上田市蛭沢川探訪

信州上田之住人
太田 和親  
2004110-27日随筆

2004.1.13):市内で鴨が泳いでいます
 最近の運動不足解消のため、1/10-12の三日間、蛭沢川(ひるさわがわ)の源流から終点までを求めて、合計9時間も歩き回りました。それで発見したことが二つありました。
 (1)蛭沢川と明瞭に書かれているのは古里(こさと)の段下の袮津街道付近(JAF付近)からですが、更に上流では、段上の古里の農地全部を、この川は網の目のよう分かれて潤しています。蛭沢川は古里の農業に不可欠だ!これが発見の一つです。
 因に、あまりに網目が複雑になっているので、どれが本流か分からず、歩き回りましたが、疲れてしまい、それ以上の探索は諦めました。どうも、その網目が、また一本に収束して、それが神川(かんがわ)につながって、そこから取水しているようでした。誰か御存知の方、蛭沢川の源流を教えて下さい。
 (2)蛭沢川は、昭和の初期にJAFの少し上手付近で掘鑿分川されて、常田川(ときたがわ)がここから始まっています。洪水を防ぐのと農業用水を取るためのようで、記念碑がそこに建っていました。常田川は常田池(ときたいけ)のそばを流れて、踏入(新田)地区を貫いています。常田池の水も、常田川に注いでいます。1月の今、常田池には約20羽の鴨が泳いでいます。さて、JAFより更に、蛭沢川を流れに沿ってたどって行きました。袋町の香青軒近くの弁天橋まで来ましたら、何と、その弁天橋の下にも、鴨が4羽泳いでいました(1/10目撃)。こんな市内に鴨が泳いでいるなんてびっくりしました。これが発見の2つ目です。 
 尚、1/12にも弁天橋まで行って見ましたが、その鴨はいませんでした。しかし、約300メートル下(しも)の東町橋(真田太平記館裏あたり)の下流で、その4羽を見つけました。風情がありました。そして、もっと下流に歩いていきました。旧上田中央郵便局の横を流れ、柳町の武田味噌屋さんのあたりで、矢出沢川(やでさわがわ)と合流していました。やっと蛭沢川の終点にたどり着きました。蛭沢川最後の橋、緑橋から約20メートル位下流で、蛭沢川は矢出沢川へ注いでいます。緑橋からは両岸の家に挟まれ蛭沢川の川口しか見えないので、少し紺屋町の北国街道を引き返して「保命水」の交差点を左折し、大宮さん(上田大神宮)への参道を少し行くと、武田味噌屋さんの脇で、矢出沢川をまたぐ神宮橋が架かっています。この神宮橋から蛭沢川川口を眺めてみて、またびっくりしました。そこには約40羽もの鴨が群れて泳いでいました。この神宮橋付近にはいつもこんなに鴨がいるのでしょうか?ここには、常田池の倍も鴨がいます。この付近えさが多いのでしょうか。鴨は渡り鳥でしょうから、冬の間だけこのあたりにいるのでしょうね。神宮橋付近の参道から柳町の北国街道にかけては、江戸時代にタイムスリップしたみたいだし、橋の下には鴨が沢山・・・、感動しましたね。上田市内の見どころナンバーワンっていう感じでした。

(2004.1.19)蛭沢川の源流らしきもの発見
 蛭沢川の源流らしきものを発見しました。五中の東、虚空蔵山(地元ではお蚕山ともいう)の南の新屋隧道のようです。
 古里全体を足で歩いて探すのは余りに大変だったので、昨日の日曜日(1/18)は車を使って、目星を付けた所を中心に回ってみました。袮津街道JAF辺りから上に登ると道がY字に分かれ、左手の方に道を蛭沢川に沿って登ります。段上に達するとそこからは蛭沢川というより、丸で側溝になっていて、その上、暗渠になっています。しかし、所々簀子(すのこ)の蓋がしてあるので、上から覗くと水が滔々と流れ、単なる側溝でないことが分ります。この流れを追って真っすぐ東上して行くと、笹井地区に至ります。ここで、この流れは左に折れて北上します。暫く行くと水路がトの字になっている所があります。このトの字のところは東から水が流れてきて、ここで面白いことに北上する水と南下する水にわかれています。同じ南北一直線の水路をこの地点で北上する流水と南下する流水になるので、不思議な気がしました。水量は大変多く、ここを東に右折して、トの字の枝のところをさかのぼって上流を訪ねると、古里台地の端に至ります。ここから水路はまた左折し台地の端を、虚空蔵山(お蚕山)まで、北上しているようでした。水路沿いに車を走らせることは不可能でしたので、五中まで北上して右折し、そこから新屋地区まで行きました。そこでまた、水量の豊富な水路に出会いました。これに沿って水路をたどっていくと、お蚕山の裾に至ります。ここには、お蚕山下に掘ったトンネル、新屋隧道があり、その直ぐ南に「上水道取り入れ口」という上田市水道局の施設がありました。隧道からは清涼な水がこんこんと湧きだし、施設内に流入し、そして施設の南から施設外の水路に放流されていました。この水量からして、これが、古里全体の水源になっていることは間違いないようでした。
 これを証明するように、水路の横に、新屋隧道開通記念碑が立っていました。その碑文には、「古里地区は、江戸時代から農業や生活のため、この新屋あたりを水源として、水を引いていましたが、度々大雨による土砂崩れで水源がふさがれ、大変苦労していました。明治時代から大正時代に安定的水源を確保するために計画が立てられたのですが、合意がうまくいかず、そのままになっていました。しかし戦後のキティ台風で大規模に土砂崩れがおこって水源が壊滅してしまい、住民はその惨状に呆然自失となりました。これではいけないということになり、ようやくそれで、多くの住民が合意し一致協力できました。昭和28年に、市の事業としてこの新屋隧道を開通させ、安定的水源を確保しました。云々。」という趣旨のことが書かれていました。因に、キティ台風は占領下の日本での台風の命名法の所産ですね。

