むかしむかしの信州のことばとひとびと

信州上田之住人
太田 和親  
200132日随筆

皆さん、日本語で浅間と信濃という意味がわかるであろうか? 地名であることは皆知っているがその意味が山田や川口のようにすぐさま地形が想像できるような意味として理解できないはずである。何か音に本来の意味があり漢字は単なる音を表すための当て字のようである。

浅間の意味
他府県の人が、浅間(あさま)温泉と聞いたら、それは浅間山の近くにあると思うであろう。また、浅間温泉の近くで浅間山荘事件が起きたと誤解していた人もいたくらいである。しかし浅間温泉は、不思議なことに浅間山荘事件が起きた浅間山麓にはなく、遠く離れて別系統の山塊にあり縁もゆかりもない。それは約50キロ南の松本市にあり、浅間山とは全然関係がないところにある。さらに浅間という地名で不思議なことは、富士山山頂とその裾野で山梨県と静岡県の富士山の周囲を取り囲んでいくつも浅間(センゲン)神社と呼ばれる神社が点在していることである。浅間(センゲン)神社は正しくはアサマと呼ぶそうだが、江戸時代の終わり頃から通称センゲンと音読みになったそうだ。アサマはどうもアイヌ語であったようだ。山奥とか、家の土台とか言う意味らしい。従って、アサマは浅間山のみを表す固有名詞ではなく、もっと一般的な意味を表す普通名詞だったらしい。ところが、江戸時代にはもう元の意味が分からなくなってしまい、浅間(アサマ)神社は浅間山と混乱を避けるために浅間(センゲン)神社になったらしい。

信濃の民話
信濃のとても古い民話に非常におもしろいものがある。
浅間山は女の神様で富士山のお姉さんにあたり、富士山も女の神様で浅間山の妹にあたる。地理的にその間にある八ヶ岳は男の神様で、その山の形は今のように八つに頂が分かれているのではなく、富士山と同じような形の一つの頂になっていたそうだ。この男の神の八ヶ岳と女の神の富士山がある時、自分の方が高い、いや私の方が高いと争った。この争いをとても心配そうに姉の浅間山は見守っていたそうだ。決着がつかないので、天の神様は2人の頭の上に樋(とい)を掛けて水を流した。そしたら、八ヶ岳の方に流れて勝負がついた。負けた八ヶ岳は悔しくて爆発し、山頂が吹っ飛んで今のような八つの頂になってしまったという。私が聞いたのはこうだったが、逆に富士山の方が負けて怒り、八ヶ岳を蹴飛ばしたので、山頂が吹っ飛んだという説もある。いずれにしろ八ヶ岳はこの争いのあと爆発して八つの頂になったらしい。
八ヶ岳が有史以来噴火したなどと言うのは聞いたことがないので、この民話はおそらく何千年も昔の八ヶ岳の噴火のことを言っているのだろうと思われる。何千年も昔には、この信州の地域には、縄文人が住んでいたはずだから、その時の言葉がそのまま地名に残ったと考えてよい。従って、アサマ山も、富士山の古名のフチの山も間違いなく、縄文語であろう。カムイフチは火の神様というアイヌ語である。富士山が噴火していた様子を表した名前に違いないと思う。戦前、アイヌ語研究の大御所、金田一京助氏が、この巷間の説を強く否定してしまったため、省みられていないが、この民話および下に述べるおもしろい事実から、フチの山もアサマ山もアイヌ語系の地名だと強く示唆される。

