真田の表木神社と裏木神社

信州上田之住人
太田 和親  
2006827日〜93日随筆

 私は二三年前より運動不足解消のため地域の神社仏閣を巡りながら散歩することにしている。最初はただただ散歩が目的であったのだが、それでは飽きてしまうのでついでに神社仏閣を回ることにした。約一年半かかったが、昨年八月までに上田市内の約二百の神社仏閣を全て回った。そこで、今まで知らなかった地域の歴史が、その神社仏閣の由緒記や境内に立っている石碑などを読むことからわかり、そのことの方がむしろ面白くなった。そこで、途中から散歩が目的というより、神社仏閣の由緒や石碑を読むことが目的となってしまった。昨年までに上田市内の全ての神社仏閣を訪ね尽くし行くところがなくなったが、今年三月、上田市が周辺の市町村と合併し、新生上田市となった。そこで、新生上田市内でまだ行っていない旧真田町、旧丸子町、旧武石村の神社仏閣も行ってみようと考えるようになった。ついでに、ゆくゆくは旧小県郡に属していた旧東部町や、小県郡のまま残っている青木村、長和町(旧長門町+旧和田村)も踏破しようと思い立った。つまりいわゆる上小地区(=上田市と小県郡)といわれている範囲を全て回ろうと思っている。仕事が休みの土日に回るからこれから数年はかかるかもしれないが、大変楽しみである。
 今年の八月のお盆休みに旧真田町の神社仏閣を回っていて、黎明期の信州の歴史に極めて示唆に富む二つの神社に心を奪われてしまった。それは表木神社と裏木神社である。これらの神社境内にある石碑の碑文からすると、これらの神社は何と、弥生時代から存在する極めて古い神社だそうだ。その古さは、境内から出土した祭事用の弥生式土器や、それぞれ昭和八年や昭和三十六年まで境内に立っていた欅(けやき)の巨木の樹齢1800年から、推し量られる。日本人は太古の昔から神社の木は、枯死しないかぎり、切らない。それで樹齢から創建の時期が推し量れるのである。きっと、この二つの神社は今から1800年から1900年前に立てられたのだろう。上田市常田の科野(しなの)大宮神社や長野市豊野の伊豆毛(いずも)神社とほとんど同じ時期と考えられる。科野大宮神社境内には約300年前に枯れた御神木の巨大な欅(=槻)の切り株が今も保全されており、その欅が切られたときの樹齢は1500年であった。つまり今もその欅が生きていたら現在は樹齢1800年となるのだ。伊豆毛神社の境内には今から約100年前の明治35年(1902)に立てられた「郷社千八百年祭票碣(ひょうげち)」がある。これからすると伊豆毛神社は今から約1900年前の西暦102年に建立されたことになる。極めて興味深いことにこれらの神社、伊豆毛神社、科野大宮神社、表木神社、裏木神社は全て、出雲から科野(信濃)に移住してきて信濃の国を作った出雲勢力の神社なのである。
 ここ旧真田町では、御祭神は、表木神社が建御名方命(たけみなかたのみこと)、裏木神社が八坂刀売命(やさかとめのみこと)である。建御名方命は出雲の大国主命の息子で、天照系(大和朝廷系)に破れて天照系の支配から逃れ、出雲から能登・越後を経て信濃に入り、長野市豊野の伊豆毛神社の辺りを通り、上田市の神畑(かばたけ)神社や生島足島(いくしまたるしま)神社の辺りに一時的に滞在し、最終的には、諏訪大社の諏訪に落ち着いた。この建御名方命は、信濃の国の開闢(かいびゃく)の祖と言われている。八坂刀売命は建御名方命の妻である。つまり、信濃の国を最初に作ったのは建御名方命と八坂刀売命ということになり、古事記にでてくる日本(やまと)の国を最初に作った伊弉諾命(いざなぎのみこと)と伊弉冉命(いざなみのみこと)に相当する。信濃の国は出雲の国が滅びた後にできた出雲の亡命政権が作った国ということになる。その初代の王と后がこの建御名方命と八坂刀売命ということになろう。ここで、大変面白い言い伝えがある。諏訪大社では、上社で建御名方命が祀られ、下社で八坂刀売命が祀られている。厳冬期に、上社の建御名方命が下社の八坂刀売命を訪ねて、結氷した諏訪湖の上を歩いて渡って行った跡が、御神渡(おみわたり)なのだという。御神渡は、零下十度以下の日が何日か続くと諏訪湖の氷が線状にせり上がる現象のことをいう。この言い伝えからもわかるように、建御名方命と八坂刀売命は夫婦なのに別々の神社に祭られている。諏訪大社以外の諏訪系の神社つまり末社では、私の知るかぎり夫婦を一緒に祀っている。私は、諏訪大社だけがこのように上社下社に別れて、夫婦なのに建御名方命と八坂刀売命を別々に祀っているのだと思っていた。しかし、ここ上田市真田区でも、表木神社が建御名方命(たけみなかたのみこと)を裏木神社で八坂刀売命(やさかとめのみこと)を、夫婦別々に祀っていることに驚嘆した。これは、諏訪大社の上社下社の原形ではないかと思った。なぜ原形と考えられるかというと、上で既に述べたように出雲勢力の科野(信濃)への入植の歴史は、諏訪よりも上田や真田の方が年代的に古いからである。さらに大変面白いことに、今の上田の市街地の辺りは、今は上田市民にも忘れ去られているが、千年ほど前までは小県郡須波(すは)郷と呼ばれていた。諏訪より古い「すは」がかつて上田の千曲川河畔の北側に存在していた。従って、科野大宮神社の辺りは、今の諏訪よりも古い「すわ」なので「古須波(こすは)」と呼ばれていたのだ。このことは科野大宮神社の碑に書かれている。これらのことからも明らかなように旧上田市や旧真田町は、諏訪地方よりも年代的により古い出雲勢力の入植地であったということがわかる。従って、真田の表木神社と裏木神社が、諏訪大社の上社下社の原形だと考える所以である。真田の表木神社と裏木神社は、このように大社としての形式を持っている。従って、王と后が一時期この地にいたときにこの二つの神社は作られたのではないか。出雲系の王族が諏訪地方に入って定着する前の一時期、上田と真田の一帯は出雲王権の亡命勢力の一大中心地であったのではないかと、私は想像を逞しくして興奮を覚えた。

