ユダヤ人の墓の上の小石と日本の鳥居の上の小石
信州上田之住人
太田 和親
2010年8月2-3日随筆
皆さんの中で、どなたかユダヤ人の墓の上の小石と日本の鳥居の上の小石の関係について御存知の方があったら教えて欲しい。このことは2010年7月にポーランドクラクフでの経験と、2000年7月の日本の長野市松代地区での経験からの質問である。妙な取り合わせの質問のようなので下に詳しく説明する。
ユダヤ人の墓の上の小石
私は今年2010年7月にポーランドのクラクフ市で開かれた国際液晶学会に参加した。その3日目の7月14日午後、学会主催のエクスカーションというまあ遠足みないな行事に参加した。世界遺産のクラクフ市の市内観光を、旧市街の南の端から中心の広場まで、英語のガイドに従って約4時間歩きながら見て回るというものである。集合場所の学会会場のヤギロニアン大学講堂前から、旧市街の南の端でまずバスで行って、30人位ずつに分かれて数グループになった。グループ毎に英語のガイドがついた。私のグループには、金髪で年が25歳くらいの若いポーランド人女性のガイドが付いた。彼女に従い、英語の説明を聞きながら、歩いて市内観光をした。
しかし、その日のクラクフ市は異常に暑い日で、35度にも最高気温が達し、参加者は皆、事前の忠告に従って、水の入ったペットボトルを携え、ほとんどの人が帽子とサングラスをかけていた。最初30人あまりの参加者が私のグループにはいたが、このエクスカーションでは、あまりの猛暑の中かんかん照りの戸外をずっと歩いていたので、途中どんどん人がいなくなり、4時間後の最後の目的地までたどり着いたときは、約半分の15人足らずまで減っていた。次の日、イタリアボローニャ大学のザンゾニ教授に会ったので、「最初、いたのにいなくなったね!」と言ったら、笑いながら、「いやあ、暑くて暑くてじっとガイドの長い長い説明を聞いていられなかった。途中でビールを飲みにカフェに入った。」とのことだった。確かにやたらに暑かった。ヨーロッパってこんなに暑かったっけと思った。今年は日本もヨーロッパも北半球はどこも異常に暑かった。
さて話をもとに戻すと、このエクスカーションでは、最初、クラクフ旧市街の南端にあるカジミエジェ(Kazimierz)地区の端っこから、ガイドが説明を始めた。
「ここは、古くからヨーロッパ最大のユダヤ人居住地です。14世紀、ポーランドの王様は、このカジミエジェ地区にユダヤ人の居住を許し、保護を加えたため、ヨーロッパ中からユダヤ人が集まり、ヨーロッパ最大の居住地となりました。第2次世界大戦前には6万5千人のユダヤ人が住んでいました。ナチが占領する前までの何世紀もの間、平和裏に暮らしていました。」
「さて、次に向かうのは、ヨーロッパ最古のシナゴーグです。それでは皆さん参りましょう。」
と言って、ガイドは歩き始めた。
「ジェリー!シナゴーグってどういう意味?」
と私は前を歩いている旧知のアメリカハーベイ・マッド大学のファン・ヘッケ教授に、後ろから小走りで追いかけながら訪ねた。彼は振り向きながら、
「ユダヤ教のテンプル・お寺という意味だ。」
と教えてくれた。
カジミエジェ地区の中心の小さな広場に着き、広場の真ん中にあるごく小さな緑地に建つ高さ120センチくらいの石碑の前で、またガイドの説明を聞いた。
「第2次世界大戦の時、ドイツのナチがこの町を占領し、ここに住んでいたユダヤ人はAとBに分類されました。Aは若くて働けるもの、Bは老人や子供などで働けないもの。Bに分類された人々はアウシュビッツなどの収容所に送られガス室で殺されました。Aに分類された人々も過酷な強制労働に従事させられ、戦後生き延びた人はわずか5%だけでした。95%の人々がナチによって民族抹殺されました。いわゆるホローコーストです。この石碑はその亡くなった住民の慰霊碑です。」
私は、この説明を聞いていて涙が込み上げてきた。慰霊碑を見ると、なぜかこの慰霊碑のてっぺんには沢山小石が載せてあった。
