20世紀の記録として残しておきたいこと

信州上田之住人
 
太田 和親
20001210-12日随筆
2001418日加筆
2001年4月27-29日加筆
2001614日加筆
2003426-30日追記と修正
2003612-13日修正
2003年8月11-16日最終修正

はじめに
  20世紀の記録として是非、残しておきたいことがあります。それは私の父、太田康雄(戸籍上は安雄)のことです。私の父は、(西暦2000年)現在84歳になり郷里の香川県で住んでいます。大正5年(1916年)914日生まれです。もう余命幾ばくもなく、父が生きている間に是非次のことを皆さんに記録として残しておきたいと思い、この小文を書いています。

父とバレーボール
父の甲子園
  父は、甲子園で優勝した選手です。皆さんは、甲子園というと高校野球、あるいは古くは中等学校における野球の甲子園のことと思うでしょう。しかし、甲子園が始まった頃は、野球だけではなく、庭球や排球、籠球なども甲子園の試合として競技されていました。いつ頃、野球だけになったのかよくわかりませんが、今から70年ほど前の昭和6年の夏(1931年)、父はこの甲子園の排球、つまりバレーボールで全国優勝した選手なのです。当時の甲子園には、野球場の裏にテニスコートがたくさんあって、それをバレーボールコートとして利用して試合をしていたそうです。その甲子園で勝ち残り、最後の優勝戦は、当時の神戸一中(現在の神戸高校)を下して優勝したそうです。

県内予選と大松博文さん
  父はこの甲子園の全国大会の方が、県内予選よりずっと楽だったといいました。香川県内の試合は強豪揃いで苦しく、優勝戦では、大松さんが選手をしていた宇多津高等小学校と当たったそうです。そして宇多津高等小学校を下して甲子園へ行ったわけです。大松さんは、後に日紡貝塚のバレー部の監督をして、東京オリンピックで日本女子バレーを金メダルに導いた、あの有名な大松博文さんです。大松さんのいる宇多津高等小学校を下したのは香川県三豊郡一の谷村の一の谷高等小学校(現:観音寺市立一の谷小学校)のメンバーです。戦前の中等学校には、旧制の中学校もこのような高等小学校も含まれていたのですね。若い方には高等小学校というのがわからないと思いますので、説明しますが、戦前は6年間の義務教育の尋常小学校の上に、義務教育ではない5年制の中学校と2年制の高等小学校(または小学校高等科という)、さらに商業学校などの職業学校が並立していました。従って、甲子園はこれら年齢を同じくする全ての生徒を対象にしていたので中等学校全国大会と言ったものと思われます。従って、中等学校イコール旧制中学だけではありません。

バレーボールが盛んだった香川県
  今から30年ほど前、まだ私が高校生の頃(1970年頃)、観音寺市本大町にある川鶴酒造の川人(かわんど)一郎社長さんが、このままでは一の谷高等小学校が甲子園で優勝したことが忘却されてしまうのではないかと、当時の選手の方々を集めて宴会を行ったのを記憶しています。そして父がそれに呼ばれて出席したのを覚えています。当時、父は50代半ばでした。また、父の話では、バレーボール部の練習は非常に厳しく、ぶっ倒れるまで運動場で裸足でやったそうです。夏休みを利用して教えに来てくれたのは香川師範学校在学中の若い香川茂、荻田龍男、橋本さんたちだと言うことでした。香川茂先生は、のちに息子の私が中学生の時には、私の中学校(正式名は全国一長くて、香川県三豊郡山本町観音寺市学校組合立三豊中学校)の校長先生をしていました。大変立派な名校長でした。職員対抗のバレーボールの試合に出てサーブを打っていたのを覚えています。しかし、だいぶ前にもうなくなられたと聞きました。なお、母方の叔父の話では、昔は、三豊郡や観音寺市の地方でバレーボールが出来る人は高学歴の人と同意語であったと言うことです。ほとんどの国民が尋常小学校しか行かなかった時代の話です。

父の中国語と満州国歌
 満州国歌を中国語で歌える最後の日本人
  父は、満州国歌を中国語で歌える最後の日本人だと思います。それで、どうしてもこのことも皆さんに知ってもらいたくて書いておきたいと思います。
  満州国家は、昭和7年つまり西暦で1932年に建国され、昭和20年・西暦1945年に滅亡しました。1932915日日満議定書が調印された時を以て満州建国とされています。19341月に溥儀が皇帝に即位しその年に満州国独自の元号が定められました。満州国の元号は康徳と言います。康徳は元年から12年まで続きました。康徳12年・西暦19458月に満州帝国は滅亡しました。滅亡して今年ですでに55年になり、その国歌を中国語で歌える人はもう父をおいて他に日本にいないのではないかと思います。何故かと言えば、多くの日本人が戦前満州に住んではいましたが、植民地特有の意識として地元の言葉を習得するよりも日本語を押しつける方が勝っていましたので、中国語を当時しゃべれる日本人はほとんどいませんでした。また、今年(西暦2000年)、父が84歳の高齢になり余命幾ばくもありませんので、20世紀の記録として、満州国歌を映像と音声にしてなんとか残しておかねばならないと私は常々考えていました。しかし、息子の私は郷里香川県を遠く離れて長野県に住んでおり、父とは滅多に会えません。幸運にも200010月に郷里近くに出張の機会があって、その帰りに実家を訪ねて、満州国家を独唱する父をビデオに撮ってきました。また20013月にも出張の機会があって、このときは歌詞楽譜のコピーももらってきました。

満州国歌の歌詞
  父が中国語で歌った満州国歌の歌詞[1]は次のようなものでした。

  天地内有了 新満州新満州
  便是新天地 頂天立地
  無苦無憂  造成我国家
  只有友愛  並無怨仇
  人民参千萬 人民参千萬
  縦加拾倍  也得自由
  重仁義   尚禮譲
  使我身修  家己齋
  国己治   此外何求
  近之則興  世界同化
  遠之則興  天地同流

