差別の原点は何か

―信州上田の歴史から考える―

2018413-20随筆

信州上田之住人和親

(はじめに)

古今東西、世界中において、自分とは異なる人々に対して違和感を持ったり、持たれたりすることは普遍的に存在してきた。この違和感を原点にして、排他的な差別意識や深刻な社会的な差別が生まれてきていると考えられる。

我々は、どのような事柄から他人に違和感を持ったり持たれたりするだろうか。この違和感は次の4つが基本になると筆者は考える。

(1)見た目が異なる。

具体的には例えば、

・皮膚の色や髪の色、目の色が異なる。
・性別、年齢が異なる。
・服装が異なる。

などである。

(2)生活手段や生活水準が異なる。

・狩猟採集生活をしているか、稲作などの農業をしているか。
・定住生活をしているか、移動生活をしているか。
・家を持っているか、持っていないか。
・貧乏か裕福か。

(3)信じる神が異なる。

・原始宗教を信じている。みしゃくじ、しゃぐじ。
・道祖神と神社神道。
・仏教と神道。
・多神教と一神教。
・キリスト教とイスラム教

(4)言語が異なる。

・他言語を強要する、される。
・他言語を用いないと社会的出世がない。

これらを具体的に一つ一つ見て行こう。

(1)見た目が異なる。

私が、オランダに留学していた時、オランダのテレビに極めて興味深い公共広告が放映されていて、非常に感心した。

真っ暗な部屋に誰かが、右から入って来た気配がする。そこで、カシャと音がしてエックス線撮影が行われ、その人の全身骨格だけが示される。つまり、骸骨だけが見える。その人が、部屋から出て行って、また、別の人が入って来た気配がする。そこで、また、カシャと音がしてエックス線撮影が行われ、その人の全身骨格だけが示される。またまったく同じように骸骨だけが見える。なんだ、人間が二人入って来たのをエックス線で見ているだけの広告か。そう思っていると、今度は、部屋を明るくしてさっきの一人目が入って来る。その人は、白人であった。その人が部屋から出て行き、次に、さっきの二人目の人が入って来る。その人は、黒人であった。そこで、字幕に、我々人間はそんなに違いはない、差別をなくそうという公共広告が出た。素晴らしい公共広告だと思った。エックス線で骸骨だけを見たら我々は違いがない。肌が白いか黒いかで区別するのは、愚かだという内容である。

灼熱の地方に長年住んでいると肌が黒くなり、寒冷の極北に住んでいると太陽光にあまり当たらないので、肌が白くなって、もやしのように背も高くなってくる。サマセット・モームの書いた「月と六ペンス」という小説の中に、同じイギリス人だが、当時イギリスの植民地だったシンガポールで生まれたイギリス人の子どもは、日照時間が長いのですぐに大人になり、イギリスで生まれ育ったイギリス人の子供に比べて、相対的に背が低いという話が出て来る。これが5千年、1万年の間、何百世代も続いたら、肌が黒くなり背が低い人になっていくのだろう。だから、身体的特徴というのは、気候による長年の影響である。同じ人類でも、見た目が異なるのは、本質的な差ではないことがわかる。

また、同じ肌の色でも、性別や、年齢が異なると、見た目の違いがある。女性に対する差別は、長い間世界各地であったし、今も多くの地域で残っている。日本では戦後まで女性に参政権がなかった。アメリカでは、戦後のある時期まで女性は、銀行口座を作れなかった。中東のイスラム諸国では、女性が車の運転免許を取れない国がある。インドでは、親の決めた相手と結婚しなかった女性は、父親や兄弟から殺される「名誉殺人」が慣習になっているところがある。

子供や老人に対する差別や虐待も、世界中で深刻な問題である。子どもは保護され教育を受けるべき存在であるが、子どもに労働させ学校に行かせない。子どもを間引きしたり、働けなくなった老人を山に捨てる「姨捨」の習慣は、日本でも近世まで見られた。「楢山節考」という小説や映画で有名である。

