さぬき昔話3:乱婚の日

 

信州上田之住人太田和親

平成281120日随筆

 

 

明治の昔、讃岐の国の大野村の話である。大野村には、祇園祭を夏に盛大に行う須賀神社がある。この神社のことを地元の人は大野のぎょんさん(祇園さん)と通称している。宵祭りの日には、夕方、近隣の村々からみんな歩いてこのぎょんさんにお参りに行くのが楽しみであった。その夜は、花火も上がり、須賀神社までの長い参道にはたくさんの夜店が並んだ。子供たちは小銭を握って、宵祭りに行って金魚すくいなどをやるのが恒例だった。

ところが、明治生まれのじいさんから伝え聞いた話によると、明治の初めまでは、この祇園祭の宵祭りの日は、「乱婚の日」だったのだという。「乱婚の日」とは現代風にいうとフリーセックスの日という意味である。お互いに合意があれば、だれとでもその夜だけはセックスをしてよい日だったとのことである。明治の初めまではそういう風習があったということだが、文明開化して、西洋から笑われるから明治政府から「乱婚」の風習は禁止になったとのことである。

明治の昔、隣村の河内(こうち)村には○○○家と言って、金毘羅さんまで自分の土地だけを歩いて行けると言われた大地主がいた。取れ高2000石と言われ、そこの娘さんは「おひいさま(姫様)」と呼ばれていた。○○○家は「せめてなりたや殿様に」という名家であった。おひいさまは、乳母や下男を連れて、宵祭りの日には河内村から歩いて須賀神社にお参りに行っていた。村の若い衆には、あこがれの人であった。身分の差もあり威厳もあるので、ほとんど雲の上の人である。ところが誰であろうとその日は合意さえあれば、いいことになっているので、あるさいあがりのわかいし(=ふざけて調子に乗る若者)が、おひいさま一行の前に出て、その夜の合意を求めた。ところが、一瞬のうちに、「無礼者、下がれ。」と言われ、その若者は権威に圧倒されて道端の草むらに退いてひざまづいたという。

明治の昔、まだ江戸時代の乱婚の風習や侍や大地主の権威が残っていたことを今に伝える話である。

 

目次へ戻る>>