「しめの」と「しなの」考

信州上田之住人
太田 和親  
2005322
卒業式までの時間に書留
  2005329-31日加筆修正

[第1章] 1989年に考えたこと

私は1989年に李寧煕(いよんひ:1931年生)著「もう一つの万葉集」と言う本を読んで「しめの」と「しなの」が同じ意味ではないかと考えるに至った。
 万葉集 巻一の二十にある有名な額田王(ぬかたのおおきみ)の歌は、万葉仮名による表記は次のようになっている。
  茜草指 武良前野逝、
  標野行 野守者不見哉 君之袖布流
この歌に対する【従来の訓読】は、
  あかねさす 紫野(むらさきの)行き
  標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る
となり、【従来の解釈】は、
  <あかねさす>紫野を行き
  標野(しめの)を行って野守は見ているのではありませんか
  貴方が袖を振るのを
とされている。
しかし、李寧煕(いよんひ:1931年生)著「もう一つの万葉集」、文藝春秋社、1989によると、この万葉仮名を韓国語読みすると、
  ドションサチ パラセガネ
  ピョマガネ ポジキシャ アニポジェグデガサポ
となり、その【真の意味】は
  あかい股(さし:臀<しり>)が紫色の野原(蕃登<ほと>)
  を行きます。
  標野(しめの:禁野)を行くのです。野守は見てないでしょうね。
  貴方が私のはさみ<両股>を広げているのを
となり、誠にリアルな性描写となる。つまりこの歌は日本語と韓国語の二重歌となっているという。額田王は両方の言語を自由に操れる人で、日本語の意味を表に、韓国語の意味を裏に、示し両意に取れる歌を作ったのではないかということだった。李寧煕さんは日本生まれで、小さい頃に韓国に両親とともに帰り、この本を書いた当時は韓国の女子大の文学部の教授であった。完全なバイリンガルだからこそこのことに気がついたようだ。額田王の頃は日本は極めて国際的で、宮廷の多くの人々は多言語を使用していた。また多くの帰化人を宮廷は官僚として抱えてもいたのだ。だから、この二重歌も多くの人に直ぐ面白いと理解されたに違いない。李先生によると、他にも沢山万葉集には日本語と韓国語の二重歌があるそうである。この額田王の歌は、従来の訓読は間違いで、次のように読むべきだとこの本では提言されていた。
  茜草(あかね)股(さし) 紫野(むらさきの) 逝(ゆ)き
  標野(しめの)行き 野守は見ずや きみはさみひろげり
 また、李先生は、この中で「『標野(しめの)』の意味を『ピョマ』(標識)を立ててある『ポ』、つまり誰々の領地であるとか、神域であるとかを示す立札や棒ぐいなどの『しるしをしてある』野原を指す。すなわち『標野(しめの)』とは『立札などが書かれている占有地』、『立ち入り禁止と記されている禁野』である(87ページ)。」と説明している。
 私は、この李先生の説明をを読んで、その時、日本語では意味不明の「しなの」は「しめの」であると、直感した。そこで、2000.12.02から2001.3.2にかけて書いた随筆「むかしむかしの信州のことばとひとびと」の中で、次の様に「しなの」の意味につて考察した。

信濃の意味
話は変わるが、信濃という意味も日本語で分かるであろうか。シナノの漢字表記は信濃のほか科野などがある。従って、いわゆる音を写した当て字である。高校の古典で更級(さらしな)日記というのを習ったことがある。信州に来ると他府県にはないシナのつく地名がやたらと多いのにびっくりさせられる。更科(さらしな)郡、埴科(はにしな)郡、立科町、蓼科高原、明科、神科などなど沢山ある。シナはアイヌ語ではなく朝鮮語系の言葉である。シナというのは朝鮮語で旗を立てて許可なく入るべからずという土地を意味しているそうだ。従って、蓼の多い土地に旗を立てて、ここは我々のものと宣言したところは、蓼科。新たに土地(さらち)を領有したところは更科と命名する。また、野と原は意味が違う。富士の裾野というが裾原とは言わない。なぜか。それは、野は傾斜地の原っぱ、原は水平な地の原っぱをいうからである。従って、シナノというのは、旗を立て我々が領有宣言した傾斜地、つまり、早い話が植民地である。シナノは「植民地」という意味だというと、信州の人が怒り出すかも知れないが、次のような興味深い万葉歌が残っていることが、信州上田市にある信濃国分寺資料館内の掲示からわかる。
「信濃道(しなのじ)は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に、足踏ましむな履(くつ)はけわが夫(せ)」
信州は新しく開拓したところで、道も険しく整っていないので、京から赴任する夫よ、刈り株を踏まないよう、靴を履いて無事に行って下さい、という意味である。墾(はり)については愛媛県に今治(いまばり)、茨城県に新治(にいはり)郡というのがあるが、正に新たに開拓領有して治めたこほり(郡)である。上の万葉歌を見れば、信濃が新たに開拓領有された土地であることは疑う余地がない。信濃と名付けられる以前に住んでいた人々は、アイヌ語系の縄文人でそこへ朝鮮語系などの弥生人がやってきたのが、他の西日本よりはかなり遅かったのだろう。山が険しくてなかなか入り込めなかったものと思われる。