服装が異なるだけで、差別されることもある。フランスでは、近年たくさんイスラム教徒が移民として流入し、小学校などで、イスラム教徒の女子生徒が髪を隠す「ヒジャブ」というスカーフを着用するのを、ごく最近、法律で禁止され、先生と生徒やその親との間で大問題になっている。私は、小学生のころ、和式の防寒着を着て学校に行ったところ、若い女性の先生から、そんなもの着てくるなと言われた。そこで、母親が怒って「日本人が、日本の服を着て、なぜいけないのだ。」と怒りの抗議の手紙を私に持たせたのを覚えている。大正5年生まれの母親や父親の世代は、小学校には和服で通っていたので、戦後の急速な洋服着用の風潮には、かなりの違和感を持っていたのだろう。サザエさんのお父さんの波平さんは家に帰れば和服を着ている。もう、これは私たちの親の世代までの話だろう。このように服装に対する違和感は、民族や世代間で普遍的に存在する。

(2)生活手段や生活水準が異なる。

生活手段や生活水準が異なることで、大きな差別を受けることがある。

例えば、アイヌの人たちが受けた差別を見てみる。明治時代になって、北海道のアイヌの人たちは、それまで、狩猟採集を生活手段としていたが、政府の方針で、農業をすることが奨励された。明治32年に「旧北海道土人保護法」が制定され、同化政策が推し進められた。しかし、それまで、秋になるとたくさん川を遡上する鮭を取り、冬に備えるのは何十世代ものアイヌの生業であった。萱野茂さん(昭和元年(1926)生)という方のお父さんは、それまでの慣習にしたがって秋、鮭を沙流川で取っていたら、巡査に「密漁」していると言われてつかまり、監獄に送られた。萱野茂さんは、父親が犯罪者の息子とされ、非常に肩身の狭い思いをした。萱野さんが、成人して植林の仕事をするようになった時、萱野さんは、父親の職業はいったいなんだったのだろうかと考えたという。私は、それまでアイヌの生活手段であった鮭漁を禁漁だと一方的に政府が定めて、伝統的生活手段を奪って、それで逮捕するなどというのは、あまりにも理不尽だと思った。萱野茂さんは、北海道沙流郡平取の出身で、アイヌ出身の最初の国会議員になった人である。彼は、明治以来続いていた差別的な「旧北海道土人保護法」を廃止させ、新たに「アイヌ文化振興法」を平成9年に成立させたアイヌの偉人である。彼は国会で初めてアイヌ語で演説した人でもある。現代の日本で平成9年まで「土人」などという差別的言葉の入った法律が生きていたことは、多くの人々にとって非常に驚きであろう。

この萱野茂さんのお父さんの大正や昭和初期の鮭にまつわる話だけではなく、もっと大昔に、同じような生活手段の違いからの大きな軋轢が、日本列島に起こっている。

縄文時代は、一部、三内丸山遺跡で判明したように、栗の木を栽培するような農業もあったと言われているが、多くは狩猟と採集が生活手段であったことは間違いない。そこへ、稲作や養蚕という技術を持った、弥生人が入って来た。この時の軋轢は想像以上に大きなものであった。

