フランス語の勉強再開:31年ぶりにフランス語をまた習っている

2018年613日 随筆
信州上田之住人和親

私は1986年から1987年にかけて1年間、パリに留学していた。CNRSといって国立科学研究所の職員に1年間採用されて、液晶の研究をしていた。そのころヨーロッパにはポスドクの制度がなかったので、CNRS職員として雇用されて、物理と化学の研究でフランスでトップレベルのグランゼコールESPCIで研究をしていた。教員も学生も極めて優秀で、グランゼコールの中は英語で充分であったが、町に出ると、フランス人はほとんど英語を喋らないので、買い物などの日常生活に大変往生した。そのため、サバイバルのため、夜、私のアパルトマン近くの個人教授にフランス語を習いに行った。7カ月間、必死で習ったら、何とか読んだり書いたりまがりなりにもできるようになり日常生活はなんとかなるようになった。しかし、昼間の実験研究が非常に忙しくなって、体が持たなくなって途中でやめた。もう1年留学していたら、しゃべれるようにもなっていただろうと、残念だった。

 あらから31年もたち、上田の信州大学に勤めている間に、フランス語はすっかり忘れてしまった。自分の中に、フランス語が定着するまでに日本に帰国してしまったからだろう。英語は毎日使っていて、論文もすべて英語で書いているから、忘れない。しかし、フランス語は、あんなに必死になって単語を2500語も覚えたり動詞の活用形を暗唱したりしていたのに、全く使わない言葉はほんとうに忘れてしまうのだ。上田では30年前にはフランス語を教えてくれるところは、大学も含めて皆無だった。しかし、世の中は変わるもので、信州大学も、国際化が叫ばれ、最近は、海外の大学との留学生交換に熱心で、海外提携が非常に増えた。その中に、フランスの繊維科学技術系グランゼコールと信州大学繊維学部との提携が10年ほど前から始まった。交換留学提携先のフランスENSAITから、学生がこちらには来るのだが、こちらからフランスに行く学生が出てこない。なぜなら英語ができてもフランス語ができないので希望者がいないのだ。そこで、大学は、フランス語の先生を呼んで来て、繊維学部でフランス語を教えるようになった。パリの国連機関などに13年間勤めておられた方が、教えてくれるようになった。このような大変立派な方が、退職後、上田の近くのお住まいだったのは、繊維学部としても大変ラッキーだった。学部長も大変喜んでいた。それからは1年か2年に一人はフランスに留学するようになった。このフランス語講座のおかげである。これは、本来の目的からして留学生希望の大学院生用の講座だったが、私にも実に魅力的だった。31年前にもこのようなフランス語講座が繊維学部にあったらなあと思った。しかし、是非参加したかったが、今年3月末の定年までの在職中は、図書館長や就職委員長など多くの役職で多忙を極め、このフランス語講座には残念ながら参加できなかった。今年3月、無事定年退職したので、フランス語の先生にお許しを頂いて、5月から末席に加えてもらうこととなった。



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