さらに信州上田市と出羽由利本荘市とのつながり
令和元年(2019年)6月15日
信州上田之住人和親
秋田県立大学
N先生
信州上田市と出羽由利本荘市との不思議な縁について、以前に、糸川先生つながりのご縁を書きましたが、もっと昔から、不思議なご縁があることが分かりました。実は、来週、秋田県立大学由利本荘キャンパスに伺うので、由利本荘市についてさらに調べていて、以下のように大変興味深い昔からのご縁が分かりました。
(1)秋田県の由利本荘市の由利の起源は信州にあり。
理由:大井氏(信州佐久郡) → 由利十二頭(出羽国由利郡)
大井氏(小笠原氏族):小笠原長清の七男朝光が、承久3年(1221年)の承久の乱における「宇治川の合戦」での戦功により、信濃国佐久郡大井荘の地頭となって土着したのが起源とされる。
由利十二頭:軍記物には応仁の乱(応仁元年(1467年))のころに、信濃国佐久地方から由利十二頭が配置されたとされており、以後彼らが地頭として由利地域に割拠した。出羽国由利郡の由利十二頭のほとんどが信州出身の大井氏の庶流(分家)を称している。
小説の世界:真田三勇士のひとり『由利鎌之助』の、名前「由利」の起源は信州にあり。秋田県の由利本荘市の由利も、起源は信州にあり。
(2)真田幸村の娘「お田の方」が由利本荘市亀田藩に建てたお寺「妙慶寺」がある。
慶長9年(1604年)、真田信繁(幸村)と豊臣秀次の娘「お菊(隆清院)」との間に生まれた。信州上田の真田幸村の五女で、名は「なお」また「お田の方」とも呼ばれる。出羽国亀田藩(現在の由利本荘市)第2代藩主岩城宣隆の側室、のちに継室(=後妻)となる。慶長9年(1604年) - 寛永12年6月11日(1635年7月24日))。亀田藩内にある「妙慶寺」は、お田の方が建立したお寺で、真田幸村の位牌がある。
このお田の方は、極めて数奇で希有な血筋である。お田の方の母親、隆清院は、秀次の娘であり、生後1ケ月のとき(文禄4(1595))、秀吉による秀次一家一斉処刑を免れた数少ない秀次の血筋である。また、お田の方の父親、真田幸村は、大坂夏の陣で戦死し、その子孫は滅亡の運命にあった。お田の方は大坂城落城時(慶長20年(1615年))、曾祖母である瑞龍院のもとへ避難していて、生きのこった。両親ともに、極めて数奇で希有な血筋の人である。
真田幸村の血が秋田の由利本荘市に残っているとは今まで知りませんでした。