信州は、周りの山が高く、なかなか弥生人が入って来られなかったので、遅くまで縄文の文化が残った。信州上田には、神畑(かばたけ)というところがある。ここは、神畑神社の由緒によると、出雲の国から、この地に逃れてきた「タケミナカタ」の集団が、この地まで来たときに、生島と足島という土地の有力者が、更に先に行くのを許してくれなかった。つまり道を通してくれなかった。そこで、しばらくの間にこの地に留まり、この地の原住民に初めて「稲作と養蚕」を教えたとある。それで、神の畑という意味で神畑という。この近くにある上田市舞田の塩野入神社には、「タケミナカタ」を信濃の国開闢の祖として祭っていると明確に書かれている。つまり、信濃の土地は、それまでは、縄文人が蟠踞し、国家は成立していなかった。国という組織は、縄文時代にはなく、弥生時代の農業社会になって初めてできるものである(ジャレット・ダイアモンド「銃・鉄・病原菌」、草思社、2012)。タケミナカタの一行が、この地に来たのは、おそらく今から2000年くらい前、遅くとも1800年くらい前の話である。それまでは信州は縄文時代である。タケミナカタが信濃の国を建国した後に、信州は弥生時代となる。しかし、信州がその時一斉に農業社会の弥生時代になったのではなく、遅くまで縄文人が自分の習俗や生活手段の狩猟採集を行っていたことが、上田市真田町角間の岩屋遺跡からわかる。角間温泉のある岩屋遺跡には、縄文人が1200年前の西暦800年ごろまで住んでいた。縄文人が狩りの為に動物を追って、田んぼに動物とともに侵入して、踏み荒らすので、稲作をやっている弥生文化の住民からは大変嫌われる存在になっていた。そこで、坂上田村麻呂がこの地に来た時に、その角間に住んでいた鬼達の酋長「ヒヤ」を捕まえて針金で縛り、真田の傍陽(そえひ)というところで処刑した。その地には、今も金縄山実相院というお寺がある。金縄山というのは、針金でできた縄という意味で、「ヒヤ」を処刑した場所にちなんだ名前である。戦後、教育委員会が角間の岩屋遺跡を、発掘調査したところ縄文の遺跡であることが判明した。したがって、この「ヒヤ」が、本州最後の縄文人だと私は見ている。西暦800年ごろといえば、空海が唐の留学から日本に帰ってきたころ、奈良時代の初めごろの話である。そのころまで、信州にはまだ縄文人が住んでいたことになる。しかし、田んぼの邪魔になるからと、彼らの生活手段を行わせないように森を消滅させ、農業をしない狩猟民族の縄文人を殺戮してしまうということは、差別の悲劇の最たるものであろう。上田市塩田地区野倉の塩田水上神社にも同じような話が残っている。日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地の鬼を退治したという話の鬼は、「ヒヤ」と同様縄文人のことであろうと私は推察している。殺戮や退治まで行かなくても、森が切り払われ、徐々に農地になってしまえば、彼らの生活の糧を得る場所がなくなっていき、生活して行くのが困難になっていく。しまいには山や川の傍で細々と貧しい生活を余儀なくされてしまう。これらの人々は、日本では、関東以西で被差別部落として長い間差別されてきた。この状況は、近年アマゾンの熱帯雨林が焼き払われて農地に転換され、原住民の生活の場が徐々に狭められているのと、酷似している。周りの原生林に農地を拡げたい入植農民が、原住民を銃や機関銃で殺害する事件が後を絶たず、ブラジルやコロンビア政府が原住民保護官を派遣して農民を監視している。現在でも、地球上で原住民の部族は絶滅の危機に瀕しているのである (マーク・プロトキンTEDGlobal 2014)

ここで、マタギについて考えてみる。マタギは、関東より東の主に東北地方の狩猟民のことを言い、秋田県の阿仁地方はマタギの里として有名である。マタギの南限は、信州秋山郷であると考えられている。現在秋山郷では、マタギの伝統を絶やさないようにと、6人のマタギが協力し合って狩猟の技術を守っている。江戸時代後期の鈴木牧之の「北越雪譜」には、秋山郷のマタギは、東北地方から新潟の長岡付近まで南下してきて、さらに秋山郷まで足を延ばして定着したことが記されている。

「北越雪譜」には、秋山郷の言葉が他とあまりにも異なるため、ほとんど会話が通じないということも書かれている。昭和30年代に信州大学の教育学部の先生が、秋山郷の方言を研究したところ、秋山郷の方言には母音が7つあり、「えお」が2種類ずつ存在していて、鎌倉時代の日本語の母音体系が今に残っていることがわかった。日本語は、万葉時代には8母音であったことは、万葉仮名の研究で明らかにされているが、鎌倉時代以降だんだん5母音になったことが分かっている。秋山郷の方言はまさに古代の日本語が方言として残ったものと考えられている。現在の日本語は、アイヌ語と同じ5母音である。現代の朝鮮語は10母音である。したがって、言語学的には、日本語は、原住民の縄文人が5母音の所へ、8母音あるいは10母音の言語を話す弥生人が入ってきたため、大多数の原住民は8母音が話せず5母音になったと考えられる。現代の日本語は、クレオール(混血)語である。