「皆さん、有名なスティーヴン・スピルバーグ監督のアメリカ映画『シンドラーのリスト』を御存知だと思いますが、シンドラーは、ここでユダヤ人の命を出来るだけ助けるため、ここから200メートルくらい離れた所にパン工場を造り、ここにできる限りのユダヤ人が勤められるようにして、ナチの虐殺から人々を守りました。興味のある方は、そのパン工場が残っていますから、あとで別に訪問してみて下さい。」
そのあと、ガイドの女性は広場の西脇にある古い建物を指さして言った。
「今から、ヨーロッパ最古のシナゴーグにはいりますが、ユダヤ教の習慣のため男性は全員玄関の所で、頭に丸い布きれの帽子キッパをかぶって下さい。かぶらない人は入ることは出来ません。」
これは、ユダヤ教に敬意を払うという意味であろう。このシナゴーグはそれほどの大きさはないが、皆、木の椅子に座って説明を受けた。ここを出て、次にこのシナゴーグのすぐ横にあるユダヤ人墓地に移動した。そこに入るにもこの丸い布きれの帽子は頭に載せていなければいけないということだった。
ユダヤ人墓地は、ほとんどナチに破壊されたのだが、ここの中の一部だけは研究のために昔の姿のままナチによって残されたそうだ。戦後、破壊された墓石なども、元通り修復されたという。不思議なことに、墓石の上には、皆、一様に沢山の小石が載せられていた。ガイドの説明によると、小石を載せるのは「永遠」を意味しているということだった。でも、私はこの小石は「天国への手紙」だとある人から以前聞かされていた。
日本の鳥居の上の小石
それはドイツ人の教授から聞いた興味深い話である。今から丁度十年前の西暦2000年7月に、ドイツベルリン工科大学のプレフケ教授が、日本で開かれた国際液晶学会のついでに、私の勤務先の長野県上田市にある信州大学を訪問した。プレフケ教授には信州大学で講演をしてもらった。講演のあと、せっかくだから、上田市と長野市を車で案内した。長野市松代地区の武家屋敷群を案内していて、真田邸内にある小さな神社の鳥居の上に、沢山小石が載っているのをプレフケ教授は見つけて私に尋ねた。
「あの小石にはどういう意味があるのか。」
鳥居の上に小石が載っている風景は、よくある風景で、珍しいことではない。私はそれまで特別意識したこともなかった。確かに、私も出身地の香川県で、子供の頃友達と面白がって、小石を鳥居の上へ放り上げて載せあったのを覚えている。それでそれまで単なる子供の遊びくらいにしか思っていなかった。しかし、香川県から遠く離れた長野県でも鳥居の上に沢山小石が載っている。子供の遊びがここまで伝わりそうもなく、何か本当は、民俗学的な意味があるのだろうと思うに至った。この時、プレフケ教授は、ヨーロッパにも同じ風習があり、日本にも同じことが行われていることに驚いたという。プレフケ教授によると、小石は「天国への手紙」だという。化学ばかりではなく歴史や文化にも造詣が深いプレフケ教授から、鳥居の上の小石は「天国への手紙」という素晴らしい説明を受けて、私は非常に納得した。
ユダヤ人の墓の上の小石と日本の鳥居の上の小石の関係
だから、ここクラクフのユダヤ人墓地の墓石の上の小石や、さっきの中央広場の慰霊碑の上の小石は、皆、生きている人々から天国にいる死者へ思いを届ける手紙なのだと考えると、ガイドのいう「永遠」を意味するというより納得が数倍いく。そこで、ガイドに、
「日本にも同じ風習がある。小石は『天国への手紙』を意味しているようだ。」
と言ったら、
「それは非常にインタレスティングですね。」
という返答だった。
どなたか、本当の所、どうしてユダヤ人はお墓の上に小石を載せるのか、なぜ日本人は鳥居の上に小石を載せるのか、両者は遠く離れているのになぜこのように類似した風習が伝わっているのか、両者に何か関係があるのか、詳しいことを知っている人がいたら、是非教えて欲しい。
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