満州で外交官を目指し中国語を猛勉強
  父は、昭和9年(康徳元年)17歳の時長兄とともに満州に渡りました。父の一番上の兄、太田竹市は明治34年(1901年)生まれで父よりも15歳も上で、当時香川県丸亀市の市会議員をやっていました。長兄は香川県下で最年少の市会議員でした。そして、香川県の視察団として満州を視察した後、これからは満州だと言うことで、昭和9年に末の弟の父を誘って、満州に渡って事業を始めました。長兄は岩田公六郎氏と一緒に、日本から満州国首都の新京市(現在の長春市)へ大勢赴任してくる官吏の生活を支援する組織の満州国官吏消費組合を設立し、この組合の中に満州白洋舎も併設しました。ちなみに、この満州白洋舎のクリーニングで外渉をしていた父のお得意さんには、後の日本国総理大臣の岸信介氏や、後の日本国農林大臣の根本龍太郎氏、後のNHK会長の前田義徳氏、当時の満州国国務総理の張景恵氏などがいたそうです。父は長兄を手伝いながら、最初、満州新京市で外交官になろうと思い、中国語を一生懸命勉強したそうです。父の中国語は中国人も本当の中国人と間違うほど上手であったそうです。現地で徴兵されたとき、毎晩将校に呼ばれて中国語の教師をしました。それで、将校と同じ豪華な夕食を食べられたそうで、大変優遇されたとのことです。

会社経営へ転身
  長兄が昭和12年(康徳4年)にハルビンの官吏消費組合の支店長として赴任するのに伴い、父もハルビンに転居します。父はその中国語を生かし、中国語のできない長兄に代わり大いに商談をまとめたそうです。昭和14年(康徳6年)には、長兄と父はさらに牡丹江市へ転居して大東商会(牡丹江省牡丹江市西聖林街11-7 電話3555番)という自らの会社を設立しました。大東商会では、軍から依頼されて大量の建築用煉瓦を焼成して納入していました。中国の北方地方では赤煉瓦(磚:ゾワン=煉瓦)が主な建材だったからです。大きな丸窯(馬蹄窯:マテイヤオ)で一度に十万個もの赤煉瓦を作っていたそうです。1その時長兄は、満州国香川県人会の会長も務めていました。

新規事業に乗りだし独立
  昭和17年(康徳9年)には、父も独立して会社を牡丹江市で興し、中国人の張魁元さんと砲台用の荷車を製造する三明鉄工所という会社(牡丹江市新立屯街16-1 自宅兼用で玄関に「牡丹江荷車製造組合 電話5767番」の看板を掲げていた)を経営していました。日本で作った軍用車両は車輪の幅が狭く満州の地では解氷期には泥に埋まってしまい使いものにならなかったそうです。そこで、父の会社では轍(わだち)が日本の3倍のものを作りそれに鉄の輪をつけて、満州用の車両を製造し、関東軍や農産公社、満鉄に納めていたと言うことです。この製造に必要な製鉄用の1/8屯(トン)のエアーハンマーの設計図を、大阪在住で鉄鋼会社を営んでいた次兄の太田繁数より送ってもらい、これを満州のハルビンでつくらせて鉄の輪やシャフトを製造していました。中国人労働者を600人ほど使っていました。父の在外資産は、当時香川県出身者で大変多い方だったと聞いています。また、近くにあった秋田県からの開拓団の小学校にピアノを贈ったりしました。2中国人にも信頼あつく、日本軍からも大事にされていたそうです。
  なお、共同経営者の中国人の張魁元さんは、もし今生きていても100歳くらいにはなるので、おそらくもう生きてないと思われます。父は生きているうちに彼にもう一度会いたかったが、もう自分も高齢で中国には行けないので、もし彼が生きていても無理だと言っています。彼には当時15歳と12歳くらいの息子が2人いたので、もし私が中国に行ったら訪ねてくれといわれています。二人の息子の名は、張茂盛(ムーション:兄)、福盛(フーション:弟)といったそうです。

父と将軍との出会い
  同じ香川県三豊郡上高野村の出身の斎藤弥兵太中将は、父の長兄竹市と本山高等小学校で同級生だったそうで、この斎藤中将に満州でお会いしたとき、同席されていた山下奉文中将と山田乙三(おとぞう)少将に、「この太田君は大変満人に信用されている。」と紹介していただいたそうです。山下奉文中将は、後にシンガポールを陥落させて、敵の英国将軍パーシバルにYesNoかと迫り、マレーの虎と言われた、あの山下奉文大将のことです。山田乙三少将は、後に関東軍司令長官になられた方です。また、父は、憲兵に引っ張られ拷問を受けていた無実の中国人を、私が保証するからと何人も助けたりしたそうです。それで、当時、牡丹江やハルビン、新京、奉天、吉林など多くの都市で太田康雄(タイテン カンシュン)という名前は多くの中国人に知られていたと聞きました。

中国人の村長さんからプロポーズ
ソ満国境近くの中国の二人班村という所に、600人の中国人労働者用の食料の小麦粉を買い付けに行ったときには、村長に、「あなたの中国語はとてもきれいだ。それも正式な北京官話で、日本人とは絶対わからない。あなたは独身か。独身なら、うちの娘をもらってやってくれ。」と言われたとのことです。当時の大阪外大や東京外大を出た人でも、現地で習った父とは違って、父のようにはしゃべれなかったそうです。それで、軍に頼まれて情報を収集してあげていました。