マタギの話に戻ると、仏教が日本に入ってきたとき、四つ足のけものを狩って食べてはいけないという思想が、マタギを苦しめた。そこで、秋田県の阿仁地方には、マタギは日光大権現から許された生業だという聖典が書かれ、現在まで大切に伝わっている。仏教の四つ足の動物を殺して食べてはいけないという思想は、マタギを精神的に非常に苦しめたことが、このマタギの聖典の存在からも容易にうかがうことができる。東北地方を中心にマタギが分布しているが、マタギが分布しているところには、ほとんど、関東以西のような被差別部落がないことは注目すべきことである。また、マタギは山に入って狩りをするときには、マタギ同士では、山の神様に分からないようにと、普段村では使わない言葉を使う習慣がある。犬のことをセタ、水のことをワッカなどという。これは、アイヌ語そのものである(太田雄治「マタギ消えゆく山人の記録翠楊社、1979)。また、大変面白いことに、北海道では、アイヌの人々も、山に狩りに出かけると、山の神様に分からないようにと、普段村では使わない言葉を、やはり使う習慣があった。しかし、明治期までの北海道のアイヌは、山では逆に和語を使った。彼らは普段村ではアイヌ語を使っていたからである。東北と北海道では、全く逆だが、思想は同じで、山の神様に分からない普段使わない言葉を使う。この特徴的な風習から、マタギが、アイヌの習俗から来ていることは明らかである。狩猟をするマタギは、縄文人やアイヌから来ている生業である。したがって、関東以西のように、早くから弥生人との接触があった地域では、このようなマタギとの歴史的関係が容易に分からなくなっても、貧困が主な理由となって被差別部落として残ったものと考えられる。

関東以西で、縄文人やアイヌの習俗が起源と考えられるのは、おそらく「白山信仰」と石川県や福井県に昭和30年代まで残った「出作り小屋」の習慣だろう。白山は、霊峰であり白山の神の使いは熊である。そこで白山をお祭りするときには、雌雄1対の熊の頭骨を台に載せてかかげる。石川県教育委員会が昭和30年代に撮った記録映画で、このお祭りの様子を見たことがある。まず動物の骨を掲げることに、他の信仰からは、真っ先に異質な感じがする。しかし、アイヌ語やアイヌの風習を学ぶと、何ら異質ではないことが分かる。アイヌの人たちにとっても、熊は神の使いで、熊のことを「ヌプリコルカムイ」という。ヌプリは山、コルは持つとか守る、カムイは神という意味である。したがって、「ヌプリコルカムイ」は山の神ということになる。白山信仰はアイヌの習俗から来ていることは明らかである。

また、「出作り小屋」というのは、白山周辺の石川や福井では、人口が増えて農業をする土地が少なくなると、山の方に出て行って小屋を作り、そこで、雪の降らない夏場などの季節に、畑や狩猟をして生活をする。この出作り小屋の間取りが、アイヌの人たちの作る家「チセ」の間取りとまったく同じだと建築家から指摘されている(川島宙次、「日本の民家 その伝統美」、p20, 講談社現代新書、昭和53年)。普段は農業をしているのだが、人口が増えたりすると、昔ながらの風習に戻って生業を立てていたということである。

石川県の能登半島は、日本語では意味がわからないが、アイヌ語でノト(not)は、半島という意味である。北海道の納沙布岬などもアイヌ語notから来ている。能登半島というのは、半島半島と言っているのである。

最近(2018.4.13)、塩田公民館の社会教育指導員人権同和教育担当の知り合いの方から、被差別部落では多く「白山神社」が祭られている。しかしその理由がはっきりしないとの記述が、1976年の長野県同和教育推進協議会「あけぼの」資料編に載っているとの指摘があり、どう思うかと聞かれた。私は、被差別部落では多く「白山神社」が祭られていることを、この時初めて知ったが、この指摘にすぐさま、白山信仰が、狩猟民族のアイヌや縄文人の信仰や風習から来ていることを、その方に話し、不思議でもでもなんでもないと答えた。

農業をもたらした弥生人は、生活手段が狩猟を中心にした縄文人を圧迫した。これが、現在までの被差別部落成立の原因になったことは、これまで見てきた鮭の禁漁や、マタギの精神的苦難、白山信仰と出作り小屋の風習から明らかであろう。

