正法眼蔵随聞記から考える1:
愚痴なる尼君
信州上田之住人
太田 和親
2006年8月2日随筆
最近、正法眼蔵随聞記という約800年前に書かれた本を読みました。この正法眼蔵随聞記は、僧(学生)や仏法者(学者)が仏法(真理)を学ぶ心得や方法の神髄を、曹洞宗開祖の道元が教示したものを弟子の懐弉がまとめたものです。現代にも通用する金玉の言葉が並んでいます。現在、大学をめぐる不祥事が相次いだり、大学の存在意義そのものが根本的に問われている中、現代の大学教員や大学生が改めて読むべき本であると、私は思いました。正法眼蔵随聞記のあとがきによると「学道の至要を、聞くに従って記録された。ゆえに随聞という。」となっています。「学道の至要」とは、学問をする上のキーポイントということでしょう。
いくつか心にしみる記述がありますが、ここでは次の部分を紹介します。
正法眼蔵随聞記 その五の七より
( )の中は私の読替
「愚痴なる者は、甲斐のないことを思って言うものである。この寺(大学)に仕えている老いた尼君(教授)は、今いやしい身分でいるのを恥じてか、ともすれば人にむかって、昔は身分の高い女性(一流会社の社員)であったことを話している。たとえ今の人々に、昔はそうであったかと思われたところで、何の役に立つとも思われぬ。全く無用のことと思われる。
あらゆる人々も思いの中に、同じ心があるのではないかと思う。道心(学問を追求する心)のなさ加減も察しがつく。このような心をあらためて、少しは人に似るべきであろう。」
この愚痴なる尼君が、最近一流会社から大学に移籍した老教授の言動とあまりに似ていて、800年前の時代を感じさせない、類似した心理状態を言い当てている気がします。
例えば、最近一流会社を退職して地方の国立大学の教授になった老人は、昔のプライドからか、ともすれば人にむかって「だから大学はダメなんだ。」と発言したりします。このような発言に、多くの大学人は疑問を抱きます。だったら、なぜこの教授はいま大学で禄を食(は)んでいるのでしょう。学問の深奥(真理)を極めるには大学しかありません。会社では無理です。少しは人に似て大学人になるべきでしょう。皆さんはどう思われますか。