郷里の同級生と結婚
  昭和14年(康徳6年)、父は、24歳の誕生日914日に、牡丹江市の旧駅舎の前にあった日本式の仮設牡丹江神社で、郷里の小学校の同級生の高嶋キクと結婚式を挙げました。父の母マサが郷里から3日がかりで汽車に乗って花嫁を連れてきたそうです。翌年の昭和15年(康徳7年)717日長男正剛(まさたけ)が生まれました。父も長兄の竹市も男の子が生まれて大喜びました。父は当時政治理念などに感銘を受けていた政治家の中野正剛(せいごう)氏にちなんで、この名前を付けたとのことです。しかし、母は産後の肥立ちが悪くまた幼い正剛が肺炎になりかけるなどしたため、医者の勧めもあって、酷寒の満州の冬を避け、その年の11月から翌年の昭和16年(康徳8年)9月まで実家の香川県三豊郡一の谷村で長期間養病しました。母が回復して帰満した翌年の昭和17年(康徳9年)父は、牡丹江市西区新立屯街16番地1号(別表記法では西三条路16番地1号)の中国人居住地の旧市街に新居を建てて引越しました。その時長兄の経営する大東商会から独立し、中国人の張魁元さんと一緒に、砲台用の荷車を製造する三明鉄工所という会社を設立して共同経営に乗りだしました。昔流に言うと分家したことになります。自宅兼事務所には「牡丹江荷車製造組合 電話5767番」の看板を掲げ、工場は別の場所に建設しました。新規事業立ち上げのため、父は大変忙しく東奔西走して出張が多かったと言います。父がハルビンへ出張中の830日に事故が起きました。2歳になったばかりの長男と二人で留守を守っていた母は失神し、男の子を死産してしまいました。母も危ない所でした。いたましい出来事でした。外国で妊娠中に夫が出張でいないということくらい、言葉の不自由な妻にとって大きな不安はないものです。新しい家は中国人街にあり、周りに日本人は殆ど住んでいなかったそうです。母は寸での所で命拾いをしました。父は母を、朋友だった名漢方医の籍俊伍(チェシュンウー)太夫(=お医者さんの敬語)に見てもらい、数ヶ月して良くなりました。また父は母が良くなる迄女中さんを雇いました。翌年の昭和18年(康徳10年)917日には次男の義徳(よしのり)が誕生しました。父は、死んだも同然だった母が命拾いして、その上わずか一年後にまた子供が授かったので非常に喜びました。さらに二年後の昭和20年(康徳12年)320日には長女の治世(はるよ)が生まれました。

交通事故による脳膜炎
  長女が生まれて間もない昭和20年4月25日に、父は自動車事故にあい脳膜炎になってしまいました。父が乗った車に、憲兵隊の車が後ろから追突し、父は頭を強く打ちました。真っ青な顔をして自宅に帰った後、意識朦朧となり寝込んでしまいました。それで、憲兵隊が自宅まで謝りに来たそうです。父はそれから三日位したら、少し良く成ったので風呂に入りました。そしたら急に今度は意識不明となってしまいました。脳内出血したのだろうと思われます。太平路の光脳病院の往診を受け治療しました。母は入院を望んだのですが、死人ばかり出る病院と噂されるのを病院が嫌がり入院させてもらえなかったと言う事です。もう死ぬと思われていたに違い有りません。大変な重病でした。のちの話になりますが、父が八十を過ぎてからクモ膜下出血で2度目に倒れた時、CTスキャンを撮った医者が、3回出血した痕(あと)が脳にあると言いました。私の郷里に住んでいる兄は、いや2度しか覚えが無いけどなあと言っていました。医者は1回目のはかなり古い痕だと言ったそうです。恐らく、この昭和20年の事故の傷痕では無いかと思われます。この時長女を生んで直ぐの母は、赤ん坊の長女と二歳と五歳の幼児の三人の子供と、正気を失った重病の父を抱え、大変な苦労しました。さらに追討を掛ける様に51日治世が、高熱を出して死にました。満州の風土病の風疹だったようです。一家は惨憺たる状態でした。父はその後2ヶ月の間生死の間をさまよいましたが、母の懸命な看護のもと6月頃には命を取り留めたようです。母は、父の体力を落とさないために、髪や髭を剃らずにおいておきました。死にやまいになっているときは、病人の爪や、髪を切るとそれだけその人の体力を消耗するのだそうです。
また、父は牡丹江省長の命により牡丹江荷車製造組合常務理事も務めていた関係で、鮮満系組合員が日系人にはなじみのない新鮮な生肉などの栄養食品を父に食べさせて早くよくなるようにと、わざわざ母に届けてくれました。このお陰で、父は回復を早めることが出来ました。母はのちのちまで、外国で本当に困っていたとき、人種に関係なく朝鮮系や満州系の人たちが日本人の母を助けてくれたことに、大変感謝していました。

