研究室紹介
信州大学大学院総合工学系研究科 太田研究室
太田 和親
信州大学大学院総合工学系研究科
生物機能・ファイバー工学専攻
スマート材料工学講座・教授
長野県上田市常田 3-15-1機能高分子学科棟4階(〒386-8567)
2008年2月12日記述
1. はじめに
私は1978年に金属錯体液晶1)の研究を始めて今年で丸30年になる。現在私の研究室は、スタッフは教授の私1人、博士課程大学院生2名、修士課程6名、4年生4名の合計13名で研究を行っている。私の研究室の大きな目標は、ディスコティック金属錯体液晶の合成とその機能性の追求である。今までにない液晶の応用の可能性がある新領域を開拓している。ここでは主な次の二つを紹介する。
2. 主な研究テーマ
2.1 van der Waals力を可視化するディスコティック液晶2)
無置換のグリオキシムPt錯体は室温で茶色で1万気圧で緑色に変色する。その原因は、中心金属 Ptの5dz2軌道から6pz軌道への CTバンドのギャップが、金属一次元鎖中の金属-金属間の距離により鋭敏に変わるからである。我々が合成した長鎖置換グリオキシムPt金属錯体液晶は、常温常圧で既に緑色をしており、明らかに周辺の長鎖アルコキシ基がそのファンデルワールス力で中心金属部分を締め付けている。このPt錯体液晶の場合は室温で中心金属部分に見かけ上8500気圧の圧力がかかっていることがわかった。そして昇温とともにこの長鎖による締め付け圧力が減少し、緑、赤、橙、黄色と色が変わる。この色調変化から周辺長鎖アルコキシ基のファンデルワールス力を見積もることができる。つまりファンデルワールス力を可視化する最初の材料としてこの液晶は応用が可能である。これは金属錯体液晶だからこそ出来る。
2.2 ディスコティック液晶半導体3)
1982年フランスのJacques Simonらはディスコティック液晶は一次元伝導体に利用できることを初めて指摘した4)。そこで私は1986-7年に1年間彼の研究室に留学した。また1995-6年に5ヶ月間オランダのデルフト工科大学のJohn M. Warman研究室にもディスコティック液晶の伝導度測定のため留学した。従来の棒状液晶は液晶ディスプレイ用材料としてのみ特化し、より電気の流れない誘電体(絶縁体)にしようとしてきた。しかし、ディスコティック液晶は全く逆により電気の流れる半導体や高速伝導体となり、全く新しい液晶の応用が可能である。一般に有機物の電荷輸送材料は、有機EL素子や有機薄膜太陽電池に応用が可能である。我々はフタロシアニン系サンドイッチ Lu錯体のディスコティック液晶を合成し、この液晶が極めて高速の移動度0.71cm2/Vsを示すこと見いだした。フタロシアニン系サンドイッチ Lu錯体はフタロシアニン環がマイナス2価で2枚、中心のLuはプラス3価で1個でできている。つまり分子全体では電荷バランスが合っておらず中性ラジカル物質である。このため、これは自分自身でドナーにもアクセプターにもなり、伝導性に対し非常に都合がよい。またディスコティック液晶は1次元カラムナー構造をしておりこれも伝導性に非常に都合がよい。これらはディスコティック金属錯体液晶だからこそ出来ることある。さらにこの系で実用化に必要な、大面積に自発的ホメオトロピック配向をするディスコティック液晶材料の合成に取り組み、最近その合成に成功している。
ところで、なぜ私が30年前に金属錯体液晶の研究を始めたかお話ししたい。それは私が4年生、修士、博士それぞれの所属研究室を全て変わったということに起因している。
3. 立命館大学での出会いと研究
私は1975年立命館大学理工学部化学科の4年生になって、鈴木啓三先生の物理化学研究室に入った。卒業研究は「ローリングボール法による高圧下の水の粘性」というテーマで水の物性の特異性について研究した。水は完全なアモルファス構造ではなく少しだけ結晶のような秩序が残っている。氷の構造を持った部分とばらばらになった単分子状の水の部分が拮抗して特異性を示す。純粋な水は0℃から30℃くらいまでの温度範囲では圧力をかけるとだんだん粘性が低くなり約1000気圧で極小値をとる。 1万米の深海でも魚が生きていられるのはこのためである。しかし、水に塩を加えると塩の種類によって水の中の氷の構造の部分が増えたり減ったりするので、粘性が純水と異なる。そこでローリングボール法という方法で高圧下の水の粘度を測定して水の構造について研究した。