信濃の国開闢の祖タケミナカタ

信州上田之住人太田和親

201275日から77日随筆

信州大学病院入院中記之

 

信濃の国は出雲の亡命政権である。

私は2000年ごろ、医者からメタボリックシンドロームになっているから、とにかく歩け、運動不足だと言われた。それで、上田市内の神社仏閣を訪ねながら、とにかく土日は歩くことにした。4年くらいかかったが上田市内の約200ある神社仏閣を全て回った。そこで大変興味深いことに気がついた。上田市内の神社のご祭神の多くが諏訪の神様なのだ。諏訪神社と名前が付いていなくても、祭られている神様は、みな諏訪の神様、タケミナカタ(建御名方)かその妻のヤサカトメ(八坂刀売)である。諏訪系でなくてもタケミナカタの出身の出雲のオオクニヌシ(大国主)だったりコトシロヌシ(事代主)だったりする。

神社のご祭神を見ると、その神社の系列がわかる。それで上田市にある古い神社は大半が諏訪・出雲系なのだ。家紋と同じように、神紋や寺紋があるが、この神紋からも諏訪系や出雲系であることが分かる。上田市内の神社は、大半が諏訪系である。伊勢神社、つまり天照系のご祭神はほんの少ししかなく、それも明治維新後初めて作られた上田大宮さんのような例が典型である。だから、上田市内は明治維新前の1800年間から2000年間は、諏訪系・出雲系が大部分であったようだ。上田市常田にある科野(しなの)大宮は、古代信濃の国の一の宮だったようだ。そのご祭神は、出雲系のオオクニヌシ(大国様、大黒様)とその長男のコトシロヌシ(えびす様)である。科野大宮のある土地は、古須羽(こすわ)といい、現在の長野県中部(中信)の諏訪地方よりも古い「すわ」であった。今から1000年くらい前までは、上田市北岸一帯は須羽(すわ)郷といわれていた。上田に最初に稲作と養蚕をもたらしたのは、出雲の亡命者の一団であったようだ。その人たちが最初の「すわ」を作った。

上田市内に、神畑(かばたけ)神社というのがあるが、その由緒によると、出雲から逃れてきたタケミナカタの一団がしばらくここに滞在して原住民に初めて稲作と養蚕を教えたとある。だから、それまで、狩猟採集によって生活をたてていた縄文人がはじめて稲作を行うようになった。つまり弥生文化との遭遇をした。それで、タケミナカタという神様に教えてもらったハタケという意味で、神畑という。しかし、神畑から数キロ行くと、そこに生島足島(いくしまたるしま)神社があるが、タケミナカタの一団はここの原住民の神様、つまり有力者にここを通してもらえなかった。上田を抜けて長和町の大門峠を越えて諏訪地方に行けなかった。そこでタケミナカタの一団は、そこの神様に毎日、お米を炊いて、こんなおいしいものがありますと、供えた。そこで約半年後この地を通してもらえた。だから、今もこの生島足島神社では、ご飯を炊いてご祭神に供える儀式を行っている。

タケミナカタの一行は、そこから岡谷まで行ったが、今度は諏訪の原住民の守矢(もりや)族と戦争になった。しかし、両者はお互いに徹底的に滅ぼすことをせず、後に、戦いをやめ共存の道を探ることとなった。守矢氏は諏訪神社の祭主となり、諏訪大社上社の神長官を代々つとめた。現在守矢家の当主は78代目の守矢早苗さんである。しかし、神長官職は明治になり廃止されたうえ、祭事の詳細な秘伝は男子のみによる口伝の一子相伝であり、詳しい秘伝は絶えてしまった。しかしながら、守矢家は日本で最も古い家系の一つであることは間違いない。また、祭事に関しては、江戸後期の民俗学者菅江真澄による詳細な記録が残っている。それによると、諏訪大社上社の祭りは、極めて縄文的で、鹿の首や兎の串刺を供え物とし、冬から春になるころ、蛙が土から出てくる頃には、蛙の串刺を供える儀式があったりする。一方、諏訪大社下社の儀式は極めて弥生的で、お田植え祭りを行う。つまり、諏訪大社は大きく上社と下社の2つに分かれているが、上社と下社は縄文文化と弥生文化の共存共栄の証なのである。