調査資料

2006813日調査
( )内は私の注釈

裏木神社
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記念碑

當社ハ本原村字表木鎮座ノ表木神社ニ對スル裏木社ニシテ往昔ヨリ表木ニハ建御名方命裏木ニハ八坂刀賣命ヲ祀ルト傳フ 両社共ニ欅ノ老木アリ世ニ表木裏木ト並稱ス此裏木ハ目通周囲四十五尺(=13.6m)枝下三間樹齢千八百年而シテ境域ヨリハ昭和二年古代弥生式斎瓮(さいおう:祭事用の大きなかめ)数個並ニ破片数多ヲ出土セリ此等ニ徴スルモ表木社ト共ニ古社タル事疑ヲ容レズ然ルニ歳月多シキニ及ビ文献記録ヲ失ヒ加之ニ社地ハ神川ノ清流ニ俯スル断崖ニ懸リテ不便甚シキヲ以テ漸次奉斎ノ式微ヲ来セシカ殊ニ明治以降泰西文明浸潤スルヤ年一度ノ祭祀スラ萎靡振ハズ社殿モ僅ニ一石祠ヲ存スルノミナリキ聖代隆盛ノ思澤遍キニ及ビ明治四十五年有志議ヲ起シ區民之ニ協力社地ノ擴張ヲ企テ祭儀ヲ復興シテ今日ニ至ル 偶昭和八年秋惜クモ神木中幹ヨリ折損シテ遂ニ枯ル依テ此霊樹ノ残幹ヲ保存セント欲レ共腐朽甚シク幹内已ニ虚トナレルヲ以テ處理ノ止ムナキニ至リ乃チ之ヲ記念スベク境内ノ擴張並ニ社殿再建ノ工ヲ起ス 時恰モ紀元二千六百一年大東亜建設ノ聖業其緒ニ就キ国内一致惟(これ)神大道ヲ宣揚シ神祗(じんし)尊崇祭祀ノ興隆切ナルノ秋(とき)ニ方リテ竣功ヲ見ル実ニ神威灼然タルヲ見ル可キナリ茲ニ次第ヲ録シテ以テ後毘ニ傳ト云フ

昭和十六年十月

縣社山家神社社司兼
村社表木神社掌      押尾厚撰
官幣大社諏訪神宮司正六位 滋賀正光書
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表木神社
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神木の記

霊峰吾妻山の麓聖地真田町本原鎮座の表木神社に巨樹あり俗にこれを表木と名づく北方神川の辺り亭々たる(ていていたる=すっくとたった)所謂裏木と並称し郡内双璧の欅(けやき)の老名木たり齢千年を越え目通り周囲三十余尺(=9m余)人皆その霊威に驚く昭和十三年三月一日長野県指定の天然記念物の列に入る表木神社は諏訪上社裏木神社は諏訪下社なりしにいつしかこの木にちなみて表木の里表木神社と呼びなれ後に正式の名称となりぬ星霜久くして漸く老衰枯損の襲う所となり今般神社本庁の許可を仰ぎ郷民哀惜のうちに斧を加えたり代価は社殿施設の営繕改修に充当し為に神威さらに輝きを加えたり残余は基金にあて今後祭祀の厳修不時のもとめに備うここに一同謀り特に碑を築き其の由緒と余徳を伝う霊樹以て瞑するに足らん

昭和三十六年七月八日

山家神社宮司兼
表木神社宮司 押森厚撰文
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