ゼミなどで発表する私を見て、鈴木先生は「太田、お前は研究者に向いているから大学院に来い。」と言われた。それで大学院に行くことになったのだが、鈴木先生は「うちには谷口(吉弘)という優秀な助手がいる。お前はここに残ってもポストがないから、隣の無機化学研究室へ移ったらどうか。」と聞かれた。それで、修士課程は松田二郎先生の無機化学研究室へ移った。研究室には、教授1人にM1の私が1人、あと10人が卒研生で他にスタッフも院生も全くいなかった。この研究室で、「硼酸ガラス異常現象のスペクトル的研究」というテーマで研究した。電気炉を使って、アルカリ金属含有量を変化させた一連のアルカリ硼酸ガラスを多数合成し、同時にこの中にコバルトを少量ドープしておく。アルカリ硼酸ガラスは非常に特異的で、アルカリ含有量が増えると密度の極小値をとることがわかった。この極小値より含有量が少ないときはコバルトはピンク色を示し、この極小値より多いとコバルトは青色となった。これらのことから、アルカリ硼酸ガラスも水と同じように完全なアモルファス構造ではなく少しだけ結晶のような秩序をとることがわかった。この修士の研究で、遷移金属のコバルトをプローブとして物質の微細構造変化を追えることを学んだ。しかしM2の12月末に松田先生から「私は来年度学部長になることに決まったので、君の面倒は見られないから、博士には来ないでくれ。」と言われた。本当に途方に暮れてしまった。そんなとき、別の有機化学研究室の当時助手であった中村尚武先生から、阪大の工学部にプロセス工学という博士課程が新設され、4月に入試だから受験したらどうかと教えて頂いた。
4. 大阪大学での出会いと研究
それで阪大を1978年の4月に受験して合格し、5月から三川礼先生の研究室に入った。三川先生は、「君のこれまでの研究から考えて、液晶を研究したらいいと思う。」と言われた。私が、それまで完全なアモルファス状態ではなく少し結晶の構造が残っている系を一貫して研究していたので、液体と結晶の中間の液晶がいいとお考えになったようだ。また、当時山口大学に行っておられた液晶の物理化学がご専門の艸林成和(くさばやししげかず)先生が阪大に戻ってこられるので、その艸林先生に私をつけるというお考えもあったようだ。艸林先生の赴任は種々の理由で1年遅れ、私がD2になったときに赴任された。そこで、今更研究室を変わることもあるまいと、私はそのまま三川研にいることになった。従って阪大では高分子半導体の三川先生と液晶の艸林先生のお二人からご指導を受けた。入学して最初、研究テーマとして三川先生は強蛍光性の液晶の研究を提案された。そこですぐ文献調査をしたところ、蛍光性の液晶よりも有機遷移金属錯体の液晶の方が、スペクトル的に液晶の構造や物性を金属をプローブとしてより詳細に研究できると考えついた。修士の研究からのアイデアである。またこの分野は世界中でほとんど誰もやっていない。フランスのA. M. Giroudと同じくフランスのJ. Maltheteの論文の2報があるだけであった。当時液晶といえば純粋な有機物と考えられていた。そこで、1週間後三川先生に、有機金属錯体の液晶を合成してその物性の研究がしたいと提案した。三川先生は、「そのような液晶は聞いたことがないが、おもしろそうなのでやってみ給え。」と許して頂いた。これがきっかけで、金属錯体の液晶の研究を始めた。私はD1のときGiroudさんと同じジチオレン系ニッケル錯体の液晶を合成していたが、収率が悪く1年近くかかってようやく100mg合成できた。しかし、この伝導度・誘電率を測る機械は液体用で最低でも1回1mlもいる。これではいつまでたっても研究は進まないと本当に悩んだ。そこでもっと収率の良いβジケトン系銅錯体を骨格にした新規な液晶を考えついて文献調査を重ねていた。D1も終わり頃になったとき、三川先生は私がうまくいっていないのを見かねたのだろう、「太田君、そろそろ助手の横山(正明)先生の研究の手伝いをして学位を取らないか。」と聞かれた。そこで、「今もっと勝算のあるβジケトン系銅錯体に長鎖アルキル基を導入する合成経路を考えついたのでやらせて下さい。」と答えた。D2になってからこの系で収率よく合成ができ興味深い多重融解挙動を見いだしたので、最終的に4報の論文が書けた。それで3年間で博士の学位が取れた。卒業の時三川先生には「太田君は立派だ。自分のアイデアで学位を取った。そして何より途中で崩れなかった。」とほめて頂いた。私は三川先生が我慢強く私のアイデアを私にやらせてくれたことが本当は大きかったのだと今も感謝している。偉大な指導者だと思う。
