さぬき昔話5:名医の藤田はん

 

信州上田之住人太田和親

平成281122日随筆

 

この昔話は、45年程前まで、讃岐の観音寺市豊田地区におられた名医の藤田はん(藤田さん)のことである。

尊敬する名医のふじたはんの発音は、この地方の独特の敬語アクセントで、高低低でないといけない。ふじたを、低低低で発音するのは、友人や後輩の場合であり、お医者さんのふじた先生には、高低低と発音するのだと、私が子供のころに父や母から、教えられた。友達のふじた(低低低)とお医者さんのふじた(高低低)はんは、このようにアクセントを変えて発音し、尊敬の念を表す。ネットで調べてもこのような、アクセントによる敬語表現がこの日本に有ることが書かれているのを見たことがない。極めて珍しい例ではないかと思う。ただ、昔の三豊郡時代の山本町史にはこのことがちゃんと書かれていたのを、私は覚えている。

ふじたはんは明治27,8年頃のお生まれと推定された。私が、昭和46年に藤田はんにかかった時、年は75歳くらいに見えた。わたしは、19歳で岡山市で浪人中で、とても不便な下宿に住んでいた。午後7時を過ぎると全く食事をするところがなくなり、よく食べはぐれて食事がうまくいかなかった。その時秋口から微熱が続き、秋が深まった頃になると朝起きると体の下の方に冷たい血がたまっているような気がする。岡山の済生会病院に行ったが、血糖値が高いとかいわれただけで何が悪いのかわからなかった。ろくに食べてないのに血糖値が高いのもおかしいので、ひょっとして姉と同じ白血病になって若くして死ぬのではないかと心配したが、白血病でもなかった。何かわからないが確かにすこぶる体調が悪いので、一時郷里の讃岐に帰って病院に改めて行くことにした。父母に勧められた藤田はんに行くと、

「誰と来とるな?(誰と来ていますか?)」

といわれ、付き添いの兄を、藤田はんは呼んだ。いよいよだめかと私も思った。

「どうも脚気の疑いが有る。しかし、微熱が続いているので結核の可能性もあるので、私の息子が観音寺の市街地で医院を開いているから、そこでレントゲンを撮ってきてつか。(撮って来て下さい。)」

とのことであった。レントゲンの結果を藤田はんに持って行くと、

「結核ではない。お前は脚気になっている。今の若い医者は診断できないが、これは脚気の症状だ。脚気はおそろしいんだ。心臓に来ると心臓脚気(脚気衝心)と言って死ぬことがある。お前は毎日何を食べているのだ。」

と私に聞いた。そして、藤田先生の特効薬といって、チーズを示された。それから、脚気の特効薬として、戦前から手放せない海藻から作った薬を暫く打って直そうということになった。それで1ヶ月程通ってだいぶ体が回復した。藤田はんの診断に今も感謝している。

 私はどうも脚気になりやすい体質らしく、その症状がでてくると自分でももうわかるので、必ずビタミン剤を服用して直している。45年もなるが、藤田はんの診断には本当に感謝している。

 1ヶ月も藤田はんに通っていたので、藤田はんから色々と面白い話を聞いた。藤田はんは、讃岐から旧制の九州帝国大学の医学部に進学した。その当時、九大に行くのに、鉄道の予讃線はまだ多度津までしか来ていなかったので、ここ豊田村から人力車で多度津まで行きそこから汽車に乗ったという。多度津?観音寺間に鉄道が通ったのは、大正2年(1913年)1220日だそうだから、藤田はんは、明治の末頃に九州帝国大学の医学部に進学したようだ。九大を出たあとは、熊本の水俣にあるチッソの病院に勤めていたそうだ。戦後になって、讃岐の豊田村に戻って来て、こちらで開業医となった。昭和46年当時、チッソは、戦後の高度成長期に、水俣病で大変な公害を起こして有名であった。ああ、あのチッソの病院にいた先生なのかと思った。

 藤田はんは小さな医院だったので、先生と奥さんと2人でこじんまりやっていた。奥さんが看護婦の資格を持っていて、受付や検査をこなしていた。藤田はんが、「ウー、測ってつか。(ウロビリノーゲンを測って下さい。)」と奥さんに指示しているのを覚えている。内科と小児科の先生だった。患者のいないときには、歌論を読んでおられるようであった。机の上に歌論の本が読みかけで載っていた。高貴な感じのする先生だった。今、生きておられたら、120歳は越えておられるだろう。忘れられない先生である。

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