上田市舞田にある塩野入神社の鳥居横立札にも明記されているように、タケミナカタは信濃の国の開闢の祖といわれている。国という概念は、実は弥生時代から始まった概念であり、縄文時代には国というものがない。人間は住んでいても、散居していて獲物を追って小集団で時々住居を変えるので、大規模の集団を形成しない。明治以前の北海道のアイヌ人や樺太のアイヌ人、ギリヤーク人の人々もそうであり、エスキモーも民族や部族はあるが国としてまとまっていたわけではない。したがって、農業が始まって初めて国という組織が誕生するのだ。だから、信濃の国は稲作や養蚕の技術の普及とともに成立したと考えられる。それまでいた原住民の人々は、稲作や養蚕のハイテク技術には驚いたに違いない。自分たちも、タケミナカタの勢力を殲滅してしまうより共存共栄を図った方が、得策と思っただろう。農業の方が生活は安定するし、貯蔵が利くので獲物が少ない年も飢餓に耐えやすいからだ。

タケミナカタはどういう人だったのだろう。タケミナカタのお母さんは、越(こし)の糸魚川翡翠峡のヌナカワ族の首長で、一族は翡翠の交易で潤っていた。糸魚川の翡翠は、数千年前の縄文時代から生産されており、遠く青森の縄文遺跡の三内丸山遺跡からも出土しているくらいである。タケミナカタのお母さんの名前はヌナカワヒメ(奴奈川姫)という。才色兼備で近隣に名が聞こえていたそうだ。まるでクレオパトラみたいである。今JR糸魚川駅前に銅像が建っている。この越の地方は、このヌナカワヒメが支配する部族が勢力を張っていた。この部族は毎年船に乗り、すでに弥生文化になっていた出雲に稲が実るころ集団で略奪を働いていたらしい。彼らは縄文時代から翡翠の交易で、日本海側に広く海上交通路を持っていたようだが、正式の交易ばかりでなく、ときにはバイキングのように略奪を働いていたようだ。自分たちは農業をやっていないので、稲作を早くから始めていた出雲の秋の収穫のころには、毎年多くの船で船団を組んでやってきて、米や酒や女を略奪していった。なにしろ、米から取れる酒は越では作れないから貴重品だ。

ヤマタノオロチの伝説は、どうも毎年秋に越から集団でやってくる“バイキング”の被害の話のようだ。出雲の斐伊川(ひいかわ)の川上に、おじいさんとおばあさんが住んでいて一人の娘を囲んで泣いていた。そこへ高天原を追い出されて出雲へ下りてきたスサノウ(素戔嗚)の命が、その家の様子を変に思ってそのおじいさんに尋ねた。

「何故、そんなに泣いているのか。」

「私ども夫婦には8人の娘がいましたが、毎年、越(高志)からヤマタノオロチがやってきて、娘を一人ずつ食べて行ってしまいます。この娘は最後に残った末娘です。今年の秋には、そのヤマタノオロチがまたやってきて、たった一人残ったこの末娘までも食べられてしまうのです。それを嘆いて3人で泣いているのです。」

「それならば、私がそのヤマタノオロチを退治しよう。8つの大きな樽に酒を造り8つの門にそれぞれその酒樽をおけ。オロチが酒に酔ってねている間に、そのオロチを私のツルギで退治しよう。」

このヤマタノオロチの話は、ほとんどの人が知っているだろう。この話を注意深く見ると、まず、おじいさんおばあさんは農業をしていて米を作っているらしい。蓄えておいた大量の米をもとに、酒樽8つもの大量の酒を作れる。つまり、稲作文化圏の住人だということが分かる。もう一つ読み取れることは、スサノウは、高天原から来た異邦人だが、切れ味のよい鉄製のツルギを持っている。つまり、鉄器を製造できる先進文化圏の人だったということだ。青銅製のツルギより鉄製のツルギの方がずっと切れ味鋭く、8つの谷に満ち満ちている蛮族、この場合、越の翡翠峡のバイキングを、これで全員なで斬りにすることができる。

