日本の法隆寺金堂の壁画はどのようにインドから伝わったのか
平成31年(2019年)3月22日
信州上田之住人和親
私のインド学への先生である上田市内にあるH電機のN山さんから、2019/3/16付の電子メールで、大変興味深い、疑問が提案されました。
(疑問) インドのアジャンタ石窟寺院の壁画で有名な蓮華手菩薩が、日本の法隆寺金堂に描かれていた菩薩像のルーツと言うのは、ほぼ日本の宗教界の定説になっていますが、それでは、この絵は誰がどのような経路で、インドから日本に伝承したのでしょうか?
N山さんは、「私が現在考えているアジャンタの蓮華手菩薩の日本渡来の経緯は以下の通りです:ナーガルジュナ(龍樹)→クマラジーバ(鳩摩羅什)→慧慈or曇徴(聖徳太子の師)」とされ、その論拠をそのあとに詳しく書かれていました。
私も、N山さんのこのメールに刺激され、インドのアジャンタの壁画が、日本の法隆寺金堂の壁画として、どのように伝わったのかという大変興味深い疑問を、考えてみました。
私は、次のような根拠で、年代的にもっと狭い期間に伝わったと、考えました。
(1)アジャンタの石窟群は前期(紀元前1世紀から紀元後2世紀)と後期(5世紀後半から6世紀ごろ)に分かれており、アジャンタの石窟第一窟寺院の壁画は、後期に属する。
(2)法隆寺は607年に創建されているが670年に一度火事にあい693年ごろに再建された可能性が大きい。金堂の壁画は7世紀最末期から8世紀のごく初期に書かれたと考えられる。
(3)玄奘三蔵(602-664)は、インド全土を回り、アジャンタにも行っている。
参照:前島信次著「玄奘三蔵」岩波新書(1952)、191-192ページの地図
(4)玄奘三蔵が、中国に帰国後、日本人の愛弟子道昭(629-700)が直接玄奘三蔵から学んでいる。同期の留学僧の定恵(643-666)は、玄奘の弟子の神泰の弟子。玄奘はインドから多量の文献資料を持って唐に帰国している。そこで、この道昭と定恵が、日本に帰国の際に、その文献と資料の写しを持って帰ったと考えられる。彼らが帰国した後の時期が、丁度法隆寺の壁画が描かれた時期と一致する。
N山さんの「龍樹―鳩摩羅什―曇徴」説の難点
(1)龍樹はAC150-250年ころに人。空理論、大乗仏教を創設した南インド出身の人。この人の生きた時代にはまだアジャンタの第1窟の壁画はない。
(2)鳩摩羅什は、AC344-413年ころに人。龍樹の仏教理論を漢訳した人。この人の生きた時代にはまだアジャンタの第1窟の壁画はない。
(3)曇徴は、AC643-666頃の百済出身の僧で、飛鳥寺の初代住職。法隆寺金堂の壁画を伝えたという説を支持する資料は一切なく、韓国の一方的な俗説といわれている。
(4)龍樹―鳩摩羅什―曇徴は、約800年もの広い年代に跨っており、図面を直接伝えることは不可能である。
私は、以上のように考えて、玄奘三蔵―道昭が、アジャンタの蓮華手菩薩の図面を伝えたのではないかと推察しました。このN山さんからメールを頂いた2日後の3/20に、N山さんと直接お会いして、この私の説を述べたところ、私の説の方が可能性が高いので、賛成しますとのことでした。
さて、皆さんは法隆寺金堂の壁画はどのようにインドから伝わったと考えられるでしょうか。