満州からの引き揚げ

89日ソ連が満州に進入
  父がようやく治りかけた頃、いよいよ戦況は悪化し、現地の日本人の男性は一斉に召集されました。父のところにも、召集に来ましたが、脳膜炎を患っているのと髪と髭がぼうぼうで、母がこの通りで使いものにならない状態ですと説明すると、そりゃしょうがないと、召集に来た人も引き上げていきました。それで召集されずにすみました。
  ところが、2・3日すると、ソ連が国際条約を破って8月9日に参戦し3、その夜から、ソ満国境付近から開拓団の日本人が大挙して逃げてきて、牡丹江の我が家の前を歩いています。母の記憶によると、それでも牡丹江市では8月910日の二日間は何もなく穏やかだったそうです。11日の午前10時頃から、日本の飛行機とは明らかに違うキーンという金属音のするソ連の飛行機が上空を飛ぶようになりましたが、空爆はなくソ連の飛行機もいつの間やらいなくなりました。しかし、12日午前10時頃になると、牡丹江市内にもソ連軍の空爆が始まったとのことです。最初に駅前通りの太平路にあった百貨店に大きな爆弾が落とされました。この百貨店は旧市街の中国人街にありました。どういうわけか、ソ連の爆撃機は、日本人街の新市街には落とさず、中国人街の旧市街に最初の爆弾を落としました。大型の1トン爆弾だったようで、この旧市街にあった自宅はその百貨店から1kmも離れているのに、自宅が半分動くような大きな衝撃がありました。大層頑丈だった煉瓦の二重の壁が大きくひび割れてしました。
  いよいよ大変な事態になったので、すぐ父は牡丹江駅まで情勢を見に行きました。一時間半位して自宅に帰って来た時には、父は散髪もしていて髪も髭も奇麗になっていました。さらに中国人の友人から情報も聞いて帰って来ました。ソ連が参戦したと聞くと、秋田県からの開拓団の村長は、すぐ密かに中国人に捕らえられ殺されてしまったそうです。当時、ソ満国境付近は国策として対ソ防衛のため、中国人を強制退去させたあとへ、日本人の開拓団が入っているので開拓団自体が恨まれており、日本人の村長はいちはやく標的にされたようです。村民は村長はどこに行ったのだろうと真実を知らなかったようですが、父は中国人の友人からこの情報を聞きました。このような容易ならざる事態に、父母はわが家を捨て二人の子供を連れて日本に帰ることに決心しました。
  しかし、牡丹江市当局からは、民間人は山の方面へ逃げろと指示が有ったそうです。なかにし礼さんの小説「赤い月」[2]には、そういう回覧板が廻っていたとの事です。日本人がほとんど住んでいない旧市街に父母達は住んでいたので回覧板は実際には見ていないが、そういう風評を聞いていました。そこで多くの民間人は山に逃げようとしていました。父はその人達と行動を共にしようと言いましたが、母は、山に逃げればよけいに帰れなくなる、駅に行って鉄道で朝鮮まで逃げようと、父を説得しました。4母の叔父は当時、京城(ソウル)で朝鮮食糧営団の高官をしており、とにかくそこまで逃げれば何とかなると思ったのです。また母は読書家だったので、戦争になると鉄道等の交通機関が真っ先に外国に乗っ取られることや、戦争の後は伝染病が蔓延することなどを、本で知っていたそうです。それで鉄道が自国のものの間に逃げなければ大変なことになると考えたといいます。そこで、急いで、夜寒に備えシューバ(オーバー)を夫婦の分と長男の分の3枚と少々の衣類を詰めた柳行李を1つだけ、持って家を出ました。父は病み上がりでふらふらしており駅まで柳行李1つ持って行くのが精一杯だったのです。しかし、駅の中は軍関係の家族で一杯で混雑が甚だしく柳行李などの大きな荷物などは持ち込むことは不可能でした。そこで父は駅頭にその柳行李を中味ごと捨てざるをえませんでした。駅の中に入ると、列車には軍関係の家族のみしか乗せないと言われました。しかし、民間人にだって非常事態なので、とにかく京城まで逃げねばと無理やり父母達は列車に乗込みました。
  母によると、牡丹江駅に着いたのは昼頃と思うのですが、気が動転していてお昼ご飯を食べたかどうか覚えていないということです。また列車に乗ったのは確かにお昼頃だったのですがなかなか出発せず、ようやく出発したのは午後4時過ぎの夕方(讃岐方言で:こばんげ)だったそうです。その時父母が乗ったのは客車でした。列車はソ満国境付近の奥地からの軍人の妻や負傷者でいっぱいでした。大勢の子供もいて、ハルビンに着いた時、母の座席の下からもその子供達がぞろぞろ出てきてびっくりしたそうです。因に、本当に奇遇なのですが、この列車は袴田佑子さんの小説「ひまわりの歌」[3]の家族が乗った列車と状況が酷似しており、全く同じ列車に父母達も乗ったものと思われます。

列車による大逃避行開始
  このように親子四人、着の身着のままで牡丹江からハルビンまで汽車で南下しました。ハルビンには813日の午前11時頃着きました。駅近くでお昼ご飯を食べている時、ある人が隣の人に「今、牡丹江は空襲で火の海になっているそうですよ。」と話しかけました。話しかけられた人が、「ああ、その牡丹江からの人がここに居りますよ。」と父母達を指さしました。よくぞ父母達は812日に牡丹江の家を捨ててでも出たものです。さもないと皆死んでいただろうと思います。父母が出発した翌日の813日における牡丹江駅周辺の大空襲の様子は「燃ゆる満州」[4]に詳しく、駅の中に幾つも首や手のない死体が転がっていたそうです。
  昼食をとった後、父にはハルビンはもと住んでいた所なので、駅前にある長兄太田竹市の友人の家を思い出して訪ねて、子供たちの衣類などを頂きました。満州の夜は8月とはいえ大変冷えるので、着の身着のままだとすごせないからです。ハルビン駅に戻り、さらに新京まで客車に乗って南下しました。この客車も袴田佑子さんの小説「ひまわりの歌」[3]の家族と全く同じ客車と思われます。