信州上田の太古の歴史は、多くの遺跡や神社の由緒などから、次のように考えられる。数千年前から信州には数多くの縄文人が住んでおり、そこへ約2000年前に、稲作や養蚕の農業技術を持った弥生人達が、出雲から天皇の祖先に追われてやってきた。その時「タケミナカタ」らはシナノ(科野、信濃)の国を作った。それからシナノは数百年かかって縄文文化から弥生文化に変わっていった。しかしシナノは、出雲の亡命政権なので、いつ大和朝廷に反乱するかもしれず、天皇家では、古墳時代に入ると、九州の阿蘇の初代国造(県知事)のタケイワタツの息子タケイホツをシナノの初代国造として派遣した。大和朝廷の完全な支配下にするためである。上田市には、前方後円墳は2つしかないが、一つは上田市北小学校と大星神社の前にある「二子塚古墳」である。これは口伝によると信濃の初代国造タケイホツの墓であるといわれている。もう一つは塩田新町の王子神社の裏にある「王子塚古墳」である(塩田文化財研究所編、「信州の鎌倉 塩田平とその周辺」、信毎書籍出版センター、p80-81, 昭和60年)。塩田平は、九州の阿蘇地方からタケイホツとともにやってきた人々が定住したので古安曽(コアソ)という地名が残っている。タケイホツにしたがってきた有力な氏族は、他田(オサダ)氏や金刺(カナサシ)氏である。金刺氏は手塚氏の祖先である。塩田平の手塚地区は、もと手塚氏の根拠地だったのでその地名が残った。したがって塩田地区の王子塚神社裏にある前方後円墳も、九州から来たタケイホツ関係の有力者他田氏や金刺氏などのものであろう。タケイホツは神武天皇の曾孫(ひまご)でもあり、出雲のオオクニヌシの命の玄孫(やしゃご)でもある。したがって、彼は、出雲勢力と天皇家の両方の血をひいているので、出雲の亡命政権の信濃の国を、懐柔支配するのにぴったりの人だった。それで、信濃の国の初代国造として送られてきたのだと推測できる。信州上田の太古の歴史は、縄文人出雲勢力天皇家(大和朝廷)勢力と変化して行ったと考えてよい。

(3)信じる神が異なる。

差別の根源として、信じる神が異なるというもの大きなものの一つである。

縄文時代には信州では「みしゃくち(みしゃくじ)」あるいは「しゃぐち(しゃぐじ)」と呼ばれる神を信じていた。今も、信州を中心に、愛知県から東京都に至る広い範囲に、地名として残っている。社宮司、社口、赤口、石口、左口などの漢字が当てられている。上田市には常田地区、イーオンの隣に「しゃぐじ」という名前の墓地があり、明治期に、科野大宮の敷地内に合祀移設された社宮司神社がもともとそこにあった(吉村八州男、私の古代つれづれ草、東信ジャーナル)。じゃくち(= si-a-ku-chi)はアイヌ語で解釈できる。アイヌ語は極北語族の抱合語であるので、siaも接頭詞であり、ku-chiが本来の語幹と考えられる。(抱合語の例:アメリカインディアンのモホーク語 “Chapter 1, Recapturing the Mohawk Language” in “Languages and Their Status” ed. Timothy Shopen, Winthrop Publishers, Inc., 1979). 「おくんち」という長崎市の諏訪神社のお祭りがある。この「おくんち」は「しゃくち」の「く-ち」が本来の語幹であることの証拠であり、「くのち」「くんち」になった と考えられる。Kuは「本物の」、chiは「男根(ちんちん)」というアイヌ語で、縄文遺跡からは、男根をかたどった「石棒」が出土し、力強い生命力を表すものとして、縄文時代には信仰の対象になったと考えられる。民俗学者の柳田國男は「しゃぐち」の神を、サイノカミ、すなわち、村の入り口に立てる境界の神だとしている。村の入り口に立つ神は、今の信州では道祖神である。したがって、しゃくちが道祖神になったのか、しゃくちと、サイノカミ、道祖神は元々同じものなのか今となっては不明である。識者の解明を待ちたい。

私は四国の香川県の出身であるが、36年前の昭和57年(1982年)に信州に来て、初めて「道祖神」というものを知った。西日本では道祖神をほとんど見たことがない。四国ではまったく見たことがない。道祖神については、京都市内や茨木市内に道祖神社があるが、この辺りが道祖神の西端ではないかと思われる。道祖神は、平安時代の末期には、和歌山や九州にもあったことが「今昔物語」に書かれている。その「今昔物語」の中では、道祖神は位の低い神とされ、かなり蔑まれた書き方をされている(今昔物語 巻第13 第34 天王寺僧道公誦法花救道祖語;今昔物語、巻第19 第12 鎮西武蔵寺翁出家語)。一方、サイノカミ(塞の神)も、私自身は四国では見たことがないが、文献によると、香川県にもサイノカミの祠がかつてあったようだ。武田明著「37日本の民俗 香川」108ページ、第一法規、昭和46年、によると、「塞の神のほこらは今では非常に少なくなっていて、大部分が村の氏神の境内などに合祀されている。しかし地名やほこらは少しは残っているようである・・・・・仲多度郡多度津町の門前町には古くからサイノキサンと呼ぶ小さな祠があった。その神体はまぎれもなく男根でここではやはり子どものせきの神様となっている。」とある。

