科野大宮の碑から上田の歴史を考察
信州上田之住人
太田 和親
随筆2004年7月14-16日
加筆修正2004年9月8-9日
信州上田市にある科野(しなの)大宮さんは、上田市で最も古い神社のようです。創建は2100年くらい前のようですが、いつ頃建てられたものかはっきりしないそうです。そこで、神社の境内にある石碑を最近読んでみました。この碑文には、信州の歴史や日本の国が成立した当時のことが書かれており、本当に面白いものです。この碑文から上田の歴史、ひいては信州の歴史について、非常に考えさせられました。碑文の原文は難しい漢文書き下し文ですので、後の方で詳しく解読しています。後でじっくり読んでみて下さい。まず、ここでは、その碑文に出てくる古須波という地名と古代に上田に遷都しようとした歴史を見てみます。
(1) 古須波考
まず、科野大宮の碑には大変驚くべきことが書かれています。この上田の大宮さんがあった土地を「古須波」、すなわち「こすわ」と言ったとあります。漢文を書き下すときにこうなったので、「古須波」は「いにしえはすわ」と読むのかもしれません。つまり、昔はここを「すわ」といったという意味なのかもしれません。どちらにしても、この地は「すわ」と呼ばれていたのです。長野県で、「すわ」といえば御柱(おんばしら)祭の諏訪ですよね。この現在の中信の諏訪より古い「すわ」が東信の上田にあったということになります。そこで上田市内で現存する「すわ」という地名を調べて列挙してみると1)諏訪形、2)諏訪部、諏訪泉神社、諏訪部橋、3)上須波橋、下須波橋(市内矢出沢川に架かる)、4)古須波、須波ヶ岡(科野大宮さんのある土地の古名)と、以上4ヶ所にあります。またその後、郷土史「富士山村の歴史」という本で知ったのですが、10世紀に作られた「和名類聚抄」によると、信濃国には十郡があり、その内の小県(ちいさがた)郡は、さらに八郷に分れていたそうです。その八郷は、童女(おうな:旧東部町)、山家(やまが:現真田町)、須羽(すは:現上田市の千曲川北岸一帯)、跡部(あとべ:現青木村)、安宗(あそ:塩田平南部一帯)、福田(ふくだ:塩田平北部一帯)、海部(あまべ:現丸子町)、餘部(あまるべ:現武石村+現和田村+現長門町)だったそうです。従って、10世紀頃までは、上田旧市街地一帯は須羽(すは)郷と呼ばれ、上田の地にかつて「すわ」という地名が、実在したことを知りました。
しかし、一体、「すわ」という言葉はどういう意味なのでしょう。インターネットで調べてみました。ホームページhttp://www004.upp. so-net.ne.jp/dhistory/ hashi_01.htmによると、【「諏訪」は広く大勢に相談し物事を決める事】を意味するそうです。合議制で村や集団の政治をするということなのでしょう。また、海野宿に在住の郷土史家宮下なほ子氏によると、スワは何とスワヒリ語で、川岸が崖になった場所をいい、船着き場に利用された所だとのことです(2004年9月4日聞取)。上田城の下に崖がありますが、昔はこの崖の真下を千曲川が流れていて、尼ヶ淵と呼ばれていました。このような所を「スワ」というのだそうです。「すわ」という地名がこの意味だと、このあたりを代表する目印(ランドマーク)は尼ヶ淵だったに違いなく、推定旧名の「すは」は、地形と地名がぴったりとなります。こっちの方が、納得がいきます。