ところで、出雲神話から考えると出雲は国引きによってできた。新羅からも島を引いてきた。つまり朝鮮半島からの先進技術の稲作、それから、秋の10月に皆が寄り集まって高楼を建て大祭を行うなどの宗教も、引いてきて輸入している。出雲は10月を、神有月(かみありづき)といい、他の地方は神無月(かんなづき)というのはご存じだと思う。全国の神様(有力者)が全員、10月に出雲に集まり盛大に酒食を供して収穫や祖先を祭る大きなお祭りを行う。これは2000年ほど前の朝鮮半島の高句麗の「東盟」、ワイ(さんずいに歳)などの「舞天」(出典「三国志」)の風習そのものである。出雲の文化はツングース系の高句麗などの風習が色濃い。神有月という名前が今も残っているのがその証である。なお、東信ジャーナルの記事によれば、信濃の国の神様は10月に出雲には行かない。それで信濃の国では、10月を出雲と同じく神有月というそうだ。このことも、信濃の国は出雲の国と同じである。

ヤマタノオロチに象徴される越の勢力を撃退したスサノウは、出雲の国の王となった。スサノウの6代あとのオオクニヌシは出雲の勢力の拡大を図った。出雲は宿敵である越の翡翠峡の蛮族を逆に征服するため、大船団を組んで越、現在の新潟県の出雲崎あたりに到着した。出雲のオオクニヌシは、越の支配者のヌナカワヒメに結婚しようと言い寄ったが、最初は断られた。しかし、最終的には結婚しタケミナカタが生まれることとなった。つまり、越は出雲の勢力下に入ったということである。タケミナカタは父の国の出雲で育った。オオクニヌシは180人の子供があったとのことであるが、中国地方、近畿地方、北陸地方を従える大王となり、オオクニヌシと呼ばれるのにふさわしい王となった。その子供には、コマタノカミ、今はエビス様と親しまれているコトシロヌシ、その異母弟にあたるタケミナカタなどがいる。大国(たいこく)を形成するために多くの有力者の娘と政略結婚したため180人もの子供ができたのだろう。オオクニヌシの最初の妻スセリヒメ(須勢理比売)には子供ができず、他の婦人たちには嫉妬と憎悪を募らせたらしく、その嫉妬に耐えかねたヤガミヒメ(八上比売)は産んだ男の子を木の股の間に置いて、実家に帰ってしまった。それでその男の子はコマタノカミという。信州小県郡の青木村にある式内神社の子檀嶺(こまゆみね)神社の御祭神はなんとこのコマタノカミである。なぜこんな遠い信州の山村でコマタノカミを祭るのか非常に興味深い。また、この神社の神紋は「二重亀甲に花菱」で出雲神社と全く同じである。式内神社とは今から1100年前の延喜式、つまり延喜時代の法律で選別された重要神社というもので、少なくとも1100年は経っている古い神社の証である。ということは、1100年前にすでに古い神社と認められているのだから、さらに古い太古の昔に、確かに出雲の勢力が信州に来ていたことになる。

タケミナカタは、このような出雲の大王、オオクニヌシを父に、越(高志)のヌナカワヒメを母として生まれて出雲で育った。沢山の兄弟の中でも、コトシロヌシ(エビス様)とともに有能な人であったらしい。

出雲を中心に今の中国地方、近畿地方、福井石川富山新潟地方(越前、越中、越後)を支配した大国(たいこく)にも危機が訪れた。他の巨大勢力が国を譲れと迫ってきたのだ。その巨大勢力は高天原のアマテラス系である。アマテラス系の勢力は、天から今の宮崎県の高千穂の峰に降りてきたことになっているが、もともと朝鮮半島南部から対岸の北九州あたりを支配していた倭という勢力である。ところがモンゴル高原から南下してきた勢力に圧され、中国東北部、つまり旧満州あたりの民族が、半島北部に侵入してくる。そうすると玉突きのように、倭人と呼ばれていた人々は半島南部から徐々に同じ倭人の住んでいる北九州へと逃れてきた。しかし、増えた人口を養うためにはもっと南の大分、宮崎、熊本方面や、山口から島根の辺りにも進出して行かざるを得ない。これは東アジア版の民族の大移動であったのだ。モンゴル高原から西へ西へと移動した匈奴つまりフン族に始まった民族の大移動の話は有名であり、西洋の歴史に必ず登場する。しかし、東アジアの歴史にも同時期に東へ東へと移動する民族の大移動があった。これが、朝鮮半島や日本列島の歴史にも大きな影響を及ぼしている。そのひとつが出雲の国譲りの話である。その後の神武東征もその民族の大移動の一環である。東アジアの歴史を大局的にみるとそうなるのだ。

