上田市付近の木曽義仲の遺跡
信州上田之住人 太田和親
(2005年4月24日提言)
はじめに
2004年から健康のため散歩を始めた。ただ散歩だけでは続かないので、上田市内の神社仏閣を全て訪ねて回わることにした。その中で、上田市内には木曽義仲に関する遺跡が沢山あることに気がついた。
そのため、あわせて「平家物語」を全巻読んだところ、木曽義仲は丸子町の依田城に約二年いて東信の兵馬を集め、ここから京に攻め上ったことを知った。木曽からではなく東信から、源平の合戦が始まったのである。
今まで私が訪ねた上田市付近の木曽義仲の遺跡を以下に紹介する。多くは上田市民にもほとんど知られていない。
これらは、合併後の新上田市の新しい観光資源になるものと思う。
1. 木曽義仲の守護神:参上神社上田市諏訪形
参上神社は荒神宮とも呼ばれる
参上神社由来
木曽義仲はここで戦勝祈願をし、今井蔵人豊成に永代奉仕するように命じた。
宮司さんは今も今井氏。木曽義仲の命令を825年間守り通している!(ギネスブックものだと思う。)源義仲は、二才のとき京で悪源太義平の殺害を免れ、ひそかに斉藤別当実盛によって木曽の中原兼遠の元に預けられ、兼遠によって養育された。樋口治郎兼光、今井四郎兼平、巴の三人は全員中原兼遠の子で、木曽義仲の乳兄弟。樋口治郎兼光、今井四郎兼平は義仲軍の四天王のうちの二人。巴は、義仲の愛人で一人当千の女武将として有名。今井四郎兼平は、粟津の戦で壮絶な最期を遂げ「平家物語」で著名である。参上神社の由緒に出てくる今井蔵人豊成は、その今井四郎兼平の子らしい。
2. 鎌倉道を塩田平から砂原峠へ
上田市の砂原峠付近
挙兵の地の看板下の案内図:義仲の遺跡がいっぱい!
2-1. 義仲が東信で2年間根拠地とした依田城
依田城址の入り口は宗龍寺が目印
100m位登ると登山道入り口の木柱。3月初めはまだ雪があって登れなかった
雪のなくなった4月初めに再度訪れる
30分ほど山道を登ると山中にまた標識
山を下りて麓から山頂を見る。あの山頂が依田城址らしい。誰か詳しい人を連れて再訪を期す。
2-2. 宗龍寺から義仲館跡に向かう
御岳神社の一の鳥居が目印
義仲館跡からの眺望は抜群
義仲館跡からさらに300m位登ると御岳神社二の鳥居
2-3. 岩谷堂に向かう
岩谷堂観音宝蔵寺の看板が目印 義仲が馬で登ったという急な石段を登る
崖に岩谷堂観音:義仲が戦勝祈願
観音堂前の案内板に義仲が参詣したことが書かれている
2-3.「巴御前お歯黒の池」に向かう
この小さな池が「巴御前お歯黒の池」
3. 依田地区・砂原峠から塩田平・別所温泉へ
別所温泉・大湯(葵の湯)
吉川英治の小説「新平家物語」に出てくる「葵と義仲」が大湯に来た場面が引用されている
4. 上田市上田(山口地区)の白山ひめ神社も木曽義仲ゆかりの地
白山ひめ神社 本殿
治承四年(1180)二月三日源義仲が戦勝祈願したとある。
5. 東御市白鳥神社・海野氏の氏神海野行親は義仲軍に参加
境内の案内板に、この神社前が義仲軍の「白鳥河原の勢揃い」が行われた場所であること、また、平家物語で大変有名な義仲の祐筆大夫坊覚明も海野氏の出身であることが書かれている
治承五年(1181)この白鳥河原に義仲軍三千騎が勢揃いした。ここから源平の合戦が始まった。
6. 義仲軍はわずか三千騎で四万騎の城四郎長茂の平家軍を、横田河原の戦で打ち破った。(長野市横田地区)
7.上田市手塚地区
7-1.
