井上 そうですね。思考停止、判断停止というのでしょうか、用意された答は何だろうということがまず最初にあって、その先とかその脇を考えずに、他の道筋を考えもせず、ただひたすら用意された答えに寄り添っていく。あらゆる時代にそういう傾向はあったでしょうが、最近起こっているいろいろな事件を見ていると、一般に、社会が待ち構えている結論へすぐに辿りつこうとする傾向が強くなっているように見えますね。
しどろもどろでもいいから、もっと考えて考えて考えて、その先まで考える。考えること自体が尊くて、答えは当たっていてもいなくてもいいんだよ、という社会ではなく、とにかく途中はどうでもいいからまず差し障りのない答えを、という社会になってしまった。機械を作る、モノを作る、あるいは文章を書く????どんな面においても日本人の想像力にパワーがなくなっているのは、そのあたりに理由があるのかもしれません。
この対談の初出誌は‘95・9月号の「現代」?よい日本語、悪い日本語?だから、実際の対談はそれより少し前の6月か7月ころであろう。したがって、あの地下鉄サリン事件や麻原彰光逮捕の直後で、未曾有のテロ事件がオウムの仕業であることが確定した直後である。
この時期、なんでこんな事件が日本で起こったのか、多くの知識人が社会の病理について深く考えていた。
一般現象として、１９９０年代に入ってから大学生が急速に物事を深く考えなくなったし、学力が極めて落ちてきたのを、どこの大学の教官も実感していた。
そこで、２０世紀最後の年の２０００年秋、こんなことがあった。２０年近く大学で教えてきて、このようなことに初めてでくわし私も少なからずショックを受けた。
私は化学系の学科で物理化学という理論系の科目を教えている。そのクラスは三年生で、量子化学に応用する点群を教えていた。なかなか理解するのは大変であるので、半年の講義の中で三回レポート問題を出している。理解を深めるためである。しかし、問題をといてレポートを提出するのは単位を取得する上で義務ではなく、熱心な学生には提出すれば、見て添削してあげようという約束である。だから毎年四十人の受講者のうち特に熱心な三?四人しか提出しない。私は、大学は本来自分で勉強するところなのだから勉強したい人だけが勉強すればよいと思っている。無理やりやらされていると感じるなら大学ではなくもっと別の道があろう。ただ、熱心に提出してきた学生には熱心に応えてやろうと常に心がけてきた。大学のレポートというのは、ご存じかと思うが、ただ答えだけを書いてきたのではレポートではない。自分が、どのようにして、基本原理から最終の答えや結論を導いたかということが、他人にわかるように書かれていなければならない。従って、他人が読んで論理の流れがちゃんと追えるように書いていなければならない。答えだけが合っていても、途中の論理が書いていなければ、なぜそのような結論が出たかわからないからである。
ある成績が優秀という評判の女子学生が、レポートを提出してきた。しかし、この女子学生のレポートにはがっかりしてしまった。評判にたがわずというわけではなかった。彼女のレポートの書き方は、どの論述も論理が飛んでおり、いきなり結論が出てくるのである。たとえば、積分をしなければならないところでは積分の式さえ書いていないのに、いきなりその答えが出ているのである。どこもかしこも、そのような書き方なので、最後には辟易してしまった。論理が飛躍してわからないところにすべて×印をし、最後に「このようなレポートの書き方をしてはいけない、論理の流れがわかるように書くこと。さもないと、まるで他人のレポートを写したように見える。」と書いておいた。私の偽らざる感想である。論理がないのに答えだけがあってもレポートとしては意味がない。3年生までにレポートの書き方をしっかり練習することが、4年生になった時に卒業論文を書く第一歩なのである。
レポートを返してから次の日に、その成績が優秀な女子学生がなぜか、成績のぱっとしない男子学生を連れて、私の部屋に入ってきた。女子学生はレポートを手に泣き顔である。その連れの男子学生は、レポートを出したことのない男である。異様な感じがしたので、女子学生に聞いてみると、レポートのことで話があるという。付いてきた男はレポートを出していない学生であるから、彼がなぜここにいるのか理解できない。私はその男子学生に席を外せと言った。この雰囲気からして、当然難しい話であろうから、当事者だけで話すのが自然である。ところが、この男子学生は聞くに耐えない暴言を吐き、出ていこうとしない。この男、生協で、この女子学生に、彼女の皿からカレーライスを彼女のスプーンで口に入れてもらっていたのを見かけたことがある。おそらくこの女子学生の恋人であろう。加勢したいということであろうが、全く迷惑な話である。何の加勢かわからないから、もし私一人で対応していて、刺されでもしたら、二対一で後で証明が出来ない。そこで、この男、しばらく押し問答しても出ていかないので、「関係のない君が出ていかないのであれば、学科長の凸本先生を連れてきて二人で聞くことにする。」と言って凸本先生を連れてきた。変な話である。
女子学生は、泣きながら「私、カンニングなんかしていません。」という。
レポートにカンニングもくそもない、試験じゃないんだから。何を言っているのかよく意味がわからないので、順序よく話させると、