さて、上田市内の諏訪部の高橋近くに有る標札によると、ここ上田に、最初に来た弥生人は、諏訪族だったそうです。今から2100年ほど前、縄文人が住んでいたここ信州に、初めて弥生人が来て入植した。その人たちは諏訪族で、氏神を祭るため神社を建てた。科野大宮の碑文と考えあわすと、諏訪族が建てた神社が科野大宮の前身だということになります。神社というのは、今は余り現代人は意識しませんが、上田市内の神社を回っていると、集落ごとに、必ず神社が建っていることに気付きます。その神社の名前は必ずその集落の名前あるいはその集落の有力氏族の名前が付いています。従って、稲作をして定住生活をする弥生人にとって、土地の神様を祭り氏族の祖先を祭り集落が安寧に暮らせるように祈る、精神的支柱としての場所が、集落ごとに必ず必要だったに違いありません。明治時代から大正時代にかけて合祀令というのがありました。これは、明治39年制定され、全国の神社を無理やり半減させた悪法で、南方熊楠が大反対したので、後の大正7年に廃止された法令です。2004年7月21日放送のNHK「その時歴史が動いた“世界遺産熊野の森を守れ?南方熊楠・日本初の自然保護運動?”」にも取り上げられました。この合祀令以前は、全国的にそれこそ集落ごとに必ず産土神(うぶすながみ)や氏神を祀る神社があったのです。従って、科野大宮は、約2100年前に諏訪族が建てた神社で氏神をまつったものがその前身と考えられます。
そしてこの科野大宮の祭神が出雲出身の大国主命(オオクニヌシノミコト)とその長男の事代主命(コトシロヌシノミコト)であるというのも意味深長です。中信の諏訪大社の祭神は、大国主命の次男の建御名方命(タケミナカタノミコト)です。上田市内の加美畑(かばたけ)神社の由来および生島足島(いくしまたるしま)神社の由来によると、タケミナカタノミコトは出雲から中信の諏訪に移住する途中、上田市内の加美畑神社の地にまず滞在し、次に生島足島神社の地に滞在して、これらの地域に、農業と養蚕を教えたと言われています。科野大宮の碑文から考えると、この弟のタケミナカタノミコトが加美畑に来る前に、既に兄のコトシロヌシノミコトや父のオオクニヌシノミコト、あるいはその勢力下の人々が、上田市内の「こすわ」に来ていたのではないかと、私は考えています。オクニヌシノミコトら出雲の勢力が中信の諏訪に移住してきたのは、天照大神 (アマテラスオオミカミ)系の天孫民族に、つまり大和朝廷勢力に攻められて、出雲から逃げてきたためです。古事記と日本書紀の前半部分にこれらのことが書かれています。これらの物語は、神話と呼ばれていますが、日本列島が縄文時代から弥生時代に変わっていく大混乱期のさまざまな人々の記憶を記録したものだと私は思います。中国から文字も暦も入っていない時代なので、年代は正確とはいえないが、人々の忘れられない大事件の記憶を何百年も後に記録したもので、多くは本当のことだと思います。従って、大和朝廷勢力に追われた出雲の勢力は、未だ大和朝廷勢力に屈していなかった信州を目指して逃げてきたのに違いありません。上田の科野大宮の前身は、そのような時期に最初に出雲から来た集団、諏訪族、によって作られた神社と考えられます。それでこの地を「こすわ」といい、祭神が出雲出身のオオクニヌシノミコトとコトシロヌシノミコトとになっているのでしょう。彼等は縄文文化圏の人たちだったのですが、既に農業や養蚕という弥生のハイテク技術を身に付けていて、心情的政治的には縄文人でも生産手段は既に弥生系になっていたと想像されます。それで、政治亡命的にいまだ縄文文化圏の信州に逃げてきたのですが、弥生文化の農業や養蚕を、加美畑(かばたけ)などの滞在地でその土地の人たちに教えたということなのだと思います。正に縄文時代から弥生時代に移行する丁度その時だったからといえます。従って、諏訪族は縄文人であり弥生人なのです。現代風に言えば縄文系弥生人ということになりますか。「すわ」族は信州に弥生文化をもたらした最初の人たちで、上田の「こすわ」が信州で最初の移住地といえるというのが私の結論です。諏訪市の「すわ」はその後遅れて亡命してきた弟のタケミナカタノミコトの移住地です。従って、科野大宮は諏訪大社よりも古いと考えられます。
