海野小太郎物語
2012年8月30日随筆
2013年1月2日加筆
信州上田之住人和親記之
「太田さん、私信州の坂城(さかき)の生まれで上田高校の出身なのよ。」と奈良女子大学理学部化学科の阿部百合子先生は、共同研究のため奈良女子大学を訪れていた私に、言った。私は、上田市にある信州大学に勤めている。阿部先生は続けてこう言った。「私は結婚する前の旧姓は海野(うんの)というの。でも海のない山国の信州でどうして海野というのか、昔から不思議に思っているのよ。」
確かに、明治以前から海野と名乗っていたというから、不思議に思うのは当然である。阿部先生は坂城町の舟山郷(注1)で、一族が住んでいて、今も阿部先生のお兄さんは舟山郷に住んでおり、上田市丸子町の会社に社長としてお勤めとのことであった。舟山郷の海野一族のお墓は今から約170年前の1742年(壬戌寛保2年)の千曲川の大洪水、「戌の満水」のときに全部流されてしまって、それ以前のことがよくわからないとのことだった。舟山郷の海野一族で親戚の伯父さんが、昔、家系の調査を熱心にしていたが、その時、漏れ聞いたところによると、今の東御(とおみ)市にある海野宿から分家して、坂城町の舟山郷に移り住んだらしいとのことであった。
私は2002年ごろから3,4年間、上田市とその周辺にある全ての神社仏閣を訪ね歩いていた。その時、海野宿といって江戸時代の宿場町がそっくりそのまま残っている旧跡を訪ねた。この宿場町の入り口のところには、白鳥神社という2000年ほども歴史のある古い神社がある。この神社には日本武尊が東征した時に立ち寄ったといういわれがある。それから600年くらいして、海野氏がこの地にやってきて定住して、白鳥神社は海野氏の氏神とされた。海野氏がなぜこの地に来たかは、海野宿に住む郷土史家の宮下なお子氏から、お伺いすることができた。宮下氏によると、「百済が新羅と唐の連合軍に進攻され、滅亡の危機に瀕した。その時、同盟国である日本は百済を救うため、多数の兵士を送ったが、西暦663年の白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れ、百済は滅亡した。百済の水軍は日本に逃れ、大河の信濃川を遡って、今の海野宿の辺りまで来て、そこで舟を下りて定住した。昭和の初めに信越国境付近に大きなダムができるまで、信濃川は舟で海から直接遡ることができたのだ。だから、信濃川、つまり、千曲川は昭和24,5年に取れなくなるまで、鮭の遡上があり、昭和8年にダムができるまでは大量に鮭が取れたという。この大河は新潟県側では信濃川というが長野県側では千曲川というのは御存じかと思う。その千曲川も、上田や東御までは、川幅も広く、流れも緩やかで舟でさかのぼれるが、海野宿より川上の小諸まで遡ると、川幅が狭くなり急流となり、舟で遡れなくなる。だから、海野宿の白鳥神社前の広い河原、白鳥河原で、百済の水軍は舟を下り、ここに定住した。」という。海野氏はここの白鳥神社を氏神とし、菩提寺は、海野宿近くにある海善寺である。
海野氏は、鮭と製鉄で大いに繁栄した。ここの製鉄の技術は百済からもたらされた先進技術であった。地名の金井は鉄鉱石を採掘する鉱山を意味していた。この辺りに金井という地名があるのはそのためである。また鮭は大河千曲川に毎年大量に遡上するため、多くの富をもたらした。そのため、周辺の武将はこの地を領有することを目指し、たびたび進攻してきた。戦国時代の1541年(天文10年)、海野宿の海野氏は武田に攻められ、当主の海野小太郎幸義は、千曲川と神川が合流する地点近くの丘で戦死し、海野宿の海野氏は滅亡した。しかしながら全国に海野氏がおり、今もここの白鳥神社と海善寺は、全国の海野氏から崇敬されている。
以上の調査結果を、電話で奈良女子大学の阿部百合子先生にご報告したところ、大変喜ばれ、約170年前までしかわからなかったルーツが何とさらに1000年も遡ってわかって大変うれしいと感謝された。
ちなみに、海野氏は代々、当主は海野小太郎某某と名乗っていた。太郎山という上田市や東御市一帯を眺望できる市民に親しまれている山があるが、この太郎山の名前も、海野小太郎からきている。太郎山は海野小太郎がこの山にたびたび神社を建立したことに由来する。白山比め(口偏に羊)神社は、聖武天皇の時代天平5年西暦733年に疫病を鎮めるために、海野小太郎が加賀の白山から白山比め神を山頂に分座し、後に海野小太郎幸明が現在の地の山麓に移した。また現在山頂にある太郎山神社は、鎌倉時代の建久年間(1190〜1199)海野小太郎幸氏(*)が、旱魃に際し雨乞いのため熊野社を勧請した。このようなことからこの山を海野小太郎にちなんで太郎山というようになった。
また、海野氏から滋野氏や真田氏が派生し、滋野氏も真田氏もこの白鳥神社を氏神としている。戦国武将として全国的に有名な真田氏も、もとをたどれば1300年ほど前には百済の水軍だったというのは非常に興味深い。
その後、私は平家物語を全巻読破したところ、阿部先生の先祖の海野氏数名がこの物語の中で大活躍していることを知った。特に海野大夫房覚明と海野小太郎幸氏(*)の二人が有名である。