新京駅で馬糞の無蓋貨車に乗る
  新京(現在長春)には814日に着いたそうです。新京駅に着くと乗客はいったん駅の外へ出されていまいました。そして、多くの民間人を軍が駅構内にはいれないように銃を構えています。戦後明らかになることですが、関東軍(日本軍)は、民間人を置き去りにして先に逃げたのです。そのため民間人は200万人もの難民となり広大な満州の土地で右往左往してしまい、悲惨な目にあったのです。南下しているものがあれば、北上してくるものもあるという大混乱になってしまいました。父には、新京ももと住んでいた所ですので、いわば地元で、駅の構造をよく知っていました。こんなところで、汽車に乗せてもらえなければ、大変なことになる。親子四人で便所に行くふりをして、大きく迂回して北から駅構内に入り、汽車に乗ろうとしました。止まっている汽車には、軍人や憲兵の妻子がいっぱい乗っていました。そしたら、私たちを乗せないと言うのです。憲兵の妻は大変威張っていました。父は、「同じ日本人じゃないか。私は病み上がりで幼い子供2人を連れてどうにもならないんだ。」と言いました。それで、渋々乗せてもらいましたが、空いているところは、馬糞が落ちているところでした。この汽車は無蓋貨車で客車ではありません。この無蓋貨車は前線に軍馬を送った後、帰りに軍人や憲兵の妻子を積んで、民間人より先に逃げているのです。軍は民間人より身内の軍関係者優先だったのでしょう。親子四人馬糞のついたわらのところに座りました。何が幸いするかわかりません、これが後に子供二人の命を救うのです。8月とはいえ、満州は夜大変冷え込みます。無蓋貨車の上に雨が降り、吹きさらしのため寒さで小さな子供が肺炎になって死んだりしました。ところが、馬糞とわらが雨水を吸って発酵し、ほんわかとした暖かさを子供達に与えました。一昼夜の間、満州の大地を無蓋貨車は走ります。その間、時々ソ連軍の飛行機の来襲があり臨時停車したりしました。5歳の長男正剛(まさたけ)は、僕が大きくなったらソ連をやっつけてやると悔し泣きしたそうです。また、トンネルに入ると、汽車の煤煙が子供達をおそいます。父や母は子供の顔をまたの間に挟んで子供達をかばったそうです。おしっこは、貨車の塀につかまってしました。父達を乗せないと威張り散らしていた憲兵の妻も、とうとう、みんなの手を借りて塀につかまり用を足しました。父も母も、人間最後は人の手を借りなければいけないことがある。あまり偉そうにするなと、これを教訓として私達子供に言っていました。ある駅を通過中に、日本人の奥さんが子供をおぶってのんびりとあやしています。それを見て、母は、「あなた大変なことになっているのよ、早く逃げないと!」と列車から叫びましたが、その人には何も聞こえなかったらしく遠くに過ぎ去ってしまいました。

安東駅ホームで敗戦の報に接す
  この無蓋貨車が満鮮国境の町安東に着いたのは815日午後2時位でした。そこで、天皇陛下の「終戦の詔勅」の玉音放送があったことを初めて知りました。駅のホームで誰彼なく知らない人と抱き合って皆泣きました。玉音放送は正午にあったのでその直後に安東に着いたのです。安東駅では、軍が手配してくれた4斗樽に何個もの炊き立てのご飯を、軍人の手から皆に配ってくれました。皆ハンカチや手拭いに入れてもらって食べました。しかし、110ヶ月の次男義徳だけは、避難中に母乳が出なくなっていたので、非常に困ったそうです。この815日以降の次の列車では安東まで到着できず、奉天止まりとなりそこで一年悲惨な難民生活をした人の手記[5]がインターネットで見つかります。815日に敗戦になると満州では直ちに列車が日本側の思うようには動かなくなったようです。父母はよくぞ815日に安東まで来ていたものだと思います。一日でもいや一本の列車にでも乗り遅れていたら、病み上がりの父と幼児二人連れの母では、悲惨な難民生活は耐えられず、おそらく一家は全滅して満州の土になっていたことでしょう。

安東市での不思議な出来事
  炊き出しをもらった後、ここの日本旅館に泊まりました。この日本旅館は、この列車が着く前から引き揚げ者支援のために用意されたものだったのだそうです。この安東の日本旅館には二日しかいなかったのに、なんと、中国人は太田の家族が安東まで逃げてきていたのを知っていたらしく、ここに牡丹江市の共同経営者の張魁元さんからの葉書が届きました。どういう情報網なのでしょうか。父は今も不思議に思っています。葉書には、「太田さんは中国人を大勢助けてくれ、本当によくしてくれた。ソ連が来ても共産軍や国民軍が来ても、絶対に家族とともに安全を保障するから、帰って来い。一緒に会社をやろう。」と書いてくれていました。しかし、父は子供達の将来が心配で、やはり日本に帰ることにしました。母も父からこの魁元さんの葉書を見せてもらったのを覚えていますが、どうやって葉書が届いたのか今だに信じられないくらいだと言っています。

あと二日したら八路軍(共産軍)が来る
  父は毎日安東の駅に出かけて、中国人の駅員に話しかけて、情報を聞きました。そしたら817日朝に、その中国人の駅員は父の中国語を疑わず「たいじん(大人=だんな)、あと2日したらここに山東から八路軍が来る。」と教えてくれました。2日後の8月19日に中国共産党の八路軍が来てしまえば、安東の施政権は日本から完全に、中国に渡ってしまいます。その駅員は、今日朝鮮の京城(ソウル)まで向かう汽車が出るからそれに乗れと、教えてくれました。そこで、再び家族とともに列車に乗り京城に向かいました。今から考えると、この駅員が諜報機関員で鉄道電話か何かで張魁元さんに知らせてくれたのではないか5。さもないと、あの大混乱の時に2日くらいで牡丹江市から安東市まで葉書が届くはずがないと、父は言っています。その駅員には太田康雄(タイテン カンシュン)と名乗ったとのことで、もし、この駅員が諜報機関員だったとすると、不思議なのは、父が中国人にとって不都合な日本人なら、こんな親切はしなかったろうということです。むしろ殺されていたのではないでしょうか。父がいかに中国人から信頼されていたかがわかります。父は、中国人は仁義に厚い民族だ。おれの考え方は今も中国式だ。中国人や満州がたまらなく好きだ。死んだら、法名(戒名)を是非「康徳院満州居士」としてくれと言っています。康徳は満州国の元号です。

朝鮮語で言え
  安東を817日朝に出て京城にはその日17日の昼1時頃に着きました。その頃ようやく引き揚げ者の支援組織が整いつつあるところで、駅に着くと、婦人会の炊き出しがあり、おにぎりをもらって子供たちに食べさせたりして一息つきました。そこから山の手に住んでいる母の叔父、高嶋利雄、に車で向かえに来てもらおうと電話をしました。そのころの電話はもちろんプシュホンでもダイヤル式でさえもありません。若い方はもう知らないかもしれませんが、電磁石式で電話の横にハンドルがありこれを回して交換手を呼び出します。そして電話交換手に電話番号を告げたところ、交換手に、「日本は負けたのだ。日本語では取り次がない、朝鮮語で言え。」と言われて切られてしまいました。仕方なく、暑い8月のさなか、すり鉢状になった京城の中心から山の手の孔徳町(朝鮮京城府孔徳町11番地155号)まで、幼い2人の子供を連れて叔父の家まで歩いて向かいました。

