信州大学繊維学部近くにある空海ゆかりの「帰り石」

 

信州上田之住人

太田和親

2011115-16日随筆

 

長野県上田市にある信州大学繊維学部(長野県上田市常田3-15-1)の正門前の小路はおよそ千二百年以上も前からある古道である。実はこの古道を古代に空海が若いころ歩いていたのを皆さんはご存じだろうか。そんなことがなぜわかるかというと、この正門前の道を少し北のほうにたどっていくと「帰り石」という地名の小字が、今のスーパー西友に出る直前にある。西友横の大きな祢津街道に出る直前の小路右側の脇に、大きな岩が2つ並んである。それは、現在はある人の家(常田3-10-3:児玉家)の庭の中にある。この家の人は、この2つの岩の横に小さな板に「帰り石」と墨書して表示してある。小さいので見落としがちなのだが、ここは大昔に空海が旅の途中に休んだところと言い伝えられている。2つの並んだ大きな岩は、一つは高くもう一つは低くてちょうど腰掛くらいの高さである。両方とも頂上が平らかになっており、黒っぽくて火山岩のようである。

空海は、奈良時代の末期、四国の讃岐、現在の香川県から選ばれて全国の秀才の集まる奈良の都の大学へ進学した。大学に進学して23年した頃、空海は、なにゆえか大学から出奔して、2年ほど全国を旅した。司馬遼太郎によると、人生の迷いを解決するための悟りの旅だったようだ。この旅の後大学にもどり、有名な卒業論文を書いて卒業した。その卒業論文は今に伝わっていて「三教指帰(さんごうしいき)」といい、そのころの三大哲学である儒教、道教、仏教の本質を戯曲にまとめて優劣を議論しており、中国語で書かれている。当時は平仮名も片仮名も発明される前だから、大学での勉学は中国語かサンスクリット語(梵語)が、読み書きできなければどうにもならない。現在でも、後進国や小国では教科書は外国語のものしかないところが多数ある。当時の日本はそのようなレベルの国だったと言える。したがって、古代の日本で白鳳、奈良、平安時代は、公式文書はすべて中国語つまり漢文であり、中国に留学して中国語ができる人のみ立身出世した。奈良の都の大学に選ばれていける若者は、その国の大秀才にしかできないことだったのだ。今でいえば18歳の高卒の若者で、英語の実力がTOEIC900点以上のものを選んで集めたようなものだろう。古代の律令制の大学を卒業した者は、有能な官吏として登用され、国家のために働くのが、選ばれた若者に期待される人間像だったのだ。しかし、空海はこのような定められた人間像に疑問を抱いたらしい。

空海が大学を出奔して全国を旅した時、信州の上田あたりにも来たらしく、当地には空海にまつわる言い伝えがたくさん残っている。そのひとつに、塩田(しおだ)地区の弘法山(別名:独鈷山)は谷の数が百に一つ足りなかったので修業の場として候補から落ち、後に弘法大師空海は高野山に仏教寺院群を建て高野山を修業の場としたと言い伝えられている。また、その弘法山のふもとにある前山寺は空海が開山したといわれている。しかし、その後荒廃した。二百年後、それを知ったやはり讃岐の出身の僧が再興した。今も名刹として崇敬を集めている大寺院である。信州大学正門近くの「帰り石」も、空海にまつわる言い伝えの一つである。

ここ「帰り石」で、空海は低い方の岩に腰をかけ、高い方の岩の頂上に持っていたお経などを置いて休んだ。休憩した後、この古道をまた歩いて旅したが、さっきの高い方の岩の上にお経を忘れたのに気がつき、引き返してきた。それで、この石とここの小字名を「帰り石」というのだそうだ。

参考文献
 滝澤主税著「新踏入物語1」
 司馬遼太郎「空海の風景」
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