 この新屋隧道の水源からの水が、網の目のように分れて古里の台地を潤し、最後には蛭沢川に収束されて、流れているようです。
 新たな疑問ですが、新屋隧道(トンネル)の向こうは、神川から取水しているのでしょうか?どなたか、新屋隧道の向こうは水の流れはどうなっているか知っている方はいませんか?

2004.1.20):水辺を歩く遊歩道
 蛭沢川を探訪していて、上田は小川や水路が市内を流れて、とても風情があることを、改めて認識しました。オランダに似ています。冬は鴨まで泳いでいるのです。そこで、下記の提案は素晴らしいもので、検討に値すると思います。
 社団法人長野県建築士事務所協会上小支部が平成142002)年に提案されている第3案:http://www.dia.janis.or.jp/~jkyou-js/site_hokokukaidou/teian/mizube/mizube.htm 「水辺を歩く:町並み散策のもうひとつのルートとして、旧街道の町並みに沿って流れる、矢出沢川・蛭沢川を利用した、遊歩道の提案をします。」
 これに、私も大いに賛成です。

2004/01/22):上田市内で60羽ほど鴨が越冬?
 あの蛭沢川探訪の後、別の日に、今度は矢出沢川沿いに、武田味噌屋さん横の神宮橋から、玉姫殿横の諏訪部(すわべ)橋まで、歩いてみました。雪が降ってきて、素晴らしい景色でした。矢出沢川が直角に南西に折れ曲がる、高橋あたりは、特に素晴らしく、その雪景色に感動します。しんしんと降る白い雪に、川面から美しい石垣がそそり立ち、その段上には黒い塀の、昔ながらの立派なお屋敷が、川岸に佇んでいます。高橋の上からこれを望めました。雪化粧のなか、まるで一幅の水墨画を見るようでした。私は今、江戸時代にいるという錯覚を覚えながら、あまりの美しさに息を飲みました。ここは上田の見どころでも屈指の所と思います。
 さて、矢出沢川の鴨は、神宮橋付近の約40羽以外に、神宮橋下流の、上須波(かみすわ)橋から下須波(しもすわ)橋の間あたり、それとその下流の諏訪部橋の上流あたりにも、あわせてざっと20羽ほど泳いでいました。上田市内で60羽程越冬しているようです。その日のお昼は、常田池には1羽しかいなかったのですが、どうも常田池にはこの1羽をなわばりの見張りに残して、ほとんどはここ諏訪部の矢出沢川周辺に、飛んで来ているらしいです。その日の夕方、常田池の近くを散歩していると、鴨が2羽飛んで帰ってくるのが認められました。そして合計3羽となり、池で仲良く泳いでいました。おそらく、暗くなるまでに20羽全部がここに帰ってくるのでしょう。次の朝、出勤途中に見たところ、鴨は10羽程いるのを確認しました。したがって、20羽の鴨は、ここ常田池をねぐらに、昼間はもっとえさが豊富な矢出沢川などに、えさ取りに出かけているのでしょう。これは、私にとっては新しい発見と驚きでした。