科野ノ国の初代国造(くにつくり)つまり県知事は、科野大宮の碑によれば、タケイホタツノミコト(建五百建命)ですが、この人物が大和朝廷に人選されたことも、大変意味深長に感ぜられます。何故かというと、タケイホタツノミコト(建五百建命)は、出雲系の大国主命の娘イスケヨリヒメ(伊須気余理比売)と大和朝廷系の神武天皇との間に産まれた子カムヤイミミノミコト(神八井耳命)の孫です。これは、出雲系の科野ノ国を反乱させないにように治めるには、出雲系の血も入っており、大和朝廷系の血も入っていて、どちらからも好都合だったからでしょう。このような血筋と、上に既に述べた科野ノ国の成立の歴史があるからこそ、この人タケイホタツノミコト(建五百建命)が初代の県知事になったのだと考えられます。
因に、タケイホタツノミコト(建五百建命)の父は、タケイワタツノミコト(健磐龍尊)という人で、この人は祖父神武天皇の勅命により、山城国の宇治から阿蘇に下って阿蘇一帯を開拓して治め、鎮西鎮護の大任を果たしました。それでその息子のタケイホタツノミコト(建五百建命)が阿蘇から科野に赴任して来たとき、一緒に来た阿蘇の人々が、現上田市の塩田平を開拓して住みました。ここは現在も「古安曽(こあそ)」という地名として残っています。10世紀に作られた「和名類聚抄」によると、安宗(あそ)郷といわれていた地域の中にあります。この「古安曽(こあそ)」には安曽神社がその時からずっと建っています。古安曽(こあそ)に、阿蘇出身の人々が建てた安曽神社があり、古須波(こすは)には、諏訪族の人々が建てた科野大宮が建っているということで、それぞれ創建時に共通の状況が見て取れて面白いですね。これらははるかな古代の2000年から2100年前のことなのです。歴史的なロマンを感じます。
(2) 上田遷都考
次に、ここ上田に遷都しようと天武天皇が考えて2人の使者を送って上田の科野大宮の土地を調査させたということが、大変注目されます。そんな史実があったことを私はこの石碑を読んで初めて知りました。二十年以上も上田に住んでいて、誰からもそんな上田遷都計画があったなどと聞いたことがなかったので大変驚きました。皆さんは知っていましたか。
しかし、大変疑問に思うことがあります。何故天武天皇はこの時期に、辺鄙な信濃へ遷都を考えたのでしょう。多分、私だけでなく多くの人が疑問に思うと思います。私は次のように考えています。663年に「白村江の戦」で日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗し、百済は滅亡しました。このような国際情勢から、唐と新羅の本土侵入を恐れた結果、防人(さきもり)を置き水城(みずき)を築いて、日本は防衛努力をしました。また、当時は中央豪族の政治への干渉が激しい時期でもありました。実際に天皇が有力豪族に暗殺される事件もあったのです。従って、恐らく、壬申の乱(672年)で勝利を収めて皇位に就いた大海人皇子(=天武天皇)は、この国土防衛のためと、中央豪族達の政治干渉を避けるため、九州や近畿から遠い信濃に遷都しようと計画したのではないかと考えられます。また、壬申の乱前、大海人皇子は辺鄙な吉野山中に逃れていたので、辺鄙な信濃山中にも余り抵抗がなかったのでしょう。
また当時吉野のくずびとは、縄文人の末裔だという意識があり、弥生系の天孫人とは、人種が違っていたと考えられていました。お前は人間の「くず」だということを今も言いますが、これは本来人種差別用語であったといわれています。くずびとは、平安末期まで、お正月には京の都に出てきて、宮廷で踊りを奉納する習わしがあったことが、平家物語に出ています。おそらく、源平の合戦の頃までは、くずびとは朝廷に恭順の意を示すために、毎年そうしていたのでしょう。そういえば、和歌山の人や奈良県南の吉野山系の人々は今も、顔が他の近畿の人の面長と違って、えらが張って四角い顔をしている人が多い気がします。