「私はレポートを自分で考えて書いたので、誰にも見せてもらってはいない。」という。
嘘だろう。あの最後の問題の式の誘導は、図書館で調べてもどの学生も見つけられなかったと言ってきた。にもかかわらず、この女子学生は式の誘導なしに答えだけがあっている。どうやって自分だけで答えを導いたのか不思議である。この女子学生の前に聞きに来た学生２人に、誘導の仕方が書かれた文献を渡しておいたのでそれを見せてもらったのであろう。まあ百歩譲って、自分で導けたとしても、
私、「それはそれで結構だが、あの君の書き方では、誰も論理を追えないから、論理が追えるように書くことが必要だ。あの書き方では全く理解できない。」
女子学生、「私の答えあっているじゃないですか。なぜ、×なんですか。」
私、「レポートというのは答えだけ合ってても、だめなんだ、論理がきちんと人にわかるように書かなければだめだ、だからわざわざ、そういうところを指摘してその箇所を×と書いてあるので、答えが合っているとかの問題ではない。」
女子学生、「私の答えあっているのに、×にされて、皆、○○ちゃんかわいそうって言うんです。答えが合っているのにどうして怒られないといけないんですか。私二十歳を過ぎて何で怒られないといけないんですか？」
私、「レポートは答えだけがあってもだめだと言っているだろう。じゃあ、全く今までに世界中で答えがないような、誰にも初めてで正解を誰も知らない問題だったらどうするんだい？みんなは、君が書いたレポートや論文の論理を丹念に追って逐一理解できて初めて君の言うことが正しいとか、間違っているとか判断するのが、学問なんだよ。正解がどこからか降ってくるわけではないんだよ。また、私のような年になったって、失敗すれば上司に怒られるんだよ。」
何を言っても無駄のようであった。理解できないのだろう。成績だけは良くて、全く学問を知らない学生である。答えさえ合っていたらいい成績がとれて、それでよしとしてきたらしい。いままで成績が良くて、いい子いい子と言われて育ってきて、それで親にも怒られたことがないようだ。
女子学生、「私、絶対、人のレポート写したんじゃないんです。他人のレポートを写したように見えるというのはどういうことなんですか。」
ええい、もうわからんのならいい。そんなことを言っているのではない。私は、せっかく丁寧に見てやったのにばかばかしくなった。
凸本先生、「太田君、ここの部分だけ消してやったらいいんじゃないか？」
と言うことで、その部分??他人のレポートを写したように見える??だけ、私が赤線で二重線を入れて消去し、決着した。
その間、ずっと、その横で恋人の男子学生は黙ってつっ立っていた。
なんやねん、この男。ほんで、この女子学生も、なんやねん。
こんなんばっかし増えたら日本はほんまあかんようになるなあ・・・と心の中でつぶやく私であった。
勉強とういうのは、答えを覚えることではない。その思考過程を学ぶことである。つまり論理回路を自分で作ることである。特に大学ではそうである。
この思考停止現象は理科系の学生だけの問題ではない、文化系の学生にしたって同じ問題が起こっているのだ。どこもかしこもこんな具合になってきている。今もっとも世界の人達から問われているのは、我が国の経済規模に見合った発言能力、国際貢献であろう。自分たち日本人の立場やこれから行く道を、論理的に世界の人々に納得できるように、現在政治経済を学ぶ学生や政治の指導者が、説明できるであろうか。他国がこれからの日本の行く道の正解を示してくれるわけがない。もしそんなことがあったら疑った方がいい。策謀が巡らされているかもしれないから。したがって、日本人は自国の行く正しい道を自ら考えなければならないし、それが自国の国益と世界との共存に正当（正解）であると論理的に世界の人々に示すことが求められている。国際的に発言能力が低いのは、政治家だけが悪いのではない、今の日本人全体に論理を構築するパワーがなくなってきていることによる。
日本人が元々論理に弱い訳では決してない。鎌倉時代初期に書かれた平家物語の、平重盛がたびたび父清盛を説得する場面を見よ。論理が明解で誰もが納得する。また、江戸時代に書かれた雨月物語の、西行が崇徳天皇の亡霊を説得する場面を見よ。明快な論理で崇徳天皇と言えども、反論しがたいものがある。日本人が論理に弱くなったのは最近のことなのだ。
マークシート方式の共通一次を始めたころからおかしくなったんじゃあないかと思う。要するに安直に答えを求めすぎるのだ。全部論述式にしたらいい。大学入試を、全国一律のマークシート方式から、各大学が独自に実施する論述方式にすれば、かなり変わるだろうと思う。共通一次前はそうだった。日本語や英語が筆記できなければまずいけないし、言葉や数式で論理が人にわかるように長文で展開できなければ、論述式にはならない。あるいは、論理展開力をペーパーテストでなく口頭による発言能力でもみてもいいと思う。ここ２０年以上も日本はマークシート方式なんかで鉛筆で黒い丸つけるだけの大学入学試験やっているから、論理的思考のパワーが落ちてくるのだ。
もう一度、この文章の最初に掲げた井上ひさしさんの発言を読んでみて欲しい。全く私と同じ考えだとわかるであろう。
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