遅れ、私は三川研究室にいたままで液晶の研究を始めることになった。2年目になって艸林先生が赴任されたのだが、今さら研究室を変わることもあるまいということで、三川研所属のまま三川先生・艸林先生お二人から同時に御指導を受けるというある意味で大変恵まれた状況で学位を取った。

大学だからこそできる研究
   私が古くから、高伝導性ディスコティック液晶の開発に興味があったのはこのような状況によるようだ。異分野の融合ということが無意識のうちにあったものと思う。当初、三川先生は強蛍光性の液晶をやったらどうかといわれたが、私はそれまで無機ガラス中の遷移金属イオンのスペクトル研究をしていたので、有機遷移金属錯体の液晶の研究がしたいと申し出た。三川先生は、そのような液晶物質は聞いたことがないがおもしろそうなのでやってみたまえと許して頂いた。文献調査をしたらこのような研究をしている人は当時皆無に等しく、フランスのマルテートとジルさんの論文が2つあるだけであった。当時は、Metallomesogen(金属錯体液晶)という言葉もなかったが、1987年より国際シンポジウムも開かれるようになり、着実に発展してきている。因みに、2001年の第7回シンポジウムは日本で開催することが要請されているところである。
   このように私は20年間、多くのLCD関係の方々からは異端とも思える、金属錯体液晶やディスコティック液晶の研究を続けてきた。私は、異端とも思える基礎研究の中から新しい応用の芽が出てくるものと信じている。今後も大学だからこそできる研究を続けていきたい。
   最後に、短い期間ではあったが東芝総研に在職中、お世話になった松本正一氏が、本稿の執筆を是非にと薦めて頂いたことに、この場をお借りして感謝する次第である。




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