昔ばなし6:一太郎やあい
信州上田之住人太田和親
平成28年11月23日
この昔ばなしは、戦前の尋常小学校の教科書にも載った「一太郎やあい」の話である。
明治の中頃、讃岐の豊田村池之尻に岡田かめと梶太郎の母子が住んでいた。すぐ近所の新田というところに私の母親の叔母さん(私の大叔母さん)で豊田チヨが、警察官に嫁いで住んでいた。岡田家は梶太郎が尋常小学校にあがるかあがらないうちに、新天地を求めて日向の国(宮崎県)へ引越しした。しかし、どうも日向でも父親の商売もうまくいかず、その父親も確か亡くなったかで、岡田かめさんと梶太郎は、讃岐の豊田村に帰ってきて、また私の大叔母さんの近所に住んだ。したがって梶太郎は、讃岐の豊田尋常小学校には行かなかったので、地元では同級生がおらず、同年代の人たちは岡田梶太郎のことをほとんど知らなかった。当時、義務教育は明治40年までは4年間の尋常小学校だけだったので、なおさら同級生がいなかったのだ。非常に貧しい家庭だったようだ。そうこうするうち、梶太郎は徴兵になり丸亀歩兵聯隊に入隊した。そして22歳の時の明治37年8月28日、日露戦争のため、多度津港から、旅順に向けて出征することになった。
52歳の母親のかめさんは、息子が出征するというので、最後に一目会いたいと思い、朝暗いうちから起きて、5里(20キロメートル)の道のりを、豊田村から多度津港まで歩いて見送りに行った。当時鉄道の予讃線は多度津までしか開通していなかった。多度津―観音寺間が開通するのは大正2年12月20日だから、当時は観音寺駅はなかったのだ。だから徒歩で行くしかなかった。母親のかめさんが多度津港に着いたときには、見送りの人でごった返し、さらにもう兵隊は全員2艘の船に乗船した後だった。息子の梶太郎がどこにいるのかわからない。遠くの船にたくさんの兵隊さんが乗っているが、豆粒みたいにしか見えないし、みな同じ黒い軍服なので息子の梶太郎を見つけられない。船はもう出航しそうで、これが母子の今生の別れとなるかと思うと涙が出てきた。そこで母親のかめさんは、大声で、「梶太郎、そこにいるなら鉄砲挙げろ。」と船に向かって叫んだ。果たして、遠くの豆粒みたいに見えた一人の兵隊が、鉄砲を挙げた。かめさんはほっとしたが、大勢の見送り人が、大声に驚いてかめさんのほうをみんな見ている。恥ずかしくなって、かめさんは付け加えた。「梶太郎、お天子様によくご奉公するんだぞ。」と叫んだ。
その後、梶太郎は、激戦の旅順203高地の戦いに参戦し、生きて帰ってはきたが、ひどい凍傷にかかっていて、手の指を6本も切り落とさなければならなかった。そのため、家業の農業にも支障があり、岡田母子は、前にもまして貧困にあえいだ。
その後何年もして、この多度津港の出来事が有名になり、文部省の教科書に「一太郎やあい」と題されて、大正時代に全国的に尋常小学校で教えられるようになった。しかし、この母子がどこの誰だか不明だったので、県でも学校や警察関係を使って、捜索していた。学校関係者の小学校の校長先生が発見したことになっているらしいが、実は、梶太郎は讃岐で尋常小学校にほとんど行っておらず、同級生もいないことから学校関係者では見つけられなかった。近所の新田地区に住んでいた警察官の妻だった、私の大叔母の豊田チヨ、母や私は「しんでのおばはん」(新田の叔母さん)と呼んでいたが、そのチヨ叔母さんが、近所の池之尻地区に住んでいた岡田かめさんから、当時の多度津港のことを聞き及んでいたので、かめさんに会い、確かめた。
「鉄砲挙げろと言ったのは、あなたですか。」
「そうです。わたしです。」
「お天子様によくご奉公するんだぞと言ったのは本当ですか?」
「あれは、周りの人がみんな私を見て恥ずかしかったので、ただ付け加えて言ったのです。」このご奉公の下りは、今は文部省の創作だということになっているが、本当にかめさん本人が照れ隠しにそう言ったとチヨ叔母さんは聞いたとのことである。真相は今では不明である。
こうしてチヨ叔母さんの発見で、尋常小学校の教科書にも載った「一太郎やあい」の主人公の岡田かめ梶太郎母子がわかった。チヨ叔母さんの兄高嶋笹彦の妻が、ハギノといい、隣村の一ノ谷村に住んでいた。ハギノは、私の母の母親(祖母)であるが、このハギノの実家が大矢といい豊田村の出身である。このハギノの兄(つまりチヨの義理の兄、母の伯父さん)が大正から昭和の初めにかけてだと思うが、東京品川区長をしていた。この大矢品川区長から、政府に岡田母子発見の報を告げ、天聴に達した。
確か、私がまだ中学生の昭和42年(1967年)か昭和43年(1968年)頃に、私の母(太田キク、ハギノの長女)が産経新聞を読んでいると、明治100年の記念事業として、特集が組まれ、その記事が1か月にわたって連載されていた。ところが、「一太郎やあい」の母子発見のいきさつについて、産経新聞の記事には、豊田チヨ叔母さんや大矢品川区長の伯父さんのことが全く載っていなかった。そこで、母子発見の事情をよく知る母は産経新聞にそのことを投書したところ、連載記事が2日ほど休止され、新事実が見つかったので、取材中につき連載をしばらく休止しますとの断りが出た。連載が再開されたとき、豊田チヨ叔母さんのことは載らなかったが品川区長の大矢の伯父さんの話は産経新聞に採用されて載ったのを、私はよく覚えている。
戦後生まれの私の年齢では、教科書で「一太郎やあい」のことを習ったことはなく、それで同年代の友達は地元出身者でも一太郎のことは全く知らなかった。中学2年の時、水島工業地帯への日帰りの遠足があった。三豊中学校から、貸し切りの琴参バスで丸亀港まで行きそこからフェリーで水島まで行った。行きの貸し切りの琴参バスでは、バスガイドさんが、三豊地区を走っているときに、「ここは一太郎やあいで有名な・・・」と一生懸命説明してくれるのだが、三豊中学校区の中の豊田小学校区の出身の生徒さえ、一太郎のことなど全く知らないので、皆まったく関心がなく、バスガイドさんはとてもやりにくそうだったことを覚えている。
私たちの年代だと、一太郎といえば、和文ワープロソフトの「一太郎」しか思い浮かばない。ワープロソフトの「一太郎」は、愛媛大学卒業生の夫妻が四国徳島市で立ち上げた会社の製品で、全国的に知られている。きっと、全国的に知られていた明治の「一太郎やあい」にちなんで、全国的に売れるように夫妻は願いを込めたのだろうと想像する。その甲斐あって、一太郎は日本語ワープロの雄として日本を席巻した。今も、公官庁や法曹関係者は一太郎を使っている。このように、明治の一太郎も現代の一太郎も、四国の出身なのだ。
追記:梶太郎が何で一太郎になったのか不思議に思うであろう。当時の香川県知事が、確か東北の会津の出身で、東北訛りで「かづたろう」を探せと命じたため、さぬき人の県の役人は「かずたろう」と聞こえたらしい。そこで「かず」を漢数字の「一」とし「たろう」を「太郎」と漢字で書いた。それで梶太郎が「一太郎(いちたろう)」になったという。