神紋から信濃の国の成立を考える

信州上田之住人
太田 和親  
200556-8日随筆

 私は、昨年五月から今年の五月までの丸一年間、上田市内の神社仏閣を全て見て回ろうと訪ね歩いてきました。あと数ヶ所を残すのみとなりこの五月中に目的を達成しそうです。これで満願成就ということになりますが、来年三月には上田市は周辺の真田町、丸子町、武石村と合併して新上田市になる予定ですので、また当分それらの新しい地域を回ることになりそうです。しかしこの一年間現上田市をくまなく歩いて神社仏閣を訪ねていて、大変面白いことに気が付きました。特に神社ですが、神社の屋根や本殿の懸魚(げぎょ)の上の辺りに、その神社神社に特徴的な神紋がついていることでした。私はそれまで家紋というのは知っていましたが、神社やお寺にも、それぞれ神紋や寺紋があることを初めて知りました。
 神紋は神様の系統系譜を表したものです。例えば梶紋(カジモン)が付いていれば、その神社は諏訪系と考えてよいそうです。上田市の神社には、梶紋の付いた神社が沢山あることに気が付きました。その諏訪系の大本の諏訪大社の神様は建御名方命(タケミナカタノミコト)です。建御名方命は大国主命(オオクニヌシノミコト)の息子です。そして建御名方命は「当国開闢(かいびゃく)の神」であると市内のいくつかの神社の由来に書かれています。つまりこの信濃の国を最初に開いた神様ということでしょう。したがって梶紋の付いた神社が上田に多いということは、この地域を最初に開いた偉大な指導者である建御名方命を上田でも大変崇敬しているということを表していると考えられます。上田市内に沢山ある梶紋の付いた神社の名前は、諏訪大社の末社と考えられ名前がそのままの諏訪神社・諏訪宮となっているもの以外にも、名前が違っていても梶紋がついているものが沢山あります。私が実際に訪ねて梶紋がついていることに気付いたものを下に全て挙げてみます。

「上田市内で梶紋のついた神社のリスト」
 諏訪神社(蒼久保)
 諏訪宮(木之郷)
 畑山(はたやま)神社(上野区畑山)
 足嶋(たるしま)神社(上野区五中近く)
 柏山武事神社(住吉区大久保):梶紋+五三の桐
 東條健代神社(住吉区宮山)
 生塚(うぶづか)神社(常磐城<ときわぎ>)
 大星神社(中央北三丁目):市内で二番目に氏子数が多い神社
 科野(しなの)大宮(常田二丁目):梶紋+五三の桐、一番氏子数が多い神社
 英神社(古里区染谷):梶紋+菊紋
 国露津穂神社(国分区黒坪)
 堀川神社(国分区下堀):御柱祭あり
 古家神社(踏入区)
 弓立神社(築地)
 諏訪神社(仁古田)
 塩野入神社(舞田):当国開闢の神=建御名方命の立札あり
 塩野神社(保谷)
 山田神社(山田):梶紋+菊紋
 生島足島(いくしまたるしま)神社(下之郷):御柱祭あり