高官の叔父の家に身を寄せる
  京城の高嶋利雄叔父の家に着くと、叔父は父母に向かって「おお来たか。来ると思っていた。」と予想していたように言ったそうです。母の妹の話によると、京城に着いた時、既に子供は二人ともはしかにかかっていたそうです。はしかは御存知のように、発熱した時には絶対体を冷やしてはならず一週間は動かさず安静にして滋養しいていないと命に関わります。多くの方が書き残しておられるように、ハルビンや新京、奉天の小学校を仮設難民収容所にした所では、布団も毛布も満足に無く一日一食のコウリャン粥だけでした。そこでは寒さと飢えで大人だけではなく沢山の子供達が死んだのは、このような伝染病に体力が持たなかったためです。戦争の後は伝染病が必ず蔓延するとはこのことでしょう。もしこのとき叔父の家に着いていなかったら、二人の子供は日本の土を踏むことなく死んでいたでしょう。太田一家が生きて帰れたのは、京城の叔父の存在が非常に大きく、正に命の恩人と言えます。
  叔父高嶋利雄は朝鮮食糧営団次官をしており、朝鮮食糧営団のNo.2No.1には日本国内の大臣の古手が天下りしてくる仕組みだったので、官僚としては当時の朝鮮食糧営団では一番上でした6。しかし、朝鮮も日本国内同様大変物資に窮乏していたらしく、叔父の家に泊めてもらっていた間に次のようなことがありました。満州から逃れてきた夫婦の目にも、叔父の家では食糧不足が深刻な様子が痛いほどよくわかりました。ご飯の後、なんと尊敬していた叔父がお皿に残った食べ物を舐めたのです。大変な状況の時に家族4人して厄介になり身の縮む思いだったと言います。このような状況がよくわからぬ当時5歳の幼い長男がごはんのお代わりをしたのが、恥ずかしさとともにいまだに思い出されると父母は言いました。そこで、引き揚げ者の支援組織に配給がもらえるように申請し、さらに駅の炊き出しをもらいに行くとかしてしのいだそうです。配給と言ってももう若い人にはわからないでしょうが、戦前と戦後昭和30年代までくらいは、米穀は配給制で住民登録などがないと売ってもらえない仕組みでした。配給というのは無料ではなく統制経済制度という意味です。主食のお米など必需品の価格は統制経済制度になっていたというわけです。京城の叔父の家には8月30日まで泊めてもらいました。なぜそんなに長くいたかというと、子供のはしかもあったのですが、最大の原因は釜山から内地に渡る船が出なかったからです。たくさんの機雷が撒かれており、またほとんどの船は戦争で失ってしまっていました。

あと二日したらアメリカ軍が来る
  8月30日になって、叔父が父母に「あと2日して9月1日になるとアメリカ軍がやってきて朝鮮の施政権が完全に日本からアメリカに移る。それまでに釜山から関釜連絡船で日本に帰る方がよい。831日に釜山から、日本が管轄する最後の興安丸が出るそうだ」と教えてくれました。叔父は残務整理のためアメリカ軍が来てからもここに留まるつもりだとのことでした。アメリカ軍が来ると日本人の全財産は没収され、いつ帰れるかわからなくなるとのことでした。そこで急いで、次の日の8月31日の朝、夫婦と子供二人で京城(ソウル)をたち釜山まで汽車に乗っていきました。

最後の関釜連絡船「興安丸」
  釜山の駅に着いたところ、駅には憲兵がいて、連絡船の出港のドラが鳴っているのに、入れてくれないと言います。父は、「私は病み上がりで幼い子供2人を連れてどうにもならないんだ。」と言いました。そしたら、駅員が、走ればまだ間に合うかもしれないから急ぎなさいと入れてくれました。ドラが鳴り連絡船のデッキが今まさに上がろうとしているところで、かろうじて父母と2人の兄は間に合いました。この船は興安丸と言い、日本の施政権下で出航した最後の連絡船です。この船に乗った本当に最後の最後の乗客が私の両親達一家4人でした。このあとの連絡船ではアメリカ軍に所持品を全部没収され大変惨めな状況だったと言われています。戦後20?30年したときにNHKの教育テレビでこの最後の興安丸のことが特集されていたのを父母と一緒に見た記憶があります。叔父高嶋利雄が朝鮮総督府の高官だったことで情報がいち早く得られたと父母はのちにいつまでも感謝していました。興安丸は7100トンもある大きな連絡船でしたが、引き揚げ者で超満員だったとのことです。身動きもできないくらいだったので、最後に乗った入り口付近のデッキから動けず、そのまま家族で一緒にデッキの上で寝ました。当時関釜連絡船の所要時間は約7時間でしたが、下関港は機雷が撒かれていて危険なため、隣の小さな山口県仙崎港の沖合に停泊しました。小さい港なので大きな興安丸は入れず、沖から艀(はしけ)で少しずつ上陸したそうです。入り口でいたので真っ先に艀に乗せてもらい一番に内地に上陸したそうです。ここ仙崎に着いたのは91日でした。ここでも引き揚げ者の支援の炊き出しがあり、おにぎりをもらって子供たちに食べさせたりして一息つきました。

