木曽路開通1300年
信州上田之住人
太田 和親
2010年6月14日随筆
今年の2月、出張で信州上田から鉄路、篠ノ井、松本を経て中央本線に入り、木曽谷を下って名古屋へ向かっていた。車窓を眺めていて、初めて気がついたことがある。木曽谷の川は最初電車の進行方法と逆に流れているが、途中の短いトンネルを抜けると急に進行方向と同じ方向に流れが変わるのである。私は三十年近く信州に住んでいて、関西や中国四国など西日本方面に出張するときは、毎回、中央本線を使い木曽谷を下って名古屋に出て新幹線に乗り換えている。何回も木曽谷を通っているのに、うかつなことに今まで川の流れが途中で逆になることに気がつかなかった。
松本を出て塩尻駅を過ぎ左手に昭和電工の大きな工場の横を過ぎると、松本平が終わり両側の山が迫ってきて木曽谷の入口にさしかかる。深いV字の木曽谷の底を中央本線は名古屋へ向けてひたすら約80 kmも走る。木曽谷は険しく狭いので、中央本線の線路は川と国道19号線がほとんどずっと並走している。今まで漠然と木曽谷の川はずっと名古屋の方向へ流れ下っているものと思っていた。しかし楢川村と木祖村の間のトンネルまでは、川は進行方向と逆に流れ、このトンネルを抜けると、川は進行方向と同じ方向に流れがここで急に変わるのだ。不思議に思い、3月末にもう一度大阪へ出張の時、デジカメでその写真を撮ることにした。今年の3月はいつまでも寒く、3月末も寒波が来襲し、トンネルの手前までは雪景色であったが、この短いトンネルを抜けたとたん雪は全くなくなり空が春の色を帯びていることに驚いた。ここは裏日本と表日本の境界だなあと思った。また、川はやはり流れが急に電車の進行方向に変わったのも確認した。
出張から帰り地図を見て確かめた。このトンネルは鳥居峠の下を通っていた。鳥居峠と聞くと、同じ信州でも上田付近の住人は菅平から群馬県に抜ける際の鳥居峠を思い浮かべるが、これとは全く別の鳥居峠が木曽谷にあるのである。この鳥居峠も分水嶺になっている。つまりこの鳥居峠の松本側の水や川は日本海側に向かって流れ、名古屋側の水や川は太平洋側に向かって流れるのだ。ほんの短いこの鳥居トンネルを境に、川の流れの方向も雪の量も全く違っているのだ。この木曽の鳥居峠あたりの分水嶺が、信州では日本海側に注ぐ水の最南端だと考えられる。
木曽の谷は険しく80kmも続いていて、中央本線の鉄路を敷設するのはさぞ難工事であったであろうと思う。
最近、私は続日本紀(しょくにほんぎ)を読んでいて、木曽路が1300年前に開鑿(かいさく)されたことを初めて知った。そのことは次のように書かれている。漢文で書かれているのでわかりやすいように読み下し文で書く。
(1) 続日本紀 巻第二
大宝二年(702)十二月壬寅(十日)の条
○始めて美濃国に岐蘇(きそ)の山道を開く。
(2) 続日本紀 巻第六
和銅六年(713)七月戊辰(七日)の条
○戊辰、美濃信濃の二国の堺、径道険隘にして往還艱難なり。仍(より)て吉蘇路を通す。
(3) 続日本紀 巻第六
和銅七年(714)閏二月戊午(一日)の条
○閏二月戊午の朔、美濃守従四位下笠朝臣麻呂に封戸七十戸、田六町を賜ふ。少掾(しょうじょう)正七位下門部(かどべ)連御立(みたち)、大目(さかん)従八位上山口忌寸兄人(えひと)に各(おのおの)位階を進む。匠(たくみ:ここでは道路開鑿の技術者)従六位伊福部(いほべ:製鉄に関する部)君荒当(あらまさ)に田二町を賜ふ。吉蘇路を通すを以(もち)てなり。
これらの史実から木曽路は、美濃国の今でいう県知事の笠麻呂をリーダーとして、702年に掘鑿を開始し足掛け12年かかって713年に開通した。そして、その功績に対し、県知事と道路技師にそれぞれ褒美を与えたということがわかる。大変な難工事であったと想像される。現代に戻って、今から三年後の2013年は木曽路開通1300年に当たる。今年2010年、奈良平城京遷都1300年祭をやっているので、同じように3年後に木曽路開通1300年祭をやったらいいのではないかと思う。
さて、信州では前の田中康夫県知事の代に、県知事の反対をよそに、長野県(信濃国)木曽郡山口村が岐阜県(美濃国)中津川市へ越境合併して物議を醸した。ところが1300年の昔から、木曽郡は同じように美濃国に属するのか信濃国に属するのか大いにもめていたそうだ。そのため貞観年間(859-876)に、中央政府が実地検分することにより、美濃と信濃の国境を、先に述べた鳥居峠とする裁定が下ったそうだ。しかし250年ばかり後の木曽義仲のころ、平安末期の今から約800年前には、木曽は全部信濃の国に属するという一般認識が広まっていたそうだ。
確かに、分水嶺の鳥居峠を国境とするのは理にかなっている。1150年ほど前に実地検分した役人もきっと私と同じように川の流れが鳥居峠を境にして逆方向に流れていることや、気候が鳥居峠を境にして違っていることなどに気づいたに違いない。だが、地形地勢から見ると、木曽谷は塩尻から入り中津川でやっと抜けられるという実感があり、木曽谷は塩尻から中津川まで一体である。木曽はやはり山国信濃の国に属するといっていい。したがって、地元の住人の一体感から800年前の木曽義仲のころまでには、全ての木曽谷は信濃国となったに違いないと私は思う。
>>目次へ戻る