信州上田城公園赤松小三郎之碑の疑問

                       信州上田之住人
太田 和親  
2004221日随筆
                       2004222-23日加筆修正
                       200431日加筆修正

 信州上田に二十年以上住んでいても今まで全く知らなかったのですが、上田城公園の中に、日露戦争の日本海海戦で有名な東郷平八郎の直筆の書があるのを、最近散歩中に偶然知りました。市民プール入口の辺りにある大きな石碑の表書き「贈従五位赤松小三郎君之碑」の文字が東郷平八郎の書です。この書の横に「元帥東郷平八郎書 (花押)」と署名されているのでわかりました。この石碑の裏面には、この碑が建てられた経緯が刻まれていました。この経緯を読んではじめて、東郷平八郎が、上田藩出身の幕末の偉人赤松小三郎の門下生であることを知りました。
 しかし、この碑の裏面の経緯の文章の中に、赤松小三郎を密かに暗殺した薩摩藩士桐野が、堂々と赤松小三郎の門下生の筆頭に挙げられていることに、私は強い疑問を感じました。東郷平八郎は門下生として4人目に挙げられています。皆さんこの碑文の謎をどう思いますか?
 碑文を書き写して来ましたので、下に記載します。これにより、碑文が建てられた表向きの経緯と、赤松小三郎がいかに偉大な人物であったかがわかります。

(碑前面)

贈従五位赤松小三郎君之碑

   元帥東郷平八郎書 (花押)

(碑裏面)

 赤松小三郎先生略伝

先生諱(いみな)は友裕又惟敬上田藩士芦田勘兵衛の二男天保二年(一八三一)四月四日生る幼名清次郎後同藩赤松弘の養子嗣となり名を小三郎と改む為人豪放不羈(ふき)年十八江戸に出て内田彌太郎の門に学び安政二年(一八五五)勝麟太郎(=海舟)に随ひて長崎に赴き海軍伝習所に於て蘭語航海兵術を専攻す文久年間(一八六一?三)佐久間象山と交友し頗る敬重せらる元治元年(一八六四)外人に就て騎兵術竝に英学を修め慶応元年(一八六五)英国歩兵練法を訳述す翌二年(一八六六)京都に上り家塾を開きて兵制改革を説き英国式兵法を講ず後薩藩の京邸に聘せられて其師となる門下生実に八百名桐野篠原野津1樺山後の東郷元帥上村大将2等其中に在り翌三年(一八六七)島津候3の依嘱に応し英国歩兵練法を重訂す此書蓋(けだ)し我邦兵法の基據となりしと云う此比内憂外患荐(しきり)に臻(いた)りして以て先生幕府に建白して時事を痛論し又越前候4に革新の案を進言して代議政治を先唱せり復公武合体の方策に基き薩の西郷5幕の永井6等と共に大に奔走尽力せしも藩命黙止難く将に東帰せんとし会刺客の害に遭う時に慶応三年九月三日年三十有七黒谷光明寺の塋(はか)に葬る島津候厚く弔意の至誠を竭(つく)す門下生相図りて墓碑を建つ偶(たまたま)明治三十九年(一九〇六)五月東郷上村両提督信山に遊び相携へて月窓禅寺に展墓し先師の英霊を弔はる先生逝きて五十八年畏くも(おそれおおくも)其事業天聴に達し大正十三年(一九二四)二月十一日従五位を追贈せらる今や大東亜戦争の捷報(勝利の報)連りに伝り御稜威八紘に輝くの秋(とき)帝国軍制の創始に寄与貢献したる先生の偉蹟を偲び追福の碑を建て感謝追慕の念更に新なるものあり仍(よっ)て茲(ここ)に其業蹟の梗概を叙し以て世に伝ふと云爾

