国家の興廃を決す電子ジャーナル問題
信州上田之住人 太田和親
平成27年(2015年)7月5日 随筆
平成27年(2015年)11月22日加筆修正
学術論文は最先端の研究を進める上で必要不可欠なものです。最先端の学術論文を自由に閲覧できることがその大学や企業、引いてはその国の盛衰・興廃を決する重要なインフラとなっています。西暦2000年頃より世界的に顕著となってきたことに、この学術論文を掲載する雑誌が冊子体から電子ジャーナル化していることが挙げられます。それまでの20世紀は、学術雑誌は紙による冊子体の発行が主流でしたが、いまや21世紀の今日、理科系の学術雑誌はほとんどがインターネットによる電子媒体の発行になりました。文科系の学術雑誌も、単行本出版以外は徐々にやはり電子ジャーナル化されてきています。近い将来、国際的な学術雑誌は理系文系を問わずすべて電子ジャーナル化するものと思われます。この電子ジャーナル化は、実は一般市民が気付かないうちに、現在世界的に大きな問題を引き起こしており、図書館の深刻な財政問題や一国の産業基盤を揺るがす大きな問題となっています。これは早晩国防上の問題にもなると考えられます。そのため電子ジャーナルの問題について、是非、一般の国民の皆様や為政者の方々にも知って頂きたいと思います。
電子ジャーナル化の大きなメリットは、電子ジャーナル化することにより、(1) 投稿および、査読、著者校正などのやり取りを、今までの郵便によるものから、全てインターネット経由で行えるので、発行までの時間を大幅短縮できる;(2) 紙による印刷発行費用と配送費がなくなり、インターネットで電子版として配送するので、費用が大幅に削減できる;(3)重量がなく場所をとらないので保管費用がかからない;(4) ID、パスワードを持っていてインターネットに接続できさえすれば、いつでもどこででも読むことができる、の4つだといえるでしょう。このような圧倒的な利便性のため、西暦2000年頃より世界的に、今までの冊子体の学術雑誌が、次第に電子ジャーナル化されてきました。今では、冊子体で購入することはまれになり、電子ジャーナルは、研究インフラとして各大学や企業の研究所に欠かせないものとなりました。しかしながら、電子ジャーナルは、今、各大学の図書館を財政的に苦しめる大きな社会問題となりつつあります。現在、私はある地方大学の図書館長を拝命しておりますが、この現代的な問題を、国民の皆様と一緒に考えてみたいと思います。
現在、各大学で購読している電子ジャーナルおよび学術情報データベース(以下、「EJ等」という)は、昨今の円安およびEJ等購読契約金額の毎年の値上がりのため、大学全体の予算にも少なからぬ影響を及ぼすほど危機的な状況となっています。電子ジャーナルにかける費用は、大学の規模にもよりますが、1大学で年間1億円から10億円に達しています。そして毎年約5%の値上げ要求と円安による高騰、来年度からはそれまでかかっていなかった消費税も政府の方針転換から加算されます。上に述べた電子ジャーナルのメリット(2)から考えれば、電子ジャーナルは大幅に安くなっていいはずですが、実際は冊子体の時よりも購入費が高くなっています。実は、EJ等の出版は欧米の大手出版社による寡占化が進んでおり、包括的購読契約の形態による大型パッケージ化が大規模に行われています。この大型パッケージの購読契約金額の値上げに対しては、一大学の努力ではもはや解決できない、世界的な問題となっております。現在、電子ジャーナルは、1雑誌ずつ別々に購入するのではなく、2000雑誌とか3000雑誌を一つにまとめて大型パッケージとして購入されております。これを包括的購読契約の形態といいます。そのため、大型パッケージの購入をやめると、2000雑誌とか3000雑誌がいっぺんに見えなくなるのです。また、冊子体と違って手元に残らないので、過去に購入していたものも見えなくなってしまいます。上のメリット(4)がここでは、逆にID、パスワードによりアクセス制限に用いられてしまうデメリットとして働きます。では2000雑誌とか3000雑誌もいらないから、以前のように1雑誌ずつ買えばいいではないかと思われますが、1雑誌ずつ積み上げていくと、とんでもなく高くなってしまう仕組みになっています。また日本国内では、欧米の出版社の大型パッケージに対抗できるようなものはほとんどありません。これが大型パッケージ購入費用が高騰してもすぐにやめることができないという理由です。また、この寡占化は、毎年繰り返される値上げを飲まざるを得ない状況を生んでおります。EJ等は大学における教育と研究の基盤であり、電気や水道と同じように不可欠なインフラです。したがって、高騰しても現時点で直ちにEJ等のパッケージ購入を止める訳にいかないのです。