道祖神の原点もアイヌにあると考えられる。ある時、テレビを見ていたら北海道屈斜路湖だったか阿寒湖周辺のアイヌの人たちが75年ぶりに、シマフクロウのイオマンテ(神送り)のお祭りを復活する話が出ていた。なにしろ75年ぶりなので、本物のお祭りを見たことがあるのは、隣町へ嫁いで行った85歳くらいのおばあさん以外にいない。そこで、祭りを担当する4060歳のアイヌの人達は、このおばあさんを呼んで話を聞くことになった。おばあさんはタクシーに乗ってやってきたが、村落に入る手前で、いったんタクシーを止めて降り、村の入り口にある祠にお参りしてから、再びタクシーに乗って村に入った。この祠でお参りしないと村に入れない。ここの土地の神様に挨拶をしておかないと、村に災いをもたらすと信じてのことだった。これが道祖神の役割である。大昔は、外部から人が来ると、それまでなかった伝染病が流行ったりしたためであろう。これらの災いを入れないようにするのが境界の神の役割である。道祖神は、西日本には今はほとんどないが、韓国の済州島や釜山周辺にはある。トルハルバンという帽子をかぶった石像である。石棒に似ている。フィリピン、ニューギニア、ニュージーランド、ハワイにも同じようなチキ(tiki)と呼ばれる石像や木像が見られる(ハワイ ビショップ・ミュージアム)。台湾の高砂族(山地人)は、漢民族に圧されて、福建省から台湾へ、そしてフィリピン、ニューギニア、ニュージーランド、ハワイへと民族の大移動をしていったことが分かっている。きっと、道祖神(tiki)は、この人たちの移住とともに環太平洋に普遍的に広がった信仰であると考えられる。西日本へは、別の信仰をもった人たちが後に入ってきたために、道祖神の信仰は中部以東の東日本のみに残ったものと考えられる。

以上のように、みしゃくち、しゃくちの縄文時代の信仰は、奈良時代までにはほぼなくなってしまい、主に地名としてだけ残ったと思われる。しかしながら、道祖神の信仰は現代まで東日本を中心に残った。弥生人の神様、つまり現在につながる神道が、入っていてからは、原始宗教の道祖神は位の低い神とされて西日本では差別され排斥されていったようだ。

仏教が日本に入ってきたのは、公式には欽明朝の西暦538年であり、その時、仏教を受け入れた蘇我氏と、神道を維持しようとした物部氏の間に争いが起こったのは有名である。争いはあったが、相手を徹底的に殲滅せずに、最後はお互いの信仰を尊重して共存する道を選んで現代に到っている。そのため、日本では神道と仏教が共存し、他の宗教に寛容であるといわれている。一方、キリスト教とイスラム教は、現在に到っても他宗教や他宗派を殲滅するまで攻撃をやめない傾向が強い。世界的に、イスラム教徒とキリスト教徒の間、ユダヤ教徒とイスラム教徒の間の軋轢は千年単位で続いており、現代でも非常に大きな問題である。

