特別展「2004上田地方の古代・中世の仏教文化」を見て

信州上田之住人
太田 和親  
20041016-18日随筆

 1016日(土)に上田市立信濃国分寺資料館の上田市制施行85周年記念特別展の「2004上田地方の古代・中世の仏教文化」を見に行った。大変印象深い内容であった。
 国宝安楽寺八角三重塔の精巧な5分の1模型が見事であった。また信濃国分寺僧寺跡地から出土した精巧な屋根瓦は、奈良の東大寺のものとそっくりで、おそらく奈良から製瓦技術者が来て、技術指導と助力があったのだろうということであった。さもないとこれほど精巧なものは当時当地では出来なかったそうだ。
 また、信濃国分寺所蔵の市指定文化財「牛頭天王之祭文(ごずてんのうのさいもん)」は、室町時代の文明12年(1480年)に書写されたもので、蘇民将来符の由来が記された古文書である。この祭文は日本中で一番古いことが最近わかったそうだ。このことに私はえらく感心した。そこで、展示されている巻物を読んでみた。この巻物の文章の中に出てくる「小丹将来」のコタンはアイヌ語ではないかと思った。コタンはアイヌ語で村という意味である。不思議だったので、資料館の人に聞いてみたが、「この話は中央アジアから日本まで広がった話で、日本固有のものではないので、アイヌ語ではないでしょう。」との話であった。
 さらに、各地の蘇民将来符が展示されていて、小さな蘇民将来符のくびれたところにひもをわっかにしてぶら下げるようにしたものもあった。このひもは茅で作っているのだが、これをもっと巨大にして人が通れるほどにしたものがある。このわっかを人々がくぐり抜け、夏の疫病を追い払うという風習も日本各地にあり、輪抜けとか輪抜けの御祈祷とかいう。これも「牛頭天王之祭文」の話から日本中に広まった風習であるとのことを私は事前に知っていたので、「上田地区でも諏訪形の参上神社にありますね。」と、資料館の人に言ったら、面白い話を聞かせてもらった。大きな茅の輪ではないが、小さなわっかのひもを信濃国分寺近くのおばあさんが作って、ここでも18日の八日堂の縁日のとき、売っていたそうだ。「私は見たことがないですねえ。」というと、「あのおばあさん、亡くなったからかなあ。」という話であった。上田でも、茅のひもで蘇民将来符をぶら下げる風習が、極最近まであったことを、私は初めて知った。
 信濃国分寺資料館から帰って来て次の日、昨日もらった特別展の資料を改めて読んでいて、大変面白いことに気が付いた。資料の中に、「三枝氏先祖相伝系図(原本・山梨県大善寺所蔵)」というのがあった。以下資料の説明文を引用する。

---------------------------------------------------------------------------------
 上掲の写真は、三枝氏先祖相伝系図(部分)で、山梨県勝沼町大善寺に所蔵されている史料です。なお、この写真は「総説 上田の歴史 上田市誌 別巻」(上田市誌刊行会発行)より、引用したものです。
 甲斐国の役人の三枝守明(さいぐさもりあき)の三男、円城房有勝が信州塩田庄(庄は荘園を意味し、貴族や寺社の私的な領有地をいう)の常楽寺別当(寺務を統括した僧官)になって、塩田に来ていることが系図から読み取れ、十二世紀の後半常楽寺がすでに存在していたことが判明しました。
 有勝が常楽寺の別当として迎えられた背景には、有勝の姉が信州塩田庄の有力な氏族の手塚太郎の妻として、妹も同地の今溝三郎の妻として、また幼い妹も信州浦野庄殿として塩田庄か浦野庄の在地の氏族に嫁したと系図に記され、こうした三枝氏と塩田庄の氏族との密接な関係によるものとみられています。
---------------------------------------------------------------------------------

 この史料から、「唐糸草子」で著名な唐糸の、お母さんは、甲斐の国の三枝氏から嫁いできたことも、はっきりわかる。「唐糸草子」によれば、唐糸を救い出すため、唐糸の子の万寿姫が、乳母の更級とともに鎌倉に上ろうと現上田市の手塚地区の家を黙って出たとき、このおばあさんはそのことに朝気付いて、現在千曲市の雨宮まで追いかけていき、思いとどまるように涙ながらに諭した。孫娘の決意が固いと知ると、鎌倉までの道中、下男を一人付けてやった。そして鎌倉で石牢に入れられた娘の唐糸と、名を隠して密かに救い出そうとして鎌倉に行った孫娘の万寿姫を、毎日毎日心配して、とうとう病の床に着いてしまった。もう寿命も今日か明日かというときになって、唐糸と万寿姫が二人とも無事に帰って来たのを見て、このおばあさんは、元気を取り戻したという。「唐糸草子」に生き生きと描かれたこのおばあさんは手塚太郎の妻である。この歴史上有名な唐糸のお母さんは、甲斐の国の役人三枝守明の娘であることを、私は初めてこの史料で知った。なんだか、このおばあさんが目の前に生き生きとよみがえるように思えて、大変感動した。


目次へ戻る>>