信州人の顔やアイヌ人の顔によく似ています。吉野の人も信州の人も縄文系だったのでしょう。南北朝の時代までは、日本が乱れると、吉野に逃れたり、信州に逃れたりすることがあったのは、縄文系の人々が住んでいる土地は元々、中華王朝で言う「化外(けがい)の地」という意識があったのではないかと思います。化外の地とは、未だ王朝の支配が完全には及んでいない土地という意味です。さらに中華王朝では西洋にはない「柵封制度」というのがあり、完全に支配はしていなくても、毎年都に朝貢して来て恭順の意を示していれば、そこも一応完全ではないが王朝の支配下にあると見なすというものです。1874年沖縄の漂流民が台湾の蛮族に殺害された事件の後、賠償交渉に臨んだ大久保利通に向かって、清朝は台湾は化外の地だから責任はないと言って、賠償金を最初支払おうとしなかったそうです。このようにほんの100年ほど前まで「化外の地」や「柵封制度」という政治概念が東洋にはあったのです。そこで、日本でもおそらく平安末期まで、吉野はこの柵封の下にある化外の地という意識が、京の朝廷には漠然とあったのでしょう。国境や国民などという政治概念は西洋と東洋でかなり異なっていたことがわかります。
さて、首都を信州に移す計画というのは、この天武朝の時だけではありません。それから1360年後の太平洋戦争の時、信州松代の山中に長大なトンネルを掘り、ここに天皇をお移しして戦い抜くということを計画していました。実際に天皇陛下用の部屋、つまり御所をトンネル内に造っていたのです。敗戦になり松代大本営の計画は実現しませんでした。興味深いことに、二つの計画とも外国との戦争の時に、信州に遷都しようとしていたことがわかります。
「科野大宮の碑」の原文
以上、古須波という地名と古代に上田に遷都しようとした歴史を見てきました。私はこのようなことを、上田に住んで二十年以上になりますが全く聞いたこともなく、知りませんでした。大変興味深いことで、本当に色々考えさせられました。その他にも大変興味深いことが、「科野大宮の碑」には宝石のようにちりばめられて書かれています。そこで、以下に、この「科野大宮の碑」の原文を皆さんと読んでみたいと思います。
しかし戦後生れの私には、とても難しくて解読に大変往生しました。漢文の書き下しというだけでなく、使われている平仮名が、平家物語の頃に使われていたような歴史的なもので、馴染みが殆どないためです。例えば、「な」は「奈」を崩したもの、「し」は「志」の崩したもの。このあたりならまだ想像が出来ますが、元の字が想像できない「の」、「を」、「と」の変体仮名が随所に使われていて、もう戦後生れの人にはすらすら読めるというものではありませんでした。大正五年生まれの亡父が戦前の満州時代に書いた手紙が沢山、最近になって親戚の家から出てきて、私に譲られました。これらの中にこのような変体仮名がよく使われていて、大変苦労してやっと読みました。私は昭和二十七年生れで戦後教育を受けたものなので、歴史的仮名遣いなどにはなじみはありませんが、そのようなことをかすかに覚えている最後の世代かと思われます。もっとのちの戦後の生れの人には多分完全にお手上げのように思います。そこで、私が何とか読み取って現代の仮名に改めた科野大宮の碑文を下に示します。読んでみて下さい。
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科野大宮の碑 大勲位彰仁親王 篆額