日本人が、他宗教に寛容なわけの一つとして、神道と仏教の共存の話をしたが、実は、それよりもっと前に本当の歴史的理由がある。天皇家の先祖、天照大神が出雲にタケイカヅチを派遣して、国を譲れと迫ったとき、出雲のオオクニヌシの命は長男のエビス様と相談して、国を譲ることにした。しかし、国を譲る条件として、自分たちの信仰は続けることを認めさせた。そのため出雲大社が現在まで残った。一方、次男のタケミナカタは、父のオオクニヌシの命や兄のエビス様とは違って、国譲りには反対した。そこで、天照の派遣軍の将軍タケイカヅチは、「それでは私とお前と相撲を取って、お前が勝てば国を譲らなくてよい、お前が負けたら国を譲れ。」といって、相撲をとった。果たして、タケミナカタは相撲に負けて、国を譲ることになった。相撲といっているが本当は戦争をしたことを、象徴的に言っているのである。戦争に負けたタケミナカタは、母ヌナカワヒメの故郷の高志(越)の国の糸魚川まで逃げてきたが、海岸近くでは追手が攻めてくるので、さらに山奥に逃げ、ここから出ないからこれ以上攻めないでくれということになり、信州に引きこもった。それで信濃の国ができたのである(古事記)。しかし、タケミナカタ一行が、苦労してようやく上田を通り抜け岡谷まで来たとき、今度は原住民の守矢(モレヤ)氏と衝突し、戦争となった(諏訪絵詞)。しかし、タケミナカタもモレヤ氏も、最後はお互いに相手を殲滅せずに、お互いの宗教を尊重し合って共存共栄することとなった。そのため、諏訪大社には、上社と下社に分かれている。上社は鹿の頭を75個並べたり、ウサギの串刺を飾ったりする縄文文化を色濃く残した御頭祭を行う(詳細な記録:江戸時代末期の民俗学者、菅江真澄)。下社では、御頭祭は行わず、お田植え祭りなどの弥生文化を象徴するお祭りだけを行う。これは、信濃で縄文文化と弥生文化が出会ったとき、お互いの文化や信仰を認め合って共存共栄を図った結果であると考えられる。タケミナカタは、出雲でも父オオクニヌシが自分たちの宗教を維持しながら天皇家と共存したように、信濃でもモレヤ氏の宗教を否定せず維持させて共存を図ったのだ。出雲と信濃の2つの実例が、日本が他宗教に寛容になった本当の理由だと私は考えている。世界のイスラム教徒とキリスト教徒の間、ユダヤ教徒とイスラム教徒の間にも、この日本の実例に学んで、宗教対立や宗教差別をなくしてもらいたいと思う。

(4)言語が異なる。

言語が異なることも大きな差別の原因となることがある。

今、英語が世界共通語となり、英語ができないと個人も企業も国際的に活躍できない時代となった。いつの時代も小国の人達は大国の言語ができないと、社会的な出世や、極端な場合は生活もできないこともある。したがって、小国の人達は大国の言語を学ぼうとする。あるいは、大国の人達から大国の言語を、暗に陽に使用する圧力を受ける。同様の状況は同じ国の中でも、多民族国家の場合には起こりうる。マイノリティー(少数派)の人達は、マジョリティー(多数派)の人達から、マジョリティーの言語の使用を暗に陽に使用する圧力を受ける。例えば、チベット人やウイグル人は、中国語を喋らないと社会的な出世ができない。良い職業、稼ぎの良い仕事に就けないなどの差別を受ける。現在中国の西域では、チベット人やウイグル人への差別が、大きな問題となっている。

日本でも縄文時代から弥生時代に変わっていくときに、このような大きな言語的な問題が起こったと考えられる。縄文時代には、現在のような日本語は存在していなかった。例えば九州の南部では、インドネシア語系の言語が話されていたと考えられている。隼人語はインドネシア語系の言語だったといわれている。隼人は、平安京の都の警護を担当していたが平安末期には、朝、宮廷の周囲で警護を始めた隼人の独特の叫び声が聞かれなくなったなどの記録が残っている。また、東日本には、石川県あたりから東の地域、特に東北地方ではアイヌ語の地名が数多く残っていることからも,アイヌ語が使われていたことは間違いない。

大和朝廷が成立した当時、各村には和語が喋れる者を、選んで村長にして支配した。村長は、和語では「むらおさ」という。「おさ」という地名が、福岡県南区にあるが、曰佐という漢字が当てられており、そこに住んでいる友人は、曰は漢文に出てくる「いわく」で、しゃべる、語るという意味、佐はたすける、つかさどるという意味なので「曰佐」というのは、通訳という意味だと私に説明した。福岡は中国と近いところにあるので、太宰府が中国との貿易の窓口となっていてその通訳が昔ここに住んでいた。それでこの地を「曰佐」というのだそうだ。なるほど、このことから考えても、村長(むらおさ)は、通訳だったのだ。村で言語能力の優れたものを村主とした。村主という女子スケーターがいたが、この名前の読み方は「すぐり」であった。難読漢字の典型である。村で選(よ)りすぐりの通訳が村主になったのであろう。