アマテラスは、出雲へ何度か使者を送って我が国に屈服して帰属するようにと勧告した。しかし、2度送った使者が出雲に定住して帰ってこなかった。それで3度目には、タケミカヅチ(武甕槌)などの強力メンバーを送った。つまり強力な軍隊を送ったのだろう。タケミカヅチはオオクニヌシに国を譲れと迫ったところ、長男に相談しないといけないからと即答を避けた。長男のコトシロヌシ(エビス様)は海で鯛を釣っている最中の話だった。今もエビス様は釣竿を担いでいる姿で描かれるのはそのためである。コトシロヌシは、巨大勢力との戦いに勝ち目はない、仕方がないと、父オオクニヌシとともに国を譲るという。ただ、大社を造り、自らの宗教は維持できるのを条件とした。だから今も出雲大社が存在し、ここの宮司は今84代目の千家尊祐さんである。千家(せんげ)家は日本で最も古い家系の一つである。このように父オオクニヌシと長男コトシロヌシはアマテラス勢力に国が併呑されるのを認めてしまおうとしている。しかし、次男のタケミナカタは徹底抗戦を主張する。タケミナカタの母の国、越が出雲に併呑された苦い思い出があったのであろう。そこで、古事記にはタケミカヅチとタケミナカタが相撲を取ってタケミカヅチが勝てば国を譲り、タケミナカタが勝てば国を譲らなくてもよいことにして、相撲を取ったとある。しかし、実際は武力衝突、つまり戦争があったのであろう。タケミナカタは負けて、越へ逃げた。越は母ヌナカワヒメの国である。だから母の勢力範囲へ逃げた。しかし、海に近い越ではタケミカヅチ軍の追跡があり、まだ危険であった。そこで、山の中へ山の中へ逃げ諏訪まで来た。もうここから出ないからこれ以上攻めないでくれということになり、ようやく停戦となった。タケミナカタはここで信濃の国を建て、諏訪で落ち着いた。停戦合意ののち、越にいた母のヌナカワヒメは、糸魚川から鹿の背中に乗って、北安曇郡小谷(おたり)村戸土(とど)の峠を越え、今の長野市、上田市を抜け、長和町の大門峠から今の茅野市へ来た。茅野市の御座石神社には、ヌナカワヒメが乗ってきた鹿の蹄の跡だというくぼみがついた平べったい大きな石が境内に今も大切に残されている。さらにそこからヌナカワヒメは息子のいる諏訪まで行って一緒に暮らしたという。

小谷村戸土の峠は、信州で唯一海の見える地であり、ここは7年に一度行われる諏訪の御柱祭の一連の儀式の最初の儀式である「薙鎌神事」が行われる所である。ここ小谷村戸土は諏訪の神事が行われる所であるから住民も信濃の国に属していると信じていたのだが、峠から海側は、江戸時代の行政単位として越後に組み入れるべきではないか、年貢は越後の方に納めよという主張が出され、大きな問題となった。通常分水嶺が国境となるのが普通だが、分水嶺よりも海側にも、この信濃の国の諏訪大社の大事な神事「薙鎌」が行われる場所がある。この江戸時代の訴訟の決着は神事からすれば、この地は信濃の国であるが、分水嶺などの地形からすれば越後の国であるのは明らかだ。しかしながら、どちらにすることも住民生活に問題が残るので、ここだけは国境線を定めないこととした。この江戸時代の裁定のため、今も地図(例えば、ニューエスト20長野県都市地図、77ページ、昭文社1999)をよく見ると、ここだけ長野県と新潟県の県境が引かれていない。知らない人が多いが、全国でここだけ県境が引かれていない土地なのである。

出雲は国譲りをしたので、出雲の支配下にあった越も同時にアマテラス支配下になった。そこでここはアマテラス系の勢力と信濃の国を建てたタケミナカタの勢力の結界の地であり、薙鎌神事」は、アマテラス系勢力を薙ぎ払うという意味があったものと考えられる。タケミナカタにとっては、ここからアマテラス系の勢力が侵入し、再び亡命政府の信濃の国の存在を脅かすことは何としても避けたかっただろう。薙鎌神事は国境防衛の意識を7年に一度思い起こし風化させないためのまつりごとなのだと考えられる。

