上田市内の大学受験生へ合格祈願

信州上田之住人
太田 和親  
2006227日随筆
2006426日追記
2007324日追記
200748日追記

もし貴方が、私学の雄、早稲田大学に合格したいなら、信濃国分寺に参りましょう。信濃国分寺の垣根に、早稲田大学の創立者、大隈重信さん由緒の石碑があるのを知っていますか。その石碑には東京早稲田の伯爵大隈重信が、金一万疋を寄贈したことが刻まれています。場所は信濃国分寺境内北側の小道側にある石の垣根で、石の橋の辺り。ここにお参りすれば、貴方は、第一志望の早稲田大学に合格間違いなしです。

もし貴方が、国立大学の雄、東大の法学部に入って末は首相になり天下を取りたいなら、常田新橋の近くにある参上神社に参りましょう。信州の出身で今までに天下を取った人は2人しかいません。木曽義仲と羽田孜です。2人ともあまりにも任期が短く、木曽義仲は15日、羽田孜は30日あまり。信州から出た人はなかなか天下を維持できないというジンクスを貴方は、払拭すべきです。木曽義仲は、京に攻め上る前に参上神社において、家来の今井四郎兼平の息子今井蔵人豊成に、ここで義仲の行く末を祈り永代奉仕するように命じたといいます。そしてなんと800年後の今も宮司さんは今井氏です。ここにお参りして、貴方は天下を狙いましょう。因にもう一人の羽田さんですが、その直筆の書は、市立図書館近くの「蛭澤川改修碑」がそうです。でも人気が今一つない羽田さんではご利益が少ないという人は、長期政権だった中曽根康弘の直筆の石碑に参った方がいいでしょう。彼は隣の群馬県の出身ですが、この際、長期政権の首相の方に参った方が、東大受験前の気分がいいでしょう。東大法学部出身の中曽根さんの直筆の石碑は、殿城の赤坂公民館の中にあるので訪ねてみて下さい。

もし貴方が、語学の天才になりたい、化学の天才になりたい、あるいは古い伝統のある東京農業大学に合格したいなら、市内中之条にある「力士上田嶋之碑」に参りましょう。この石碑は榎本武揚の書によるものです。「子爵榎本武揚」と署名が入っています。榎本武揚は、幕末幕府からオランダ留学した天才で5カ国語がぺらぺらでした。オランダでは化学と国際法を習いました。日本のナポレオンになろうと戊辰戦争のおり北海道に蝦夷共和国を樹立して明治新政府に対抗したことは有名です。五稜郭の戦いに敗れ捕らえられましたが、人材を惜しんだ新政府に迎えられました。新政府では大臣などを務めましたが、同時に維新後没落した幕臣の将来のことも心配して、東京農業大学を創立し幕臣の子弟の教育にも尽くしました。東京農業大学は徳川方の武士のために建てた大学なのです。皆さん知っていましたか。そのため東京農業大学の初代学長は榎本武揚なのです。そればかりか彼は化学にも造詣が深かったので、日本化学会の初代会長にもなりました。この石碑にお参りすれば、貴方は第一志望の東京農業大学に合格間違いなしです。また、語学や化学の才能が授けられるでしょう。

もし貴方が、教育学部や教員試験に合格したいなら、信濃国分寺に参りましょう。信濃国分寺の垣根の石柱に、男爵辻新次が、金一万疋を寄贈したことが刻まれています。場所は信濃国分寺境内北側の小道側にある石の垣根で、石の橋の辺り。大隈重信さんの石碑の隣です。また、直筆の墨跡は上田市芳田の吉田神社参道脇にある「退筆碑 正三位勲二等 辻新次」の文字があります。ここに参ってもいいでしょう。男爵辻新次は近代日本の学制の創始者で、教育国日本の基礎を築いた人です。彼は信州松本藩の出身で、若い頃江戸に出て学問に志しました。維新の後は明治政府の官吏になるべく、大変苦学しました。お金がなく食事にも困るほどで、おなかを空かしたまま勉学している姿に、近所の飯屋の若い女の人がとても見かねて、おにぎりを何回もそっと無料で運んでくれたそうです。辻新次はついに文部官僚として大出世いましたが、この時の恩を忘れず後にこの女の人をお嫁さんに迎えました。飯屋の女給が男爵夫人に出世したと、世間はこの美談を浪曲「出世の縁結び」として今に語り伝えています。貴方がここにお参りすれば、貴方は、教育学部や難しい教員採用試験に合格し出世間違いなしです。

もし、貴方が、防衛大学に入って立派な自衛隊幹部や軍人になりたいなら、ぜひ、次の立派な将軍が書いた石碑や額にお参りしましょう。

東郷平八郎(海軍):上田城公園内の赤松小三郎の碑、これは東郷さんの直筆で彼の花押もあります。市民プール入り口付近にあります。ご存知のように東郷平八郎は、日露戦争のとき日本海海戦に勝利した偉大な将軍です。「天気晴朗なれど波高し」の打電文はあまりにも有名ですね。ついでに、上田市紺屋町の八幡神社にも足を伸ばして参りましょう。この拝殿の額の金文字は、やはり東郷平八郎の直筆の書です。因に八幡様は戦勝祈願や武運長久を祈るための神様ですね。

乃木希典(陸軍):乃木さんは、ご存知のように、日露戦争のとき203高地でロシア軍と戦い、2人の子息を含め多くの犠牲者を出しながらも、勝利した偉大な将軍です。私が小さい頃、明治生まれの近所のおばあさんが水師営の会見」の文部省唱歌を「てきのしょう〜ぐん、ステッセル〜」と歌っていたのを覚えています。さて、話が横に行ってしまいましたが、この将軍が書いた石碑は上田市内に多数あります。10カ所以上はあると思います。代表的なものを2つあげます。ここにお参りすれば、貴方は、陸上自衛隊や陸軍の中で立派な将軍になれること間違いありません。ひとつは、上田城公園内の招魂社拝殿向かって左にある大きな石碑です。署名が源希典となっていますが、乃木さんは時々、源氏姓を名乗っていたので、こうなっていますが、これは乃木希典さんの直筆に間違いありません。もう一つは、信濃国分寺の境内の一番奥北東の隅に「日露戦役紀念碑 希典」という大きな石碑です。記念が紀念となっているのが特徴です。乃木さんの石碑は全国的に漢字がこうなっているようです。この他に、市内秋和八幡大蔵京古墳頂上に設置されている碑は巨大なコンクリート製の砲弾型(ロケット型)で、その表面に上と同じ碑文が乃木さんの直筆で書かれています。この形にはびっくりします。一見の価値があります。



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