手塚大城=現倉沢正二郎氏宅地の通称=手塚太郎光盛の館跡ここに唐糸観音堂が屋敷の北西の隅にある
唐糸観音堂
手塚太郎光盛の娘「唐糸」とその娘「万寿姫」がここにまつられている。唐糸は頼朝暗殺を計ったが事前に発覚して石牢に入れられた。万寿姫がその唐糸を救い出し、二人無事鎌倉から手塚に帰ってきた。
7-2.
倉沢宅を出て「手塚太郎五輪塔」を目指す。
道を北へ200mくらいの所に堰口(せんげぐち)地区の生活改善センターがある。ここが目印。その道の斜め向かい側に樋口氏宅がある。樋口氏宅のお庭に「手塚太郎五輪塔」がある。
手塚太郎五輪塔手塚太郎金刺光盛は義仲の重臣 横に祠と女性の坐像がある。唐糸?
8.上田市富士山・町屋地区:巴・山吹の五輪塔
巴と山吹は義仲の愛人(共に一人当千の女武将で有名)
峯村家のお墓の横に「巴・山吹五輪塔」でも案内板など全くない!
近江の粟津で義仲が義経軍に討たれた後、この地に逃れて名を隠して住んだ義仲の家来が、これを建てたと言われている。その3代目に子がなくその家は断絶して今はないと、旧富士山村の歴史に書かれている。
義仲は、一時日本の三分の一を支配し、京の平家を都落ちさせたつわものであった。しかし、同じ源氏の頼朝に滅ぼされてしまい、わずか10日余りの間だけ征夷大将軍であった。頼朝は、義仲の勢力の中心地であった東信地方が反乱しないように、鎌倉幕府を開いたら、全国で最初に塩田地区に腹心の地頭を置いた。この地方の強力な武士団と軍馬を押さえるのが目的であった。後の塩田北条もそのための布陣であった。義仲の家来たちはみな名を変えたり、別の場所に逃れて隠れ住んだ(義仲軍の落人)。その後塩田平は鎌倉との結びつきが長く続いたため、「信州の鎌倉」と呼ばれるようになった。
9.丸子町依田地区の正海清水(湧き水)
義仲の長男清水冠者義高は頼朝のもとで人質となっていたが、義仲が粟津で戦死した後命が危なくなった。そこで、頼朝の娘で義高の許婚の大姫にひそかに逃がされた。しかし、入間で追手に殺害された。わずか12才であった。ここは、清水冠者という名の元になったところ。
許婚の義高が父頼朝に殺害されたことを知り、大姫はその後、欝状態になり24才で亡くなったという。義高・大姫の悲恋物語は今も多くの人の涙を誘う。この辺りは義高の屋敷があったところ。
10.
上田市八木沢・八木沢天満宮
ここに義仲の死後550年のゆかりの石碑がある。鳥居裏左手
義仲550回忌碑中央に「朝日将軍義仲公大居士」文字が刻まれた供養塔。享保17年(1732)八木沢村の治郎左衛門がこれを建立。
この石碑には、「施主二十代孫手塚氏治郎左衛門」と刻まれており、治郎左衛門は手塚太郎光盛の子孫らしい。しかし、それまで小松氏を名乗っていたという。これは「義仲戦死後、手塚地区の手塚氏は、頼朝からの義仲軍落人狩りの危険を避けるため、どこかに逃げ今は手塚姓の家は手塚地区に一軒もない。」という、手塚在住の郷土史家曲尾勝さんの言が思い出されて興味深い。頼朝は冷酷な男で、例えば「子敦盛」という草紙本によれば、密告を奨励して平家の子孫などは赤子といえど、すべて見つけ出して殺害したという。従って、550年もの間、手塚氏の子孫と名乗れない時代が続いたのだろう。江戸時代になってやっと公表できたものと思われる。治郎左衛門はよくぞ生き残っていたものだと思う。この石碑は大変貴重なものである。
提言
木曽義仲の遺跡群を新上田市の観光資源として整備してほしい。
•木曽義仲の極めて貴重な遺跡が沢山あるにもかかわらず、ほとんど上田市民にも知られていないものが多い。
•案内板などが無く、極めて見つけにくい。
•上田市の新しい観光ルートとして整備すれば、新たに多くの集客が見込めると思う。
•また、観光資源として保護しないと、貴重な遺跡が煙滅してしまうことも危惧される。早急に、対策を取って欲しい。