  このリストで注目されるのは、梶紋のついた神社の中で、堀川神社と生島足島神社には諏訪大社と同じく小規模ながら「御柱(おんばしら)祭」を行っていることです。したがって、お祭りからもこれらの神社は諏訪系の神社であることを如実に表していることがわかります。神紋の梶紋と符合しています。諏訪大社の御柱祭は大規模で全国的に有名ですが、信州では他にも各地に小規模ながら「御柱祭」が沢山あります。信濃の国の中で、他に一体いくつの神社で御柱祭が行われているのでしょうか。過去に行っていたが今は途絶えてしまったもの、現在も行われているもの、全てを調べ上げると、民俗学的に大変興味深いものと思われます。さらに調査範囲を広げて、「御柱祭」は行っていないが、神紋が梶紋であるという神社は、信濃野国の中で一体いくつあるのでしょうか。正確な数はわかりませんが、最近市立図書館で、信濃国の神社で梶紋の神社は約三割あると、家紋の研究で著名な本に書いてあるのを、みつけました。日本の他の地域ではそんなことはないそうです。ほとんどない所の方が多いそうです。つまり、信濃の国は「梶紋」=諏訪勢力の一大中心地であったということを意味しているようです。
 建御名方命の父は大国主命(オオクニヌシノミコト)で、出雲大社の御祭神であることは有名です。古事記や日本書紀によれば、父の大国主命と兄の事代主命(コトシロヌシノミコト)は、大和朝廷系の天照大神勢力に出雲の国を譲れといわれて、無抵抗で承諾しました。しかし、建御名方命だけは、最後までうんと言わなかったので、最後に相撲で勝負して決めようということになり相撲で勝負したところ負けてしまい、信濃の国の諏訪まで逃げて来ました。ここから出ないから、もう私をこれ以上攻めないでくれということになり、諏訪に落ち着いたということです。きっとこれは建御名方命だけが、武力で抵抗したが最後には降参して、諏訪まで逃げたということでしょう。建御名方命のお母さんの奴奈川姫(ヌナカワヒメ)は越後(現新潟県)の出身だったので、こちら方面につてを頼って出雲から逃げてきたということでしょう。越後ではまだ危険だったので、さらに山の中の信濃の方面に逃げて最終的に諏訪に落ち着いたというのが真相だと思います。越後から千曲川(=信濃川)を遡ってきたのでしょう。上田市内の加美畑(かばたけ)神社の由来および生島足島神社の由来によると、建御名方命が出雲から中信の諏訪に移住する途中、上田市内の加美畑神社の地にまず一時的に滞在し、次に生島足島神社の地に滞在して、これらの地域に、農業と養蚕を教えたと言われています。そして生島足島神社から中信地区の塩尻に行き、最後は諏訪に落ち着いたそうです。塩尻から、諏訪に来るとき、原住民の守矢(もりや)氏の勢力と岡谷の辺りで戦ったという記録が、諏訪神社に伝わる「諏訪絵詞(すわえことば)」に載っているそうです。最終的には原住民の守矢氏と融和し諏訪地方は安定します。そのため諏訪神社は上社と下社に分かれて、それぞれ祭事は縄文的なものと弥生的なものとに分かれているのが特徴です。守矢氏は上諏訪神社を祀り、その祭事は鹿の頭を供えるなど狩猟採集時代の縄文の伝統を色濃く残し、江戸時代までその祭事は実際に行われ続けていたそうです。その神長官(じんちょうかん)の家系の守矢家当主は現在78代目です。一代30年とすると二千三百年も続く家系となります。おそらく日本で一番古い家系でしょう。天皇家よりも古いものと思われます。下諏訪神社の方は稲作系の伝統を表わした祭事を行い、代々金刺家がその祭事を担当していたようです。金刺家は大祝(おおはふり)の家系で、後に源平の合戦の時木曽義仲の重臣として活躍する手塚太郎金刺光盛は、金刺家の出身で諏訪から上田の手塚に移り住んだ人です。このように、建御名方命は出雲を出て、越後から千曲川を遡り、上田、塩尻を経て諏訪に行き定住したことがわかります。その時が信濃では、縄文時代が終り弥生時代が始まった時期となります。縄文時代には国の概念がなく原住民が各地に盤踞している状況ですから、建御名方命が来て初めて国としてまとまり信濃の国が始まったということです。それで建御名方命が当国開闢の神として今も崇敬されているのだと考えられます。因みに、建御名方命の子の興波伎命(オキハギノミコト)は諏訪を出て佐久に行き佐久地方を新たに開発した神として、佐久市臼田(旧臼田町)の新海神社に祀られて崇敬されています。
 このような歴史上の状況がわかったので、もう一度上の方で示した「上田市内で梶紋のついた神社のリスト」を見て下さい。科野大宮の神紋が梶紋+五三の桐となっています。科野大宮の御祭神は大国主命と事代主命であり、上に述べたように出雲・諏訪系統と見なしてもよいわけですから、その神紋が梶紋であるのは納得がいきます。しかし、拝殿屋根瓦には五三の桐が付いているのに大変疑問を感じます。そんな折、上田高校の正門の屋根瓦を見ていましたら、何と五三の桐が付いていました。上田市民にはよく知られていますが、上田高校が今ある場所は元上田藩のお殿様の屋敷でその門がそのまま残っていて、現在も上田高校の正門として使われています。とても歴史を感じる高校で、この正門には上田高校生や卒業生は大変誇りにしており、卒業式の時は必ずこの正門をバックに写真を撮ります。この江戸時代の殿様の屋敷の門の瓦屋根上部に五三の桐が付いているのは、当然といえば当然です。それは上田のお殿様が松平家でその家紋が五三の桐だったからです。そこで、科野大宮の拝殿の屋根瓦上部に五三の桐がついているのは、幕末に社殿を建て替えたときに、上田の殿様の松平氏がその費用を全額出したそうなので、スポンサーに敬意を表して、松平家の家紋を付けたものと考えられます。しかし拝殿の裏の本殿社(やしろ)の屋根、懸魚(けぎょ)の上にはちゃんと梶紋がついています。また拝殿前の大きな石の水鉢一対にはそれぞれ諏訪梶紋が付いています。毎年十月のお祭りの時には拝殿に幔幕が張られますがその幕にも諏訪梶紋が付いています。したがって、本来は梶紋であることがわかります。目に付きやすい屋根の上に五三の桐がついているということは、やはり今も昔もスポンサーは大切にされるということでしょう。