広島の惨状に絶句と涙
  仙崎からまた汽車に乗りました。広島まで着いた時、駅から見える広島の惨状に父母は目を覆いました。原子爆弾が落とされて1ヶ月近くも経っているのに、いまだにコンクリートのがれきの間から煙が上がっていたそうです。そして、まるでマッチ箱をひっくり返したように完全に町が破壊され尽くしているのです。広島駅と書かれた看板が、まるで空き缶を焼いたあと印刷の字が白っぽくなって残る、あの通りになっていたそうです。そして、この時父母は「日本は負けたのだ。」と否応なく思い知らされ、涙があふれたそうです。なお、のちの話になりますが、戦後すぐの昭和228月に生まれた次女は、14歳の時白血病で死にました。父母がこの時原爆直後の広島を通ったからではないかと、叔母や私はいまだに思っています。広島の「原爆の子の像」のモデルになった「サダコ」と同じように、姉も十二三歳になって初めて発病し死にました。父母の悲しみは大変なものでした。

姉さんの幽霊
  郷里香川県の予讃線の本山駅には、9月3日の朝まだ暗い3時か4時頃に着いたそうです。まず本山駅から父の実家の一の谷村吉岡(現在の観音寺市吉岡町)に親子4人で行き、その足で母は、やもたてもたまらず一人1キロほどはなれた古川(現在の観音寺市古川町)の母の実家に、まだ暗いうちに歩いて訪ねて行きました。郷里の母の両親や兄弟は、満州はソ連の参戦で大変なことになっている、ましてや重病の夫と幼い2人の子供を連れさぞ苦労しているだろうと毎日心配し、おそらく皆満州でもう死んでいるのではないだろうかと諦めてかけていました。朝早くカタカタと下駄の音がして、当時18歳になる母の妹は誰かが家に来た様に思い玄関の戸を開けて見ました。満州に居るはずの姉が1人で薄暗い夜明けの中に立っていました。ぼろぼろの服装にはなっているが、確かに見覚えのあるモス地にゆりの花柄の単衣を着て立っていました。姉さんの幽霊が戸口に立っていると思ってびっくりして、なかなか声が出ませんでしたが、やっと「姉さん・・・、足あるんえ(足がありますか)?」と聞きました。幽霊ではなく正真正銘本人が、長い逃避行の末実家に帰ってきたのでした。母には妹のこの一言が60年近く経った今も耳に残っており忘れられないと言っています。そして妹は母(私から見て祖母)を呼びました。毎日心配していた祖母(当時52)は母(当時29)と抱き合って泣きました。母は、着の身着のままでやっとの思いで帰って来たと涙ながらに話しました。祖母は「よう無事に帰って来た。皆が無事が何より。」と泣きながら応えたそうです。
  父母は、一の谷村の引き揚げ者第一号でした。

小さな布の靴
  このとき、私の両親はともに29歳、長兄正剛は5歳、次兄義徳(よしのり)は2歳になる直前でした。長兄はよく覚えていて、母と満州の家はこうだったとか話しているのを聞いたことがあります。しかし、次兄は幼すぎて何も覚えていません。でも、この逃避行の時履いていた、小さな小さな布の靴を、記念に壁にぶら下げて家に飾っています。この靴は母の手作りのものです。

おわりに
  以上は私の家族の歴史という誠に個人的なものですが、20世紀の日本の歴史そのものでもあるような気がします。日本の施政権が次々と失われていくその地域からかろうじて1日や2日前という直前に脱出しながら何とか生きて、日本に引き揚げて来られた家族の歴史です。国家そのものや植民地が無くなっていくときにどういうことが起こるのか、現在の日本のように平和太平な時に、警鐘として、どうしても書き残しておきたかったのです。

参考文献等
[1] 満州国歌は時の香川県三豊郡山本町の町長原学氏が新聞社に言って譜面共々でわざわざ家まで持ってきてくれたのでうちにあるということです。(200357日母のメモ)
[2] なかにし礼「赤い月」上下、新潮社(2001.
[3] 袴田祐子『ある家族の満州引き揚げ物語』−ひまわりの歌  
http://www2.accsnet.ne.jp/~laura_88/himawari.htm
[4] 「燃ゆる満州」
http://plaza.harmonix.ne.jp/~mickeyso/essay/essay0.htm
「私の父が生前、何年間にわたり、ある新聞社などに連載してきた随筆集を1989年に製本、自費出版しました。その内容をアップします。これは第2次大戦中に関東軍、軍属の軍医部所属として中国、虎林に進駐していた時の悲惨な戦争の話題です。」と書かれているだけで、著者不明。
[5]  50年前元日・奉天」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/paper/1996/9602pr.htm
HOME > 目次 > 資料集 > 日蓮宗新聞 > 1996年版 > 2PR号:日蓮宗新聞[1996/02/PR]:日蓮宗 現代宗教研究所」と書かれているだけで、著者不明。

父からの注釈
1)       主流は串窯(ツオルヤオ:登窯で15登から17登)。登窯の方が休みなく連続使用でき、職人を遊ばせずに効率が良い。12万個くらいから焼きました。
2)      蜜占河秋田開拓団へは、軽車両製造用の作木(ズオム=ナラ)水曲柳(スイチュリュ=シオジ)伐採切出し軽便鉄道の開拓団工場に集積させて頂いたお礼に、ハルビンの白系露人会からピアノを購入寄贈しました。開拓団でピアノを持った小学校はおそらくこの開拓団のみでしょう。
3)      ソ連が日ソ不可侵条約を破って一方的に宣戦布告をして参戦しました。関東軍(日本軍)はこの条約を信じて、軍隊は勿論、武器弾薬まで日本本土や南方へ転進させて、満州は空っぽだったのです。
4)      <ここの部分は母から聞いた話です。しかし、ここの部分に対する父の主張は次の通りです。今となっては戦後生まれの私にはどちらが真実かわかりませんが、父の主張も下に併記しておきます。>
   近くの日本人は図們方面へ南下しようとしていましたが、その人たちと行動を共にすれば、そこはソ満朝鮮の三角地帯で、かえって危険であると判断しました。そこでハルビン経由で京城まで行きそこから帰国することにしました。
5)      父は牡丹江で中国人と一緒に諜報活動をしていたのでこの駅員が諜報機関員で連絡してくれたのでしょう。
6)叔父は高官であったので、その勤務には朝鮮総督府(筆者注:正確には食糧営団)が車を出して送迎してくれていました。

