亡 国
信州上田之住人
太田 和親
2006年5月22-24日随筆
今年私どもの信州大学の学科に、学科としては初めてベトナムからの留学生を受け入れました。その留学生グェン(阮)君はホーチミン(旧名サイゴン)市出身で、彼のチューター(個別担任)にたまたま私がなりました。それで、私は31年ぶりに同級生のトゥルン (張)さんのことをしみじみと思い出しました。
それは31年前の1975年のことです。立命館大学化学科で同級生に、南ベトナムのサイゴンから留学してきていたトゥルン・チー・スン・フンさんという女の子がいました。その1975年の3月に、トゥルンさんは数年ぶりにサイゴンに里帰りし、4月の初め、4年生の新学期が始まるため京都に戻ってきたばかりでした。しかし3月は平穏に見えたサイゴンが、4月に入って、北ベトナムの大攻勢により間もなく陥落しそうだとのニュースが流れました。そんな4月の初め、私と彼女は、衣笠キャンパスの学而館地下にある学生食堂で、久しぶりに二人で向かい合って、お昼ご飯を食べました。そのとき、彼女は、サイゴンの家族を心配するあまり今にも泣き出しそうな顔をしていて、動揺の色が隠せませんでした。彼女はいま日本にいるのに、彼女の魂はここにはないような感じがしました。私の言葉も半分以上聞こえてないような風でした。彼女の悲愴なあの顔がいまだに忘れられません。それからわずか3週間後の4月30日にとうとうサイゴンが陥落し、ご両親との連絡が取れなくなりました。トゥルンさんのお父さんはパリ会談にも出たほどの南ベトナム政府の高官だったと聞いていました。4月30日を境に彼女は南ベトナムという祖国がなくなり、そして仕送りも途絶え、このままでは日本で難民となり学業を続けられないという苦しい状況に追い込まれていきました。亡国の民のパスポートやビザに何の意味や権利保障があるのでしょうか。私は今もよくわかりません。しかし、その問題のうえに経済的にも彼女は苦しい状況に次第に陥っていきました。彼女はスーパーのレジ打ちのアルバイトを始めました。そのような時期に、アメリカはその年10月までに旧南ベトナムからアメリカへ脱出してきた者には無条件で亡命を認めるとの声明を出しました。これがラストチャンスでした。当時の日本は亡命を事実上認めていない国だったのです。そこで彼女が、親戚のいるアメリカへ亡命するため、私たち同級生は、彼女のアメリカまでの飛行機代をカンパすることになりました。9月下旬、まだ夏休みでがらんとしている衣笠キャンパスの学而館と修学館の間の広い通りを、まだ夏の装いの青い空をバックに、図書館の方からたった一人でトゥルンさんが歩いて来ました。学而館入口の前で、私は彼女とすれ違った時、彼女が立ち止まって私の方に向かって何か言いかけていたのに、私の方はちょっと先を急いでいることがあって、立ち止まりませんでした。一方的ににっこり会釈しただけで図書館の方へ通り過ぎてしまいました。私は当時大学院入試のことで頭が一杯だったのです。それであとでゆっくり話そうととっさに思ったのです。しかし、それが彼女と会った最後となってしまいました。今もどうして二三分のことなのに聞いてあげなかったのだろう、言葉をかけてあげなかったのだろうと後悔します。私は、私の父母が1945年8月牡丹江市で満州国滅亡という亡国の憂き目にあい「引き揚げ」に苦しんだことをよく知っていたのに、友人が南ベトナム国滅亡という亡国の苦しみの中にいて「他国へ脱出」しなければならないせつない思いのその時、自分のことだけで頭がいっぱいで、彼女に十分言葉をかけてあげられませんでした。いまだに後悔しています。あと半年で日本の大学を卒業できたのに、本人も本当に残念だったに違いありません。彼女を空港まで送っていくタクシーの中で、女の子の親友だった山中ちさよさんがずっと泣いていた、と後で聞きました。
今、あのトゥルンさんはどこでどうしているでしょうか。あれから31年が経ち、時代が変わり、またベトナムからの留学生が日本に来るようになりました。本当に、あれから幾星霜という感慨を持ちます。