崇神天皇の七年詔して国ツ社を定めたまふ科野ノ国造建五百建命令を奉じて大己貴命事代主命を祀る社を創建して以て当国鎮護の社となす爾来国造県主租賦を奉じて以て祭を修む科野は後信濃と改めたりしも社に科野と号するは其の旧を存せしなり常田は古須波と稱す社の地高く平かにして傍らに国衙あり故に須波ヶ岡と号し又国衙台と曰ふ天武天皇十三年都を科野に遷さんと欲す小紫三野王小錦下采女朝臣筑羅を遣はして地形を相せしむ二人岡に至り圖を製し社に祈る果して吉なり還りて奏し為に神戸を置く其の社を摂する六所と曰ふ国司祀典を修む文治中常田は八須波絛院璋子内親王の荘田たり故に常田の荘と稱す内親王華表を山上に建つ社を距ること南三百歩ばかり鳥居場と稱するは旧址なり康安二年二月鎌倉管領足利基氏彗星を祓除す其の書科野大宮と記す大宮の稱たる已に久しきなり旧記に云く社域南北八丁東西六丁と承平の乱将門兵を起す京に入らんと欲し道をここに取る他田ノ真樹は小県に国造たりし他田ノ大鴨の裔なり平ノ貞盛を助け将門を国衙台の下常田の河原に撃ちて大いに之を破る社域之が為に荒廃す享禄天文の間本郡の豪族上田常田海野真田の諸氏隣郡村上氏の族と封地を争ふ戦闘して止まず天正元年再び之を建つ真田氏徳川氏と數々戦うに及びて頽廃し復修むる者なし而して修理の費祭祀の料は盡く租賦に取る古例を修るなり毎年正月十五日藩主自ら奉幣の典を挙げ明治の朝に至りて廃す常田の諸氏其の事跡の煙滅せんことを恐れ余に請ひて梗概を叙し銅碑に鐫りて以て後に伝へしむと云う
明治二十二年十一月 枢密院顧問官正三位勲一等伯爵副島種臣撰
付記 この碑文はもと漢文を以て記され銅碑に刻まれていたが太平洋戦争酣なるに及び昭和十八年八月政府の銅鉄回収運動に応じて献納した今回有志相謀り再建の議成り広島大学名誉教授正四位勲二等文学博士手塚良道氏並にその門下文学士小林勝人氏を煩し国文に書き改め石に刻って長く伝えるものである
横関豊龍書 藤澤群黄刻
(碑裏面)昭和三十三年四月二十九日建
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以上ですが、皆さんすらすら読めて理解できましたか。漢文を国文に書き改めたものですが、それでも、私の勤めている大学の大学院生に見せましたが、難しくてよくわからないとのことでした。理科系の学生だからということもあるとは思いますが、一般的にわからないのが当然のような気がします。まず、句読点がなくどこまでが一文かわからないことや、読み方がわからないものや意味不明なものが沢山あります。そこで、下記に私が調べて読み方や注釈を付けたものを下に示します。
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2004年6月4?9日太田和親調査
以下文中( )及び[ ]は調査人注釈
科野大宮の碑 大勲位彰仁親王[1] 篆額(てんがく)
(神代の話)
崇神(すじん)天皇[2]の七年(紀元前91年)詔して国ツ社(やしろ)を定めたまふ。科野(しなの)ノ国造(くにつくり)、建五百建命(たけいほたつのみこと)[3]令を奉じて、大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命の別名)、事代主命(ことしろぬしのみこと=大国主命の長男)を祀る社を創建して以て当国鎮護の社となす。爾来国造県主(あがたぬし)租賦を奉じて以て祭を修む。科野は後信濃と改めたりしも社に科野と号するは其の旧を存せし(ぞんぜし)なり。
(飛鳥・白鳳時代の話)
常田(ときだ)は古須波(こすわ)と稱す。社の地高く平かにして傍らに国衙(「こくが」と読む:律令時代の県庁)あり。故に須波ヶ岡(すわがおか)と号し又国衙台(こくがだい)と曰ふ(いう)。天武天皇(672?686年在位)十三年(684年)都を科野に遷さんと欲す[4]。小紫(こむらさき=冠位[5]の一つ)三野王(みぬおう)、小錦(こにしき=冠位[5]の一つ)下采女朝臣筑羅(しもうねめあそんちくら)を遣はして地形を相(みさ)せしむ。二人岡に至り圖(=図)を製し社に祈る。果して(はたして)吉なり。還りて奏し、為に神戸(かんべ=祭祀の費用を賄う為の村落や土地)を置く。其の社を摂する(=接する)六所(神戸となった所が六ヶ所)と曰ふ(いう)。国司祀典を修む。