4. 東芝、東京大学そして信州大学
次ぎに、なぜその私が今信州大学繊維学部にいるかである。私は1981年に阪大で博士号をとってからすぐ東芝に就職し総合研究所化学材料研究所有機材料研究室に入った。入社前化学材料研究所の液晶研究者の松本正一さんの所を目指していたのだが、入社直前に松本さんは別の研究部門に移られたため、私はCCD用カラーフィルターの開発研究に従事した。丁度その頃、化学同人の「化学」に東大工学部の吉川貞雄先生と大学院生の宮村一夫さん(現東京理科大理学部教授)が「長鎖を有する金属錯体」という短い総説を出された。ミセルなどの他の話は出ていたのだが、金属錯体の液晶や多重融解挙動の話は出てこなかった。私は吉川先生にGiroudさんや私のような研究も世界にはあるから以後引用して下さいと手紙を書いて出した。すると吉川先生から東芝の私に電話があり、「大変おもしろい話だから、1ヶ月後の土曜日に研究室で講演して下さい。」と言われた。その指定された土曜日にスライドを持って、赤門まで来ると五月祭らしくテーマの立て看板があり「総長やめて下さい。逆噴射!」とあった。その年1982年2月羽田沖で日航機が機長の逆噴射で墜落したことをもじったものだった。吉川先生の部屋に訪ねていくと、吉川先生は一人で待っておられて、「太田さん、すみません。今日は五月祭で学生が一人もいない。だから私とだけお話ししましょう。」ということになった。話し終わると、吉川先生は「大変おもしろい話ですね、この研究は今続いていますか。」と聞かれた。「いえ、阪大では私しかこの研究をやっていなかったので続いていません。」「太田さんは本当は大学に残りたかったのではないですか。」「ええ、でも今の時代ポストがありませんから・・・。」「私がお世話しましょう。」と夢みたいな話だが、本当に吉川先生のお世話で、その年の12月に新設されたばかりの信州大学繊維学部機能高分子学科の助手になった。この研究室の教授は東大を定年になり信州大学に移られたばかりで、繊維高分子化学がご専門の松崎啓先生であった。あのポストのない時代に私がアカデミックポジションに就けたのは東大の吉川先生のおかげだった。また松崎先生は私独自の金属錯体液晶のテーマを続けてやらせてくれた。そのおかげで今まで30年間金属錯体液晶の研究を続けてこられた。私は多くの恩師に恵まれたと思う。
5. おわりに
研究とは先生と学生とのよい出会いの結果であるとつくづく思う。私は、信州大学に赴任してから丸25年が過ぎた。今まで多くの優秀な学生にまた恵まれ、おかげでたくさんのおもしろい研究(論文数126報)5)が出来たことを誇りに思う。定年までまだ10年あるので益々教育と研究に頑張っていきたい。私の所属専攻はグローバルCOEに選ばれており、博士課程の大学院生の授業料無料化や生活費援助が導入されている。是非、他大学からも当研究室へ進学されることを希望してやまない。
参考文献
1) 太田和親、山本巖、有機合成化学協会誌、49, 486-496(1991).
2)
K Ohta, M. Ikejima, M. Moriya, H. Hasebe and I. Yamamoto, J. Mater. Chem., 8, 1971-1977(1998).
3)
K. Ohta, K. Hatsusaka, M. Sugibayashi, M. Ariyoshi, K. Ban, F.
Maeda, R. Naito, K. Nishizawa, A. M. van de Craats and J. M. Warman, Mol. Cryst. Liq. Cryst., 397, 325-345(2003).
4)
C. Piechocki, J. Simon, A. Skoulios, D. Guillon and P. Weber, J. Amer. Chem. Soc., 104, 5245(1982); 太田和親、化学と工業、36,
904-905(1983).
5)
研究室URL: http://fiber.shinshu-u.ac.jp/lcgroup2/index.html
追記:2018年3月31日をもって、教授太田和親は定年退官し研究室はなくなった。4月1日からは、名誉教授、研究特任教授として、研究を続けている。
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