信濃の意味
話は変わるが、信濃という意味も日本語で分かるであろうか。シナノの漢字表記は信濃のほか科野などがある。従って、いわゆる音を写した当て字である。高校の古典で更級(さらしな)日記というのを習ったことがある。信州に来ると他府県にはないシナのつく地名がやたらと多いのにびっくりさせられる。更科(さらしな)郡、埴科(はにしな)郡、立科町、蓼科高原、明科、浅科、神科などなど沢山ある。シナはアイヌ語ではなく朝鮮語系の言葉である。シナというのは朝鮮語で旗を立てて許可なく入るべからずという土地を意味しているそうだ。従って、蓼の多い土地に旗を立てて、ここは我々のものと宣言したところは、蓼科。新たに土地(さらち)を領有したところは更科と命名する。また、野と原は意味が違う。富士の裾野というが裾原とは言わない。なぜか。それは、野は傾斜地の原っぱ、原は水平な地の原っぱをいうからである。従って、シナノというのは、旗を立て我々が領有宣言した傾斜地、つまり、早い話が植民地である。シナノは「植民地」という意味だというと、信州の人が怒り出すかも知れないが、次のような興味深い万葉歌が残っていることが、信州上田市にある信濃国分寺資料館内の掲示からわかる。
「信濃道(しなのじ)は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に、足踏ましむな履(くつ)はけわが夫(せ)」
信州は新しく開拓したところで、道も険しく整っていないので、京から赴任する夫よ、刈り株を踏まないよう、靴を履いて無事に行って下さい、という意味である。墾(はり)については愛媛県に今治(いまばり)、茨城県に新治(にいはり)郡というのがあるが、正に新たに開拓領有して治めたこほり(郡)である。上の万葉歌を見れば、信濃が新たに開拓領有された土地であることは疑う余地がない。
信濃と名付けられる以前に住んでいた人々は、アイヌ語系の縄文人でそこへ朝鮮語系などの弥生人がやってきたのが、他の西日本よりはかなり遅かったのだろう。山が険しくてなかなか入り込めなかったものと思われる。

秋山郷の方言
信州の地勢はヨーロッパにおけるスイスと同じである。スイスは山が険しくて、周辺の言語がはい上ってきて定着したので、今もドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つが国語として憲法に定められている。ロマンシュ語は5万人にしか話してはいないらしく、古代ヨーロッパの言葉が化石のように残ったらしい。現在の信州の方言も実は周辺からはい上ってきて定着したため大きく4つに分かれている。特に秋山郷の方言は、室町以前の母音が8つの時代の日本語で、日本のロマンシュ語である。今も母音の「お」に二つあり、これを区別して発音するという。万葉仮名の時代は8母音であったことを橋本博士が戦前発見されたというが、これが現在も残っているというから正に化石のような方言である。弥生人が入り込んできた後はこのように朝鮮語系らしい弥生語は4つの方言に分かれて残ったのだろう。それまでの縄文語はおもに地名にしか残らなかったようだ。しかし、不思議なのはアイヌ語は今の日本語と同じあいうえおの5母音である。8母音の弥生語や朝鮮語の10母音のような言語が入ってきても、大多数の人は縄文語の5母音しか発音できず、これがそのまま現在の日本語になったのではないかと思う。従って、現在の日本語は、朝鮮語系の弥生語とアイヌ語系の縄文語の混血語であると思われる。