(平安時代中期の話:もと*の前にあったが年代順にするためここに移す)
承平の乱(=承平天慶の乱)将門兵を起す(939?941年)。京に入らんと欲し道をここに取る[6]。他田ノ真樹(おさだのまき)は小県(ちいさがた)に国造たりし他田ノ大鴨(おさだのおおかも)の裔(すえ=後裔=子孫)なり。平ノ貞盛を助け将門を国衙台の下、常田の河原に撃ちて大いに之を破る。社域之が為に荒廃す。
(平安時代後期の話)
文治中(1185?1189年間)常田は八須波絛院璋子内親王(=八条院璋子内親王=鳥羽上皇の皇女)の荘田たり。故に常田(ときだ)の荘と稱す。内親王、華表[7] (=鳥居 )を山上に建つ。社を距ること南三百歩ばかり鳥居場と稱するは旧址なり。
(室町時代の話)
康安二年(1362年)二月鎌倉管領足利基氏彗星[8]を祓除(ばつじょ)す。其の書科野大宮と記す。大宮の稱たる已(すで)に久しきなり。旧記に云(いわ)く社域南北八丁(864m)東西六丁(648m)と。
(*戦国時代の話)
享禄(1528?1531年)天文(1532?1553年)の間本郡(=小県郡)の豪族、上田・常田(ときだ)・海野(うんの)・真田(さなだ)の諸氏、隣郡村上氏の族と封地を争ふ。戦闘して止まず。天正元年(1573年)再び之を建つ。真田氏徳川氏と數々(しばしば)戦うに及びて頽廃し、復(また)修むる者なし。
(江戸・明治時代の話)
而して修理の費、祭祀の料は盡く(ことごとく)租賦に取る古例を修るなり。毎年正月十五日藩主自ら奉幣の典を挙げ、明治の朝(とき)に至りて廃す。常田の諸氏其の事跡の煙滅せんことを恐れ、余に請ひて梗概を叙し銅碑に鐫(ほ)りて以て後に伝へしむと云(い)う。
明治二十二(1889)年十一月 枢密院顧問官正三位勲一等伯爵副島種臣(そえじまたねおみ)撰
付記 この碑文はもと漢文を以て記され銅碑に刻まれていたが太平洋戦争酣(たけなわ)なるに及び昭和十八年八月政府の銅鉄回収運動に応じて献納した。今回有志相謀り再建の議成り、広島大学名誉教授正四位勲二等文学博士手塚良道氏並にその門下文学士小林勝人氏を煩し、国文に書き改め石に刻って長く伝えるものである。
横関豊龍書 藤澤群黄刻
(碑裏面)昭和三十三(1958)年四月二十九日建
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調査人詳細注釈
[1] この石碑上部の篆額(篆字による題名)を書いた「大勲位彰仁親王」は、皇族の小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)のことです。弘化3年(1846年)1月16日に生れ、明治36年(1903年)2月18日に没しました。安政5年(1858年)京都仁和寺の僧籍に入られましたが、慶応3年(1867年)22歳の時勅命により還俗し、同4年1月の鳥羽伏見の戦いに、征東大将軍として出陣しました。朝廷はこの軍に対し錦の御旗を授与して戦場に向かわせました。これにより、薩長軍は官軍となり幕府軍は賊軍となったのです。この時の品川弥二郎作詞・大村益次郎作曲の軍歌、「宮さん宮さん、お馬の前にひらひらするのは、何じゃいな。 トコトンヤレトンヤレナ。あれは朝敵、征伐せよとの、錦の御旗じゃ、知らないか。トコトンヤレトンヤレナ。」のトンヤレ節に出てくる宮さんこそ、この人です。因に、東京上野公園内の上野動物園前に、この宮さんの銅像があります。勿論お馬に乗ったお姿です。従って、この科野大宮の碑の篆額には、当時極めて有名で高貴なこの宮様に揮毫してもらっていたのですね。