2004/01/25):トの字に分流した水流が、再び、蛭沢川で合流
 今日、蛭沢川に関して、また大変面白い発見がありました。
 国道18号線が蛭沢川をまたぐ場所から、18号線を長野方面へ向って200メートル位行った所にも、蛭沢川と同じくらいの川幅の川が、右手に見えます。18号線と袮津街道との交差点から一つ目の交差点の所、「小柳産業」さんの横の所です。水量も蛭沢川に匹敵するくらいあります。ここの交差点で、この川は18号線の下に入ってしまい、18号線を横切り、続いて海野町方面への道の下を、暗渠のまま流れて、100メートル位下っています。そして「カクイチ」さんと「かまや英語教室」さんの間の道の下で、蛭沢川に合流しています。合流点は、道の下なので、蛭沢川から、道の下のトンネル状の暗い水路内を、よく覗いて見ないと、気づきませんが、確かにここで合流しているのが確認できます。この川は、蛭沢川の支流のようですが、特別名前がついているようではありません。しかし、私には、この川が蛭沢川のもう一つの源流につながっているような気がして、これを、日曜の散歩がてら探索してみることにしました。
 18号線の「小柳産業」さんの所に戻って、この川を崖に向かってさかのぼっていくと、この川は、段上の英(はなぶさ)神社裏や染谷(そめや)公会堂裏の深い谷から、流れ落ちていることが分りました。英神社下の物凄く急な坂を登りきり、英神社境内から崖下を覗くとこの川が谷底で音を立てて流れているのが分ります。英神社前の道を行くと、染谷公会堂があり、その前で道がT字になっています。ここを右に曲がると直ぐ、この川をまたぐ橋があります。橋から川面までは随分距離があり、かなり深い谷になっています。T字の所に戻り、左折して、この川の上流を、追って行きます。この付近から川というより用水という感じで、殆どがU字溝になっています。しかし水量は多く滔々と流れています。暫く行くと真東に向かって、水流が右折します。
 私も近くの道を右折しました。これは、第2学校給食センター前の道です。この道をどんどん東に進んでいきます。水流はこの道と並んで走っていますが、田んぼ一枚向こうを流れています。水路は「中央住研」さんの横を通り、さらに東上して西野竹地区までたどれます。古里87番地のあたりの十字路を横切って渡って、さらに少し東に行くと、水路脇の道は泥の道になり、そして間もなく全くのあぜ道になります。ここから300メートル位は、水路にはU字溝もなく、石垣もなく、全く原野の中を流れる小川という趣になり、物凄く奇麗です。釧路原野の川といったら想像できるでしょうか。一度行かれてみては如何でしょうか。
 付近のおじいさんが犬を連れてこのあぜ道を1人歩いていました。私は、めったに人が通らないようなこんな所で、ばったりとこのおじいさんに出会って、少し動揺しました。不審人物に思われてもいけないので、このおじいさんに、話しかけてみました。
「私は散歩がてら、蛭沢川の源流を探し歩いてここまで来たのですが、この奇麗な小川は、何という名前ですか?」
この地元のおじいさん曰く、
「この川は、農業のためだけの用水なので、特に名前はないけど、新屋隧道から引いた水が、ここまで来ています。新屋隧道の水は、神川の川久保橋の辺りで、神川の水を取入れ、お蚕山の下を通ってきて、この古里全体の農業用水として、利用されています。」
「高や堀越の水ではないんですね?」
「いいえ、ここのは新屋隧道の水です。」
「このあたり、水辺が物凄く奇麗ですね!」
「奇麗でしょ。・・・段下から歩いてきたの? いやぁ、ご苦労さん。」
いぶかしんでいたおじいさんの顔が、にっこりしました。
 このおじいさんと別れて、さらにこの流れを追って東にあぜ道を行くと、南北に通っているアスファルトの舗装道路にでました。見覚えのある道路でした。水路はここで右折し南下します。舗装道路沿いに、水路をたどって少し行くと、水路がトの字に別れている所に至ります。三和菅工さんの西200メートル位の所です。(2004.1.19)の項で、「トの字のところは東から水が流れてきて、ここで面白いことに北上する水と南下する水にわかれています。同じ南北一直線の水路をこの地点で北上する流水と南下する流水になるので、不思議な気がしました。」と指摘しました。先日、見つけたのと全く同じトの字ところに来たわけです。全然別経路の水流をたどってきたのに、全く同じ分流地点に到達し、大変驚き、感動しました。
 先日探査した通り、ここから南下する流水は、笹井地区まで行きそこから、西に折れて、古里の台地を西へ西へと走り、JAF上手(かみて)の谷間に流れ落ちます。そして、段下の蛭沢川になっていきます。一方、ここから北上する流水は、どこに行くのか先日は分りませんでしたが、今日はっきりしました。ここから北上する流水は、少しだけ北上したあと西へ折れ、古里の台地をやはり西へ西へと走り、染谷公会堂と英神社裏の谷に流れ落ちます。そして18号線を横切って、「カクイチ」さんと「かまや英語教室」さんの間の道の下で、蛭沢川に合流しています。つまり、大変面白いことに、新屋隧道の水流は、古里の台地のなかで、トの字の所で南北2つに別れても、また、古里台地の下(した)の「カクイチ」さん横で、蛭沢川として1つに合流するのです。
 私はこのことを発見して、ひとりで、大変面白いと思いました。また、蛭沢川の源流は神川から取水した新屋隧道であることも、はっきりして、嬉しくなりました。つい、皆さんにこのことを教えたくなっているところです。



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