[第2章] 2001年に考えたこと

その後の2001年の夏秋に瀬戸内寂聴さん訳の「源氏物語」を全巻読み通した。その中に、「しめ」について大変興味深い例があった

源氏物語の絵合(えあわせ)の帖に
【朱雀院】
身こそかく 標(しめ)のほかなれ
そのみの 心のうちを 忘れしもぜず

(瀬戸内寂聴訳)巻三・頁236
今は宮中の外にいてあなたと離れているけれど
あの昔、貴方と愛した心のうちは
今も決して忘れてはいないのです。

【梅壺の女御の返歌】
しめのうちは 昔にあらぬ
ここちして 神代のことも 今ぞ恋しき

(瀬戸内寂聴訳)巻三・頁237
院が御在位だったあの頃と
宮中はすっかり変わった心地です
その宮中に住む身になって
神にお仕えした斎宮時代が
いっそ恋しくなる今日この頃

このように、瀬戸内さんの訳では、「しめのうち」は宮中となっている。宮中は禁中、禁裏ともいい、一般人は立ち入り禁止の占有地であるから、李先生の解釈と一致する。これらの歌の「しめのうち」や「しめのほか」の「の」は野原の「の」ではなく格助詞の「の」であることに注意したい。また、これらの歌からも容易に判るように、神社に張られた「しめなわ」は元々、立ち入り禁止を表わすための縄であったことが推理されて大変興味深い。
 因に韓国からの留学生、留学生と言っても韓国では工学部の助教授の先生に、この「しめ」とか「しな」という単語について聞いてみたところ、 「ああ、今はほとんど使いませんが、「しな」という単語は大変古い言葉で、そこには入ってはいけないところ、たとえば神社の境内みたいなところをさして言う言葉です。」とのことであった。やはり、この単語は韓国語から入った言葉にまちがいない。

[第3章] 2004年に考えたこと

その後の2004418日?2315NHKラジオで、奈良大学文学部上野誠先生の「私の中の万葉集 第3回」という話を聞いた。そのお話の中で、額田王の例の歌を取り上げ、「しめの」の関連用語を次のように解説された。
しめ(標)さす=スティック(棒)を刺す
しめ(標)はる=しめ(なわ)を張る{若菜摘み(=宴会)をするため、野原は公共のものだが、「しめはり」して「しめの」(=立ち入り禁止の占有地)にする}
という内容のお話がとても印象に残った。上述の「2001年に考えたこと」とぴったり合う。

[第4章] 2005年に考えたこと

(4-1)
 以上のことから、「しめの」と「しなの」が同じ意味であるという私の考えは、間違いないように思う。しかし、皆さんには「しめ」と「しな」がなぜ同じ意味になるのかまだ疑問が残るであろう。
 この変化は母音調和という文法が、当時あったためではないかと私は考えている。上述の「しめさすsime-sasu」も「しめはるsime-haru」も、二つの単語を一緒にして一つの複合単語になったときは、第1語の語尾母音eと第2語の語頭母音aというように、異なる母音になっている。「しめsime」はもともと単独で使われるとき「しなsina」だったと考えられるが、「しな+さすsina+sasu」も「しなはるsina+haru」も一つの複合単語をとなるときには、第1語の語尾母音aと第2語の語頭母音aが同じ母音になることはさけられ、第1語の語尾母音aが母音調和をしてeへ変化して「しめさすsime-sasu」と「しめはるsime-haru」となる文法があったのではないかと考えられる。そのとき子音nmへ同時に変化する文法も昔あったのだろう。こうすると二つの単語ではもはやなく、一つの複合単語となっていることを明示できて、話者と聞き手の間の混乱が避けられて都合が良かったものと考えられる。今もその名残がある単語として、「みなくち」がある。二つの単語の「みずmidu」と「くちkuchi」が一つの複合単語になったとき、midu-kuchiのような第1語の語尾母音uと第2語の語頭母音uが同じ母音になることはさけられ、第1語の語尾母音uが母音調和をしてaへ変化して、mina-kuchiとなるものと、同様に考えられる。このとき子音dnへ同時に変化している。これも昔、複合語を作るときの文法上の規則があったからなのだろう。
 こうなると、従来の万葉仮名表記の標野を「しめの」と訓読する習わしは、後世の人の間違いではないかと思う。万葉集を本居宣長が江戸時代に読み解いたときに、もう昔の細かい文法までは判らなくなっていて、万葉仮名で書かれると、母音調和のような現象までは再現できなかったのであろう。したがって、額田王の時代、標野と書いて「しなの」と読むのが本当は正しかったのではないかと思う。このことは、今も「水口」や「水底」と書かれてこれらの場合だけ「みなくち」や「みなそこ」と読むのは細かい音韻変化の習慣や文法を知っていないと正しい発音を再現できないのと同じであると考えられる。
 私は言語学は趣味で専門ではないので、この仮説が正しいと自信を持って主張できるものではないが、しなの(信濃)の語源を考えるうえで額田王の歌の中に出て来る「標野」が大きなヒントになったことは、大変面白いと感じている。今後、識者の本格的な言語学的研究を期待するものである。

(4-2)
200539日の日経新聞朝刊に、奈良県明日香村の飛鳥京跡を発掘調査していて、天武天皇らが在所とした後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原(きよみがはら)宮(656-694)の正殿跡の全容が判明したと、報じられた。その特徴は、正面中央に入り口がなく、東西に左右非対称で特異な構造をしていたことが判った。古代の宮殿は中国の影響から左右対称が原則とされていたので、極めて異例である。また、正殿四隅には旗竿を立てたと見られる跡があり、橿原考古学研究所は「荘厳さを演出した」と話しているという。
 この記事を読んで、私は橿原考古学研究所の「四隅の旗竿」に関する見解は間違っていると思った。上述の考察から明らかなように、「四隅の旗竿」はここが「しめの」であることを示し、立ち入り禁止の場所=禁裏であることを示す意味である。これは、日本古来の伝統を引き継ぐ建築様式だったからこそ、この「四隅の旗竿」が立てられていたのだと思う。



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