善光寺と諏訪大社
ここにとてもおもしろい事実がある。善光寺は、日本の仏教の宗派が生まれるずっと以前に建てられたので、無宗派でいずれの宗派、あるいはいずれの宗教の人も皆ウエルカムだと言われている。善光寺大本願前の句碑に、「月影や四門四宗も只一つ」(芭蕉)とあることからも万人を受け容れることがよくわかる。だから私はよく外人を連れていく。この善光寺は百済系の人々が建てたといわれており、百済が滅亡するまでは、ここの人々は本国へ子弟を留学させていたと聞く。
しかし、これよりもずっと以前に出雲から、諏訪地方に移住してきた人々がいるのだという。大和朝廷に出雲の国は滅ぼされてしまった。出雲神話では大国主命(おおくにぬしのみこと)が国引きをして国を作ったという。そして、出雲大社は大国主命がまつられている。信州の諏訪大社は、大国主命の息子の建御名方命(たけみなかたのみこと)がまつられていて、出雲大社とは親子関係にあるのだそうだ。毎年10月には、出雲で開かれる寄合に神様全員出席されるので、全国的には10月は神無月だが、出雲だけは神有月といわれる。弥生人系の大和朝廷に追われて、縄文系の出雲人が諏訪地方まで逃げてきたというのが真相なのだろう。縄文系の人が、逃げてきて落ち着く先は未だ縄文系の人々が暮らしているところだっただろう。そうでないと落ち着けないはずだ。タケミナカタの時代には、西日本のほとんどは弥生人系に支配される状況だったのだろうが、ここ信州だけが浮島のように縄文系支配地として残っていたと想像される。これが、だいたい2200年から1800年くらい前のことであろう。しかし、その後ついには、シナがいっぱい作られ最終的には、シナノの国として大和朝廷に組み入れられたのだと思う。
なお、諏訪大社の神主の家系の守矢(もりや)家は、タケミナカタの時代よりもさらに以前から住んでいた原住民の家系らしく、縄文時代からのものすごく古い家系だと聞いた。守矢家の先祖はタケミナカタの祭事を担当することでタケミナカタ勢力と融和していったのだろうと思われる。そして今も続く諏訪大社の、天下の奇祭、御柱(おんばしら)祭は縄文時代からの伝統を表しているのだろう。また、興味深いのは、最近、諏訪大社と親戚の出雲大社の境内の地下から巨大な御柱(みはしら)が発掘された。この大発見により、太古の昔、16丈(1丈=10尺=3m)もの高さの社(やしろ)を建築していたのが、本当だったことが判明したと報じられたのは記憶に新しい。縄文人は巨大な柱に大きな意味を見ていたに違いないと思う。

信州人の顔
私が信州大学に赴任してはや20年近くなる。信州出身の同僚や職員、学生を見ていると顔に大変大きな共通した特徴があることに気づく。皆、顎が大きく、いわゆる、えらが張っている。京都を中心とする西日本の人たちは顔が細長く、信州人のようにはえらが張っていない。長い間どうしてだろうと思っていた。
ある時テレビを見ていたら、縄文人と弥生人の頭骨から生前の顔を復元して比較していた。その復元された縄文人の顔が、私の同僚の藤本哲也先生にそっくりなことに驚いてしまった。彼は生粋の信州人で、長野高校の出身である。同じ長野高校出身で現在東大教授をしている坂村健先生がいるが、日本独自のコンピューターOSTRON」の提唱者として有名な人である。この坂村先生、同僚の藤本先生、復元縄文人の3人の顔がそっくりなのには驚く。信州人の顔は縄文人の顔である。

平尾農協の桃
私の女子大学院生の森泉(もりずみ)さんも、えらが張った典型的な信州人の顔である。森泉さんの祖先は、森泉境と呼ばれるところに住んでいたと聞いた。非常に古い家系であるらしい。森泉境は佐久地方、軽井沢の近くにあり、崖の大変多いところである。「先生、このうちで採れた桃食べて下さい。」
と森泉さんが、箱に20個ほどきれいに並べられた桃を研究室に持って来てくれた。その箱には、佐久・平尾農協と書かれてあった。
「森泉さん、君の家は平尾地区にあるのか?ひょっとして、崖が近くにあってその終わりの方じゃないのかい?」
「そのとおりですけど、先生どうしてそんなことがわかるんですか?」
「アイヌ語でピラは崖で、オはお尻という意味だからだよ。」
私は森泉さんが、研究室に持って来てくれた桃を、早速、賞味させてもらった。桃を食べながら、遙かな古代に信濃のこの土地に、えらの張った顔をしてアイヌ語に似た縄文語を話していた、森泉さんや藤本先生、坂村先生達の先祖が、蟠踞、活躍していた頃を想像していた。信州はアイヌ語系の縄文人が沢山いたところへ、朝鮮語系の弥生人がつぎつぎと入ってきて成立したのだと、信州人になりつつある私は思うのであった。


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