[2] 崇神天皇は第10代天皇で紀元前97年から紀元前30年までの67年間在位したことになっています。またの名を、「御間城入彦五十瓊殖尊 (みまきいりひこいにえのみこと)あるいは「御肇国天皇 (はつくにしらす)」といいます。この名前からわかりますように、国を始めた天皇ということになるので、この第10代の崇神天皇から実在の人ではないかと考えられ、それ以前は神話の世界の天皇と言われています。しかし、実在と言っても、67年間という極めて長い在位期間や119歳の長寿であったとかの記述は、ほとんど信じがたいものです。これは、何百年も後の日本書紀(720年)が書かれた奈良時代に、書記の漢人や韓人が年代を後から当てたからでしょう。従って、まだ中国から暦が入っていない時代のことで、年代は正確でないと言っていいでしょう。その為、上田市の教育委員会が作成した「科野大宮指定史跡の立札」の説明では、本石碑の説明とは異なり、この科野大宮がいつ頃出来たか不明としています。それでも、この神社が2000年近くの歴史が有る極めて古い神社であることだけは確かだと思います。もしそうだとすると、諏訪大社よりも古い可能性があります。
[3] このタケイホタツノミコト(建五百建命)が科野ノ国の初代国造つまり県知事ということになります。現在の田中康夫長野県知事は何代目になるでしょうか。
[4] 長野県上水内(かみみのち)郡鬼無里(きなさ)村にも遷都伝承があり、ここ長野県上田市常田地区と同様に、三野王(みぬおう)と下采女筑羅(しもうねめちくら)の二人が天武天皇十三年(684年)に鬼無里に視察に来たということです。
[5] 大化3年(647年)に制定された「十三階の冠位」は、「大織・小織・大繍・小繍・大紫・小紫・大錦・小錦・大青・小青・大黒・小黒・建武」の順になっていました。従って、小紫と小錦は冠位を表します。ここの小錦はお相撲さんではありません。
[6] この碑文を読むと、「将門が兵を挙げ、京に上ろうとして上田まで進軍してきた。その将門の軍を、平貞盛と他田真樹が戦をして上京を食い止めた。」というような意味に取れます。つまり、将門は京に上って、東国だけではなく日本全国を支配する意欲があったように、これでは読めてしまいます。しかし、これは間違いです。2004年6月30日にNHKテレビで放送された「その時歴史が動いた」第184回:もう一つの日本を創(つく)った男?平将門 東国独立政権の謎?を見ても、将門にそのような全国制覇の意欲はなかったようです。事実は「将門記」などによれば次の通りです。
承平天慶の乱は、平将門が、常陸国の国司である平国香を、討ったことから始まります。国香の息子である平貞盛は、将門の謀反を朝廷に訴えるために京都へ向かいました。貞盛が京都へ向かったことを知った将門は、後を追いかけて、信州上田の国分寺河原付近で追いつきました。この時の戦火で信濃国分寺や科野大宮が焼失したのです。この戦いに勝って京にのぼった貞盛は、朝廷へ将門の謀反を訴えました。そこで朝廷の宣旨を受け朝廷側に付いた藤原秀郷らによって攻められ、将門は朝敵として討ち死にしました。
従って、この碑文は、残念ながら、史実を誤認していますのでここの部分は訂正すべきものと思います。
[7] 華表とは、古代中国で宮城や陵墓の前に建てられた木柱あるいは石柱のことです。華表は日本の鳥居の中国語訳で、ここでは鳥居と同義です。
[8] 1362年に現れた大彗星でGriqua(グリカ)彗星のことのようです。この彗星は「太平記」にも記載されていて、当時天変地異が起こる予兆ではないかと恐れられたそうです。そのため、足利基氏は関東(鎌倉)管領として、関東地方の無事を祈り科野大宮でお祓いをしたと考えられます。
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以上のように、この碑文には、信州の歴史や日本の国が成立した当時のことが書かれており、本当に面白いものです。一度、長野県上田市常田にある「科野大宮」さんを訪ねて、碑文を読んでみて下さい。きっと感動すると思います。