(以上)

追記(2003430日)
  父は、私の2001年4月27-29日の原稿を読んで、上述の注釈1)?6)を200157日に私宛に郵送した後、200161日に2度目のクモ膜下出血し病院に入院しました。そのため、半身不随で会話が出来ない状態になってしまいました。以上の聞き取り記録は本当にぎりぎりで間に合いました。
  私は、父が61日に倒れたとき、後1週間くらいしか持たないだろうと兄夫婦から連絡を受け、私の家族全員で長野県から香川県へ駆けつけました。兄夫婦によると、私たちの到着の1日くらい前から少し持ち直し、しゃべることはそれまでほとんどできなかったが、こちらから言うことはわかっているようだということでした。それで、「おやじ、ようあの原稿書いとったもんじゃのお!(よくあの原稿書いていたもんだねえ!)」と言ったら、不自由な言葉でしたがはっきり「ほんまにのお!(ほんとになあ!)」と答えてくれ、驚きました。遠くに住んでいてちっとも親孝行しなかったので、この原稿で少しは親孝行できたかなあと思いながら、長野県に帰ってきました。
  その後、110ヶ月の間、不自由ながらも会話は成り立つとのことでしたが、病院の転院を繰り返しながら特別養護老人ホームへの入居の順番を待っているところだと兄夫婦から聞いていました。2003322日に甥の結婚式があり、私は、久し振りに香川県に帰省し、結婚式に出席した次の日の323日、病院を訪ね父を見舞いました。私が一方的に話すだけで、返事がなく、息子の私をわかっているのかどうかさえ定かではありませんでした。少し悲しく父の姿が哀れでした。大変衰えており、もう長くはないと覚悟をしました。最後にベッドに横たわる父の肩に手をやり、「おやじ、また来るわ」といって病室を出て、ひとり薄暗い階段を降りました。ひとは皆衰えて老人になり死ぬんだと、50歳の息子の私は人生のはかなさを感じ、涙をこらえながら長野へ帰っていきました。若いときにはよくわからない感情でした。これが生きた父と会った最後となりました。それから13日経った200345日、長野県の上田市は朝から、季節外れの雪で10センチほど積もりました。こんな4月に一面の雪になることは13年ぶりでした。その夕方5時過ぎに兄嫁から電話があり父の訃報を聞きました。午後3時49分にその病院で亡くなりました。享年86(数え年で88)でした。私は父の死に目には会えませんでしたが、幸か不幸か13日前に父に会っていて本当によかったと思いました。
  父の葬儀は、200347日、鉄腕アトムが生まれたことになっている日に、行われました。20世紀と21世紀の入れ替わりのように思いました。父の法名(戒名)は、父の希望通り「康徳院釋満州居士」とお寺さんにつけてもらいました。釋という字が入っていますがほぼ希望通りで、これで本人も満足すると思います。私は思い残すことはありません。火葬場で見た父の足の骨は太くて大きく、昔バレーボールで鍛えたことがうかがえました。大正5年生まれの昔人間にしては身長があり当時としては大男といわれました。中国語に堪能だったので頭蓋骨の中に中国語の漢字が詰まってはいないかと見ましたが、やはり焼けて空っぽでした。人の能力も死んでしまうと跡形もなく、ただ人々の記憶に残るだけとなるのですね。


修正2003612-13日および2003年8月11-16日)
  平成15年(2003年)523日に亡父の四十九日の法要の後、病院にいる老母や、母方の叔父や叔母からも貴重な証言を得ました。また、母方の叔母 (76)から父母が満州から祖父宛に出した手紙集を今まで保管していたが、この機会に私に譲るとの申出があり、昭和14年から昭和20年の間に満州国牡丹江市と香川県一の谷村との間で交わされた29通の手紙を、譲り受けました。その内3通は封筒だけで中身は有りませんでした。しかし、これらの手紙集は父母が祖父に満州の生活振りを几帳面に定期的に伝えており、貴重な内容でした。これらのお陰で、内容と日付の誤りの訂正を行うことが出来ました。従いまして上記の小文は、私に出来る限り正確になっています。


追記2(2008年3月2日)
(1) 2007年12月5日NHKの人気番組「そのとき歴史が動いた:集団引き揚げ」によれば、終戦の時海外にいた日本人は660万人でした。そのうち満州では約210万人の日本人がいたそうです。満州にいた日本人がもっとも悲惨な引き揚げ体験をしました。現地の男性はソ連参戦のため終戦直前に根こそぎ兵士として動員されました。敗戦後それら兵士60万人はシベリアへ抑留され、過酷な労働を強いられたくさんの人が亡くなりました。また、残された女性と子供、老人は約150万人で、これらの人々は想像を絶する過酷な引き揚げを強いられることとなったのです。にもかかわらず日本政府はこれらの人達を外交上何ら救出の手だてを打たず見捨てていたことがこの番組を見てわかりました。私はこの番組を見て、女性達のあまりの悲惨さに、本当に涙がとまらず画面がかすみました。
(2) 藤原てい著「流れる星は生きている」によれば、朝鮮半島が南北に分断され38度線がソ連軍によって封鎖されたのは1945年8月20日頃とのことです。これはなんと、私の両親と幼い兄2人が安東から京城(ソウル)まで汽車で南下に成功した、わずか3日後のことです。38度線が封鎖された後は列車は北から南へは動かなくなりました。もし父が封鎖直前の8月17日に安東で駅員から中国語で、最後と思われる京城までの直通列車の情報を得ていなかったら、病み上がりの父と幼い2人子供を連れた母では、藤原さん一家のような歩いての南下は到底無理で、安東か北朝鮮のどこかで一家全滅していただろうと思います。私が戦後生まれて今生きているのは本当に奇跡のような気がします。





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