 因に真田町の延喜式内神社、山家(やまが)神社の拝殿屋根には何と三種類の違った家紋が付いています。左から五三の桐(松平家)、六文銭(真田家)、永楽通宝(仙石家)となっています。この地域を支配したお殿様は戦国時代から幕末にかけて、真田氏→仙石氏→松平氏と変わりましたが、山家神社はそのつどお殿様から厚く崇敬され全ての費用がそのお殿様によってまかなわれていたそうです。山家神社の主祭神は、科野大宮と同じ大国主命ですので「梶紋(諏訪系)」か「二重亀甲に花菱(出雲系)」のはずですが社殿には私の見たところ梶紋や二重亀甲に花菱は何処にも見当たりませんでした。山家神社は水害や火災で今までに何度か建て替えられているので、その際にスポンサーのお殿様の家紋を社殿の上に掲げたものと考えられます。それで三つもあるのでしょう。このように山家神社でも、科野大宮とほぼ同じ状況が神紋や家紋から読み取れて大変興味深いです。
 もう一度「上田市内で梶紋のついた神社のリスト」を見て下さい。英神社(古里区染谷)と山田神社(山田)では梶紋+菊紋となっています。大変異様な感じがします。上述の説明から判るように、もともと出雲・諏訪勢力と天照・大和朝廷勢力とは、敵対関係であったはずです。その両方の勢力を表わした梶紋と菊紋が一つの神社の屋根の上に並べて掲げられるということはどういうことなのでしょうか。私は次のように考えています。明治の世になってから王政復古したため、時の政治勢力の主流は再び天皇家となり、国家神道として伊勢神宮がその本流と見なされるようになりました。そのため、各地の氏族の氏神は国家統一に邪魔になったものと思われます。そこで、明治時代に合祀令が出されて多くの氏族の氏神は廃止され、村に一つの神社ということでまとめられてしまいました。神社は、血統上の氏族単位ではなく行政上の村単位にされたのです。その中で郷社、村社、県社などという格付けがされました。私の郷里讃岐国には私の家の氏神である太田神社がかつてあったのですが、明治時代の合祀令によって廃止され村社に統合させられてしまいました。私の曽祖父の頃の話です。私の父は大変残念がってもと太田神社があった場所、今は田んぼになっている所に私を連れていってくれたことを思い出します。当時この合祀令に抵抗することはかなり困難であったようです。そこで、上田市内にある英神社(古里区染谷)と山田神社(山田)では、廃社されるのを回避する方法として、天皇家の御祭神の天照大神も合せて祀ったのではないか、そのため本来の梶紋に菊紋も合せて付けたのではないかと想像されます。柔道の合わせ技みたいですね。皆さんはどう思われますか。なお、戊辰戦争の頃、「菊は咲く咲く葵は枯れる(=天皇家が興り徳川家は滅びる)」と当時の政治状況を紋章を通して歌われたそうですが、それより2000年ほど前には、「菊は咲く咲く梶の葉枯れる(=天照大神・大和朝廷が興り出雲・諏訪勢力が滅びる)」という政治状況があったものと考えられます。その舞台の中心が、出雲と信濃だったのです。
 ここで梶紋ではないのですが、大変注目される神紋があります。上田市の隣に小県(ちいさがた)郡青木村があります。その青木村に子檀嶺(こまゆみ)神社があります。小県郡には延喜式内神社は五つありますが、子檀嶺神社はその一つで大変古い神社です。この神社の神紋は「二重亀甲に花菱」で出雲大社の神紋と全く同じで、出雲系であることを表わしています。御祭神は、木俣(こまた)神で、大国主命の最初の子です。コトシロヌシやタケミナカタのお兄さんに当たる人です。この神紋から考えると、梶紋より古くからここに出雲から来て定着したのではないかと想像できます。タケミナカタノミコトが来る前に、既に出雲から少しずつ先にこの地へ逃げてきていた出雲勢力があるのではないかと私は考えています。そこで大変注目されのは、上田市から千曲川下流の長野市豊野地区に延喜式内神社の伊豆毛(いずも)神社があることです。信州に古くからイズモという名前の神社があったのです。縄文時代から弥生時代に移り変わる大変革期に、出雲から信濃へ移動があった歴史を証明できる神社ではないかと考えられます。以上のように、通常教科書で習わない信濃国成立の歴史が、神紋から読み取れ大変興味深いです。
 最後になりましたが、是非皆さんにもう一つ知ってもらいたいことがあります。科野大宮の鳥居の横に、「科野大宮の碑」と書かれた大きな石碑が建っています。その石碑にも縄文時代から弥生時代に移り変わる大変革期の歴史を彷彿とさせる大変興味深い故事が書かれています。しかし現在上田市民にさえその故事はほとんど知られていません。大変面白いものです。別稿「科野大宮の碑から上田の歴史を考察」で論考していますので、是非合せて読んでみて下さい。これらは信濃の国の成立、ひいては日本の国の成立について大変考えさせられます。 

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