治承四年(1180)、後白河法皇の皇子の高倉宮(以仁王)が平清盛討伐のためクーデターを起こした。平家討伐の令旨は全国に伝えられた。奈良の寺院にいた海野大夫房覚明はその返事を執筆し、「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いたため清盛が激怒し捕縛命令が出された。この平家の捕縛を逃れるため信濃国に逃げ帰り、今度は木曽義仲軍に祐筆として従軍した。依田城(現在の上田市丸子町)にいた木曽義仲は、寿永元年(1182)九月、以仁王の令旨に呼応して、信濃国と上野国から駆け付けた三千騎を白鳥神社前の白鳥河原に集め、ここから北陸道を遡って京へ攻め上って行った。この「白鳥河原の勢揃い」が源平の合戦の始まりである。平家物語によれば、横田河原(長野市篠ノ井横田)で、この僅か三千の兵でもって、平家方の城四郎長茂(越後国支配)率いる四万の兵を破った。これを皮切りに破竹の勢いで京まで攻め上り、各地で連戦連勝であったので、人々は朝日の登るようだと言って、木曽義仲を旭将軍と呼んだ。木曽義仲は京で天下を一時的に支配したが、同族の源頼朝はこれを快く思わず、義経を派遣して木曽義仲を討伐した。木曽義仲が戦死した後、海野大夫房覚明は京から脱出するため、顔に漆を塗って顔を激しくかぶれさせ顔が分からないようにした。それで逃げおおせて、箱根の山で僧侶として85歳まで生きた。文才豊な人であったという。平家全盛の時代に、清盛は平氏のカスと言い放ったのは、痛快である。
お互いに平氏の後の覇権を握ろうとした源(木曽)義仲と源頼朝は、同族にもかかわらず極めて犬猿の仲になった。そこで、融和策として義仲の長男義高(11歳)が、頼朝の長女(=大姫:名前不伝)の婿になるということで、寿永2年(1183年)に、依田城から鎌倉へ送られた。この時同い年の海野小太郎幸氏(*)らが義高と同行した。義高は婿とはいえ実質的には頼朝の人質であった。父の義仲が粟津で戦死した後、頼朝から義高殺害命令が出され命が危なくなった。それを察知した、頼朝の娘で義高の許婚の大姫が、義高をひそかに逃がした。海野小太郎幸氏が義高に扮して残り、義高は女装して逃げた。しかし、入間で追手に追いつかれ殺害された。わずか12才であった。大姫は、許婚の義高が父頼朝に殺害されたことを知り、その後欝状態になり心を病んで24才で亡くなったという。義高・大姫の悲恋物語は今も多くの人の涙を誘う。
その後、海野小太郎幸氏はどうなったのか気になっていたが、曽我物語を読んでいて、幸氏が再び登場するのを発見した。曽我物語によると、その後幸氏は頼朝の家来となり、頼朝に仕えていたようだ。
曽我兄弟の仇討は古来日本三大仇討の一つとして有名である。曽我兄弟は2人がまだ幼かった頃、父、河津祐泰と一緒に伊豆半島の伊東市付近に暮らしていた。この河津、領地問題のこじれから安元2年(1176年)親戚の工藤祐経に暗殺された。そのため、河津の妻は幼い二人の男の子を連れて曽我祐信と再婚した。この二人の子供に、母は、大きくなったら必ず父の敵(かたき)を討てと言いながら二人を養育した。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、建久4年(1193年)に、今の静岡県富士宮市一帯で大規模な巻狩りを行った。当時の巻狩りというのは、一種の軍事演習で、野営地を築き、イノシシやシカ、タカを追い込み弓矢などで射るというものであった。野営地では、警護も厳しく正に戦を実施訓練するようなものである。曽我兄弟はこの野営地の大軍団の中に、頼朝のほか敵の工藤も野営していることを突き止めた。そして夜陰に乗じて忍び込み、遊女と寝ていた敵の工藤を見事討ち果たした。しかし、騒ぎとなり、大軍団の武士が起きだし、曽我兄弟をとらえようと奮戦した。この時、海野小太郎幸氏が曽我兄弟に斬りかかったが、逆襲に遭い怪我をしたと曽我物語では出てくる。その後、多勢に無勢で曽我兄弟の兄は切られて死に、弟は捕まって後に頼朝の命令で打ち首になった。
さらにその後海野小太郎幸氏はどうなったのか。上田市丸子町三角地区に愛宕神社というのがある。ここを訪ねて由緒を読んでわかったのは、海野小太郎幸氏は晩年信濃国に戻り、依田城跡からほど近いここ三角の地で過ごした。その館跡に地元の人々が神社を建て「小太郎宮」と呼んだが、明治の初めに愛宕神社と名前が変わったとのことである。
海野小太郎幸氏は、幼いころから波乱万丈の人生を送ったが、晩年は故郷に戻った。そして義高の冥福を祈って過ごしたのではないかと思われる。
以上は、私が上田市周辺の神社仏閣を訪ね歩いて分かった、海野小太郎物語である。皆さんの参考になれば幸いである。
(注1):http://rarememory.justhpbs.jp/takeda1/ta1.htmから引用:「舟山郷は、更級郡村上郷(現坂城町の上平(うわだいら)と網掛の間に字名を遺す)のあった更級郡南部から千曲川の川東を北に遡り、現更埴市屋代から現千曲市の戸倉の中間にあり、同じく現千曲市の小船山・寂蒔(じゃくまく)・鋳物師屋付近にあった。」
>>目次に戻る