昭和十七年(一九四二)五月7

上田史談会撰文
岡崎袈裟男謹書

 これを読むと、赤松小三郎は、薩摩藩のために大変尽力して薩摩人に英国式兵学を教えた、薩摩藩にとって大恩人であることがわります。そして、碑文によれば、小三郎は暗殺された後薩摩藩の門下生によって葬られ、島津候も厚く弔意を表わしたとあります。しかし、後に明らかとなるのですが、小三郎は、薩摩藩の刺客8によって暗殺されたことがわかっています。私はこの碑文を書き写しながら、小三郎のことが大変気の毒になりました。薩摩藩は、大恩がありながら暗殺という手段によって、公武合体論者の小三郎を葬っているのです。島津候の厚い弔意も、真実を覆い隠すカモフラージュのようにさえ思えてきます。
 また、坂本龍馬もほとんど同じころの慶応三年十一月十五日に暗殺されていますが、未だに誰が手を下したのかわらないと云われています。「その時歴史が動いた」というNHKの人気番組では、「龍馬は薩摩藩と大変親交があったのですが、薩摩藩が龍馬を暗殺したという信じられないような説もあります」と紹介されていました。これは、現在のところ、全くの少数派の説と見なされています。しかし、小三郎の例から見ると、龍馬もたとえ薩摩藩と親交が深かったとしても薩摩藩に暗殺された可能性が大きいのではないかと思われます。皆さんどう思われますか?
 なお、刺客は桐野利秋8という薩摩藩士で、上の碑文の中に名前が出て来る桐野その人ではないかと思います。そうなら、まさに弟子の桐野が恩師の小三郎を殺害したということになり、この上田城公園内の碑自体、悲劇のように私には思えました。なぜなら、薩摩人の東郷平八郎は、京都の小三郎の教室(於薩摩藩京屋敷)で、桐野と机を共に並べていたのですから、暗殺の真実を知っていたはずではないでしょうか。知っていて、後にこのような石碑に揮毫をしたことになります。もしそうだとしたら、碑裏面の説明(=略伝)がそらぞらしく思えてきます。暗殺した張本人の桐野の名前が小三郎追福の文に入っている、それも門下生の連名のトップに載っており、常識では考えられないようなことになっています。「ああ、どんな思惑でこの略伝が書かれたのだろう?小三郎が浮かばれない!」と私は心の中で叫びました。もし、時代の最先端を行っていた小三郎が暗殺されずもっと長生きしていたら、明治の世でさぞ活躍していたでしょう。私は碑文を書き写しながら、一人、小三郎の無念を思い涙が出ました。
 因に、赤松小三郎(1831?1867)は18歳で江戸に出る前、信州上田においては市内常田(ときだ)の毘沙門堂で活文禅師(1775?1845)が開いていた私塾「多聞庵(たもんあん)」(1825頃?1845)で勉学に励んでいた様です。この私塾には、佐久間象山(1811?1864)も学んでいます。活文禅師は和漢蘭の三つの学問に通暁していた偉大な教育者で、この私塾は「信州の松下村塾」ともいえるものです。佐久間象山も、江戸に出て学問をさらに極めた後、江戸で私塾「象山書院」を開き、吉田松陰(「松下村塾」で著名な人)、勝海舟、坂本龍馬、小松虎三郎(長岡藩士:後に米百俵の逸話で有名な人)など多数の人物を育てています。佐久間象山門下で特に優秀であった二人、吉田松陰と小松虎三郎を「象門の二虎」というのだそうです。また、上の碑文からわかるように、赤松小三郎も京都薩摩藩邸で多くの弟子を教育しました。従って、さかのぼると、東郷平八郎→赤松小三郎→活文禅師;伊藤博文→吉田松陰→佐久間象山→活文禅師;小松虎三郎→佐久間象山→活文禅師、というふうになり、全て活文禅師が源であることがわかり驚きます。信州上田の活文禅師の偉大さがわかります。
 さて、明治の帝国海軍は薩摩の海軍とまでいわれていたようです。つまり、海軍の上層部は全て薩摩人で占められていたのだそうです。薩摩藩はいち早く英国式兵術に転換できていて、明治になってから多数の人材を軍事関係に供給出来たものと思われます。薩長土肥の藩閥政治の弊害を割り引いても、この幕末の薩摩藩における小三郎の英国式兵学教育の成果が、明治になって花開いたと言っても過言ではないでしょう。従って、この碑小三郎顕彰の表向きの趣旨も、近代軍制度の始祖という評価です。
 しかし、この碑建立の裏の趣旨は、桐野等薩摩藩士達の贖罪の意識ではなかったかと、私は想像しています。さもないと桐野のようにそれほど評価の高くない男の名前が、この碑文に、それも門下生連名のトップに、わざわざ入っている訳がないと思います。私は連名の最初の何名かは、程度の差はあっても何かしら小三郎暗殺計画に関わりがあったのではないかと想像しています。彼等は贖罪意識のためここに名を連ねて入っているのではないでしょうか。皆さんどう思われますか?
 以上のように、私は信州上田城公園内の赤松小三郎之碑から、幕末から明治にかけて日本が近代国家へ脱皮していく当時の複雑な政治情勢を、色々と考えさせられました。もし赤松小三郎が長生きしていたら、同じようにオランダ語と英語が出来学識豊かだった福沢諭吉のように、明治という時代を支えて活躍していたのではないかと、早すぎた死を大変残念に思います。

参考
1)   桐野利秋、篠原国幹、野津七次(道貫)
2)   上村彦之丞
3)   松平春嶽:幕末四賢候の1人で、坂本龍馬もこのお殿様に二度面会に越前まで行っています。
4)   島津久光
5)   西郷隆盛
6)   永井尚志
7)   この碑が上田に建てられた同じ昭和17年、小三郎遭難の地である京都市下京区東洞院通鍵屋町下る西側に、京都信濃会により同様に「贈従五位赤松小三郎先生記念」という石碑が建てられています。
8)   http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/kirino1.htm




目次へ戻る>>