おまつりとは何だろう。人々は戦争や自然の大災害も年を経るごとに記憶が風化して行き、50年も100年もすると実体験した人々もほとんど死に絶えてすっかり忘れ去られてしまう。おまつりは1年毎、あるいは7年毎、20年毎、長いのになると60年毎に1回行ったりする。これは、人々が昔の体験や記憶を新たにする有効な手段である。例えば、島津軍は関ヶ原の戦いのとき、敵陣の真っただ中に取り残されたが、敵陣を中央突破して薩摩まで逃げ帰った。隊列の最後尾となった武者は、馬から飛び降り追尾してくる敵を、命を捨てて前方のものを守った。それで1500人いた島津軍は、薩摩までたどり着いたのはたったの80人だったそうだ。生き残った殿様の島津義弘は、自分を守って死んでいった武者を忘れないために、実に260年間も、毎年、追悼の祭りを行った。とうとう260年後島津藩は徳川幕府を倒し、薩長土肥を中心とした明治政府を樹立した。島津藩が260年間徳川への反逆精神を持ち続けられたのは、このような記憶を風化させないまつりが大きな役割を果たしている。

したがって薙鎌の神事も、アマテラス系勢力に対する国境防衛の意識持続が主目的だったと思う。信濃の国はアマテラス系の国家の中に浮かぶ自治独立国家となった。タケミナカタはその初代国家元首である。

信濃の国では、7年に1度諏訪大社を中心に御柱(おんばしら)祭を行う。御柱祭は、諏訪大社が有名だが諏訪地方だけではなく、木曽郡楢川村を南限に、長野県全県で行われる。ちなみになぜ楢川村(平成年間塩尻市に合併)が木曽地方の南限かというと、古代この楢川村の鳥居峠以南の木曽地方は美濃の国だったためで、信濃の国でなかったからである。御柱祭を行う神社が、北信の大町市、飯山市、長野市、東信の上田市、佐久市、中信の諏訪市、松本市、南信の飯田市、根羽村(県最南端)など各所にあることがホームページから確認できる。これらの御柱祭は、規模の大小はあるが、諏訪大社と同じく、山で木を切り出し、里では人力で木を引き、神社の境内に、人力で柱を建てるという順で、取り行われる。豪華なところでは、これに「おねり」といって武者行列のようなものを行うところもある。信濃の国は御柱祭を行う国といえる。

信濃の国では「御柱」は「おんばしら」と読むが、出雲では同じ漢字を書いて「みはしら」と読む。出雲大社は太古の昔は、高さが32丈(96m)もあったとか、16丈(48m)もあったとか言い伝えられてきたが、そんな古い昔に木造建築でそんな高楼を造ることができたのか疑われていた。しかし、西暦2000年に、現在の出雲大社社殿前の庭を掘ったところ、巨大な柱が出てきた。巨大な柱をさらに3本を1まとまりにしたものが、一定間隔で出てきた。大林組がこの遺構から計算すると高さ16丈(48m)の社殿が実際に建っていたことが分かった。丁度その発掘の最中に、私は出張のついでに出雲大社を見学に行った。特別展があって、巨大な柱を展示してあり、説明文に「御柱(みはしら)」と書いてあった。私は、「信州では「おんばしら」と読むのになあ。でも、出雲も信濃も巨大な柱に大きな宗教的な意味があるのだなあ。」と、その類似性に感動した。巨木信仰が共通してあるのだろう。

中国の歴史書「三国志」には、古代朝鮮半島の高句麗、ワイなどの国では共通して10月に、国中の民衆が一同に集まっておまつりをすることが書かれている。その際、高句麗では高楼を建てたとある。出雲とそっくりである。この高楼を建てる風習が、昔の出雲大社の日本一高い木造建築につながったり、信濃の国では何十トンもの重さの巨木を神社の境内に建てる「建て御柱」につながっているのだろう。

御柱の祭りは、記録によれば平安時代には既に行われていたことははっきりしているが、それよりももっと古い時代から行われていたらしく、いつ始まったかは文献ではわからないという。それは、文字もまだ伝わっていない2000年以上前の縄文時代から弥生時代に移り変わるころだっただろうから、文献に載っていないのは当然であろう。タケミナカタら亡命集団は、まだ縄文時代の原住民の守矢氏の集団と融和し、最終的に諏訪に落ち着き、信濃の国を建国した。縄文文化の守矢氏の習俗を否定せず認め、自らの弥生文化も相手に認めさせてお互いに共存共栄を図ったのであろう。だから、今も諏訪大社において連綿と続く上社の縄文的祭事が残り、下社の弥生的祭事と並立しているのだろうと思う。

