東日本大震災に被災した本学大学院生K野さんへ義捐金を拠出された皆様へ

2011年5月11日
信州大学繊維学部
機能高分子学科長
太田和親

 325日の夕方、岩手県大船渡市の出身のM1KM子さんに、皆様からお預かりしました義援金を私の部屋で手渡しました。そして、当座の生活資金にしてくださいと伝えました。もしもご両親に何かあっても、本学が何とかバックアップするから心配しないようにとも伝えました。そのあと、3時間にわたり、K野さんから今度の東日本大震災に被災した詳細な実家の状況を聞きました。以下、皆様も、大変ご心配のことと思いますので、K野さんから聞きました概要を皆様にお伝えします。

 311日に大地震と大津波が起こった後、4日間、大船渡の実家のご両親と連絡が取れず心配で心配で毎日泣いていたそうです。実家は海のすぐそばだったそうです。4日後におじさんからようやく電話があり、K野さんのご両親と弟は大津波で家が流されながらも九死に一生を得て生き残り、避難所にいることがわかりました。そして最近、携帯電話が通じるようになると、大変悲しい知らせが入るようになりました。多くの親しい地元の友人が亡くなり、いまだに遺体が見つからない友人も多数いることもわかりました。遺体が見つかった友人は二人だけ。明日はその一人の火葬ですが、交通機関が止まっているので行こうにも行けないのですと、涙ながらに語るK野さんの話に、私も胸をえぐられる思いがして涙が流れました。その時、私は以前読んだ遠野物語に、明治三陸地震の大津波の悲しい話が載っていることを思い出して、K野さんに話しました。その話にK野さんは涙を流しました。その話を下に載せました。今も昔も、親しい人々を亡くした人の思いは悲痛です。

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明治三陸地震。

1986年(明治29年)615日午後73230秒に、岩手県上閉伊郡釜石町東方沖 20キロで、M8.28.5の地震が発生した。その後の津波で、21,915名の死者を出した。その時の胸を打つ悲しい話が遠野物語に伝わっている。

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柳田国男 (遠野物語 99話)

 土淵村の助役北川清と云ふ人の家は字火石にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村のために尽くしたる人なり。 清の弟に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。

 夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思はずその跡をつけて、はるばると船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。

 男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互ひに深く心を通はせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありといふに、子供は可愛くはないのかといへば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。

 追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。その後久しく煩ひたりといへり。

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