上田市真田町にもやはり「長」と書いて「おさ」と読む地名がある。これもきっと和語のできる通訳がいたところであろう。1200年前の西暦800年頃まで、同じこの真田地区には「ヒヤ」などの縄文人が住んでいたので、縄文から弥生に変わり始めた約2000年目から1800年前は、縄文語を喋る人達を支配するため、大和朝廷は和語を解する者を長(おさ)とした。その人が真田町長(おさ)の地に住んでいたものと思われる。いち早く、外国語ができるものが社会的に出世したことが、やはり、この古代日本でも読み取れる。最後まで同化せず縄文文化を守り縄文語を話す人々は、徐々に少数派となり、社会的なのけもののような存在になって行ったと考えられる。したがって、古今東西、言語が異なることは、大きな障害と差別の原点となることが分かる。

(おわりに)

以上、差別の原点となる4つの理由を、信州上田の歴史から、それぞれ見てきた。信州上田の古代からの歴史を見ていると、古代には、アイヌ語系の縄文語を話していたことが強く示唆される。そこで、最後に、上田市の塩田の地名の起源をアイヌ語から考えてみる。

海のない長野県の上田市に、塩田(しおだ)という地名があるのは非常に不思議である。私は子供のころ瀬戸内海に面した香川県に住んでいて、そのころは、香川県の海岸にはたくさん塩田(えんでん)があった。中学2年生のときの昭和41年(西暦1966年)、その塩田の脇の小屋を借りて一晩友達と3人泊まりがけで、理科の先生の指導のもと、風向きの観測をしたことがあった。今は、もうそのような「流下式枝条架併用塩田」はなくなり、「イオン交換膜製法」の製塩に変わり、食塩は工場で作られるようになって今日に至っている。したがって、私には塩田は、非常に懐かしい。しかし、海のない信州上田の塩田(しおだ)には、塩田(えんでん)は、今も昔もない。上田に来て36年になるが、どうして、塩田(しおだ)というのか私には非常に不思議だった。地元の人に聞いてもなぜ塩田というのかわからない。そこで、塩田地区の地図を見てみると、南の大字前山には、塩野川がありその上流山裾には非常に古くからの延喜式内社塩野神社がある。塩野川下流には塩田平が広がり、その塩野神社の真北には、塩田平を挟んでまた山があって、そこの大字保野(ほや)にも、これまた非常に古くから延喜式内社で同名の塩野神社がある。同じ塩田平に同じ名前の塩野神社があることが、これまた非常に不思議である。しかし、これらの地名・神社名に共通しているのは、「塩」という言葉である。田や野、平は後から付けたものである。したがって、「しお」という言葉に何か重大な意味があると考えられる。一説に、大字保野地区で塩化カリウムという塩が取れたからだという話もあるらしい。それでは、大字前山地区の塩野川や、塩野神社はどう説明するのか。こちらでは塩が取れたという話はない。塩田地区全体を説明できない。したがってこの説は根拠に乏しいと思われる。そこで、アイヌ語ではないかと疑って、最近、私は調べてみた。

非常に納得できる説明をインターネットで見つけた(http://hwm8.wh.qit.ne.jp/tentuku/k050403-1.htm)。それによると、栃木県の山奥の地名として多数存在する塩のついた地名について、「アイヌ語のsiop, suyop, suopは、もともとは箱を意味し、箱のような形の地形のことも表す。川床が、岩盤が箱のように深くなっているところ。両岸が絶壁で川底が岩の箱になっているところ。すなわち、アイヌ語や縄文語では『しお = siop = 箱形の地形』という。」となっていた。ここで、siopの単語の最後のpはアイヌ語の入声音(にゅうしょうおん)で、日本語の単語は開音節なので入声音はしばしば脱落してsioになる。「しお」はアイヌ語である。塩田平の真ん中から、周りを見てみると、確かに山に囲まれ箱形の盆地になっている。これは、塩田全体の地形そのものを表している。このアイヌ語からの説明は、非常に納得がいく。「しお」が箱型盆地と解釈できれば、舞田地区の塩野入神社は、名前の通り、箱形の盆地に入るところとして、地形と一致して納得がいく。塩田(しおだ)の塩は、塩田(えんでん)には関係なく、箱形の盆地のことだったのだ。

信州上田は、アイヌ語系の言語を話す縄文人がいたところへ、全く異なる言語を話す弥生人が入って来て、共存したものと思われる。このような信州上田の歴史から、日本全体の成立過程を考えると、言語の違いや生活手段の違いからアイヌ差別や部落差別がうまれてしまった。縄文人と弥生人が共存共栄するという諏訪の神様の知恵を生かして、私たちは、早く差別のない社会にしないといけないと思う。


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