恋人や愛する夫に先立たれた女性へ

 

2012710日随筆

信州上田之住人 太田和親

 

恋人や愛する夫に先立てれ、傷心さめやらぬ女の人は、心を癒す御利益抜群の長野県上田市鎌原にあるお堂をぜひ訪ねてほしい。

このお堂は、虎立山祐成寺(こりゅうざんゆうせいじ)といい、曽我兄弟の兄、曽我祐成(そがすけなり)の恋人、お虎が建立したお堂である。

今から800年ほど前、鎌倉時代が始まったころの話である。曽我兄弟の仇討が、今の静岡県富士宮市であった。これは古来日本三大仇討の一つとして有名である。曽我兄弟は2人がまだ幼かった頃、父、河津祐泰と一緒に伊豆半島の伊東市付近に暮らしていた。河津祐泰は相撲の決まり手「河津掛」という技を生み出した人で、平安時代最末期の武士である。この河津、領地問題のこじれから安元2年(1176)親戚の工藤祐経に暗殺された。そのため、河津の妻は幼い二人の男の子を連れて曽我祐信と再婚した。この二人の子供に、母は、大きくなったら必ず父の敵(かたき)を討てと言いながら二人を養育した。長ずるに及び、兄はお虎と恋仲となったが弟の方は、自分は敵打ちに差し支えるからと、恋人も妻も持たなかった。

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、建久4年(1193年)に、今の静岡県富士宮市一帯で大規模な巻狩りを行った。当時の巻狩りというのは、一種の軍事演習で、野営地を築き、イノシシやシカ、タカを追い込み弓矢などで射るというものであった。大規模なもので、今の自衛隊の富士の裾野での大演習を思い浮かべてもらえればいいだろう。野営地では、警護も厳しく正に戦を実施訓練するようなものである。曽我兄弟はこの野営地の大軍団の中に、頼朝のほか敵の工藤も野営していることを突き止めた。そして夜陰に乗じて忍び込み、遊女と寝ていた敵の工藤を見事討ち果たした。しかし、騒ぎとなり、大軍団の武士が起きだし、兄は切られて死に、弟は捕まって後に頼朝の命令で打ち首になった。一部始終は「曽我物語」に詳しく語られている。

兄、曽我祐成の恋人、虎は、祐成の死を聞き、悲嘆にくれ、祐成最期の地を訪れた。その時にわかに野に雨が降り、その雨が虎の涙のようであった。それで、このようなにわか雨を「虎が雨」と呼ぶようになったという。また「虎が雨」は祐成の死んだ旧暦528日に降る雨ともいわれ、和歌の季語にもなっている。虎はそれでも恋人の死の悲しみが消えず、仏像を背負って信州の善光寺にお参りに行った。善光寺参詣の後、上田まで帰ってきたとき、太郎山の中腹に、虎立山祐成寺というお堂を建て、背負ってきた仏像を安置して、長らくここに留まったという。この仏像は何と、有名な行基の作といわれている。霊験あらたかであったのだろう虎の傷ついた心もようやく癒され、郷里の大磯へ帰って行ったという。

このお堂は、太郎山中腹にあり、お参りするのは今もちょっと不便であるが、車で行ける。仲睦まじかった恋人や愛する夫に先立たれた女性は、是非、ここを参拝して、心の傷を癒してほしい。霊験あらたかであることを確信する。

今から7年前の平成17年(2005年)、JR亀山線の電車が西宮で脱線しマンションに激突して100人以上の方が亡くなった大事故があった。この時、婚約者の彼氏が亡くなり、悲嘆にくれた女性が1年半後にあの世の彼氏に会いたいと後追い自殺したという新聞記事を読んだことがある。涙ながらに読んだが、信州上田市の鎌原にあるこのお堂のことを、この女性に早く教えてあげていればよかったと、私は後悔した。

みなさん、早まらないでそういうときには、霊験あらたかな虎立山祐成寺(http://blogs.yahoo.co.jp/akira_o2ka/60342376.html)を是非参拝して、心を癒してほしい。


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