タケミナカタは最初は現在の上田市付近に定住しようとしたのではないかと思う。なぜなら、上田旧市街地のある千曲川北岸一帯は、古代に須羽(すは)と呼ばれていたこと。また上田市真田町には表木神社と裏木神社があり、表木神社にはタケミナカタを裏木神社にはヤサカトメをまつっている。今は、裏木神社は境内の真ん中を国道144号線が通り、その道の右脇に小さな祠くらいしか残っていないが、もう一方の国道左脇にはこの辺りだけ大木が何本もたっている。境内の発掘調査が行われた時、弥生時代の祭事を行うときに用いる大きなかめが出土している。この神社が弥生時代に始まった証であろう。さらに、表木神社と裏木神社のように夫婦別々に祭るのは、現在の諏訪大社の上社と下社とそっくりである。私の知る限り、他にはほとんど例を見ない。これらのことから、私は、上田市の千曲川北岸一帯は、タケミナカタの集団が最初この辺りに定住しようとした場所ではないかと考えている。したがって、この辺りが古須羽(こすは)と呼ばれた理由だと思う。新しいすわは、現在の諏訪である。

何故、この上田の都を放棄したのかはなぞだが、私は次のように考えている。科野(しなの)大宮の石碑に、信濃の国の初代県知事(国造)であるタケイホツの命(みこと)のことが書かれている。タケイホツは神武天皇の曾孫(ひまご)にあたり、出雲のオオクニヌシの玄孫(やしゃご)にもあたる。つまり、アマテラス系と出雲系の両方の血を引き、父は熊本阿蘇の初代県知事タケイワタツの命である。このようにタケイホツは出雲系の血も引きアマテラス系の血も引き、出雲の亡命政権を懐柔して統治するには最適の人選だったのだと思う。この人のお墓は口伝によれば、上田市北小学校前にある前方後円墳、二子塚(ふたごづか)といわれている。前方後円墳の作られた時代は弥生時代が始まった時期よりずっと後の古墳時代だから、この間に、タケミナカタの中心勢力は、徐々に天皇の勢力に圧されて、新しい諏訪へ移らざるを得なかったのだろう。

タケミナカタの中心勢力は、上田(古須羽)から諏訪に移り最終的に落ち着いた。母のヌナカワヒメも越から鹿に乗ってやってきて合流した。一族は原住民の守矢族とも共存共栄し繁栄した。タケミナカタには13人の子供があり、その息子のオキハギの命は、佐久地方を開拓しそこに移住して定着した。今、佐久市の新海神社はオキハギの命を佐久開拓の祖としてまつっている。新海神社はもと新開と書きニイサクと読んだらしい。新たに開拓したという意味で、そのサクから今の佐久になったそうだ。

信濃の国は、このようにタケミナカタらが建国した出雲の亡命政権である。

正史というのは勝った者の歴史であり、出雲や信濃の歴史は、一般にはほとんど学校で習わない。出雲の国譲りの話などは、少し古事記に載ってはいるが、タケミナカタが相撲に負けて「すは」に行った話が最後に出てくるくらいで、その後どうなったかは書かれていない。負けた方の歴史はほとんど書かれない。しかし、古事記や日本書紀の神話はすべて嘘だといった学者がいたが、私はそうは思わない。

出雲からタケミナカタが信濃に逃げてきて落ち着いたということは、これだけ多くの出雲系や諏訪系の神社が信濃の国にあるのだから、全部が嘘だと誰が言えよう。長野市豊野には、1900年前にできたという伊豆毛(いずも)神社があり、新潟県三島郡には出雲崎という名の町と港がある。ヌナカワヒメが糸魚川から鹿に乗ってやってきた、その鹿の蹄の跡をまつった茅野市の御座所神社の存在など、全てが嘘とは考えられない。余りにも広域で壮大なスケールの嘘となり、嘘だという方が信じがたい。私は神社を訪ね歩きながら、タケミナカタという人物と信濃の国開闢のいきさつは、実際にあったことだと確信するようになった。私はタケミナカタを主人公にした壮大な歴史小説を書こうと思う。




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