これは国防上も大きな問題ではないかと思います。一冊一冊を紙媒体で購入していた2000年頃までと異なり、現在では、特に理工系分野において、紙媒体での購読は激減し、ほとんどがEJ等のパッケージという太いパイプによって流れてくる学術電子情報を入手するのが常態となっています。このパイプのバルブを閉められてしまうことは、直ちに教育・研究が止まるという極めて危険な状態になることを意味しております。20世紀は石油のパイプを止められて世界大戦が起こりました。21世紀は、情報のパイプを止められることによって世界大戦が起こるのではないかと、私は個人的に考えています。科学技術立国を標榜する我が国の政府には、電子ジャーナルの重要性とそれに潜む大きな問題に理解と有効な財政的な施策をぜひお願いしたいと思います。
我々大学関係者も少数の出版社によるEJ等の販売の寡占化の現状をよしとしている訳ではありません。これに対抗する方策として世界的な規模で、購入費が要らないオープンアクセス(OA)ジャーナルへの投稿と、各大学にここ10年ほどで整備されてきた機関リポジトリへの掲載が挙げられています。
OAジャーナルは、確かにだれでも無料で論文をダウンロードできますが、論文を投稿するとき著者負担の「論文処理費用(Article Processing Charge: APC)」が高額であり、1論文当たり10万円から中には40万円を優に超えるものもあります。全国的に大学の研究者の校費が一人当たり20万円から50万円程しかない現状を考えると、OAジャーナルに投稿して業績を上げることは困難であります。したがってOAジャーナルに投稿するときに「論文処理費用」を援助する制度を、各大学でも作る必要があると思われます。資金的に1大学で対応が困難であれば、文科省にも援助を仰ぐことが必要かとも思います。海外では、ドイツのように国家的な戦略として取り組んでいる事例もあります。
上述のもう一つの対抗手段である機関リポジトリとは、古くは、大学などの研究機関が独自に発行していた紀要(university journal)を発展させ、電子化したものと考えてもらえば分かりやすいかと思います。紀要は、大学の知的財産を記録保存するために非常に古くから世界中で存在していました。しかし、昨今では紙媒体で発行する意義がなくなり、現在、特に理系の学部では廃止されてきています。一方、各大学の論文や博士論文、報告書、教材などを電子化して各大学独自の機関リポジトリに保存公開することが、大学の使命と再認識されるようになり、近年ほとんどの大学図書館に設置されました。昔の紀要が今の機関リポジトリになったといえます。これは公開が原則なので、いわばオープンアクセスの電子図書館ということになります。これを積極的に利用しようという訳です。本年3月30日に内閣府から、国としてのオープンアクセス化の方針が検討報告書として公表されたことを受け、文部科学省では同日、まずは科学研究費補助金による研究成果論文を各大学の機関リポジトリに掲載を義務付け、オープンアクセス化を推進する方向性を明確にしております。また、機関リポジトリへの掲載の義務付けですが、これは、全世界的規模で大多数の大学が一致団結して行えば、全ての学術論文は無料で各大学のサーバーからダウンロードできるようになり、寡占化されたEJ等のパッケージ購読を止めることができる有効な方法です。その途中段階では、EJ等のパッケージ購読契約金額の高騰に対して歯止めをかけることができるでしょう。しかし、残念ながら大学の研究者には、各大学における機関リポジトリは一般の学会誌や商業誌に掲載された論文の(原稿の)コピーをここにも載せるだけものというふうにしか理解されていないため、コピーをわざわざ大学図書館に送付しない研究者が多数おり、積極的に活用されているとはいいがたい状況です。
大学の図書館が現在財政的に危機的な状況に陥っているのは、決して大学人が、野放図に無駄遣いをしたからではありません。国立大学の場合、財務省による予算には1% のシーリングかかけられていて,図書費も含め,毎年予算が削減されています。予算削減の結果,教員・学生一人当たりの校費もどんどん削減されています。大学の基本的なインフラさえ蝕まれている状況なのです。3 年前に第2次安倍内閣が発足して、国策による円安誘導でガソリンが急激に高騰したとき,イカ釣り漁船の団体が「このままでは生活が成り立たない」と声をあげて,政府が燃料代に補助金を出したことがありました。大学人は学問の世界にいるわけですが,大学だって同じことができると思うのです。世界的な寡占化と急激な円安で電子ジャーナルが高騰して、大学図書館は今存亡の危機にあります。自分たちの置かれている状況については,もっと声をあげて、政府をはじめ、産業界、一般国民にも広く知ってもらう必要があると思います。
第2次安部内閣が発足して、長年の日本の経済危機を克服するために円安を国策として誘導しました。それにより、この3年自動車業界をはじめ輸出産業は過去最高の利益をあげて、新聞紙上では円安誘導政策の華々しい成果として喧伝されております。一方、大学図書館では、3年ごとの電子ジャーナル大型パッケージの購読契約金額が、それまで1ドル80円だったものが1ドル120円で契約となりますので、一気に50パーセント値上げとなって跳ね返ってきました。大学の規模によっても違いますが、例えば、1億円で契約していたものが、一気に次は5000万円の値上げとなるのです。あるいは10億円が一気に5億円もの値上げとなるのです。この値上げに対しては、一大学の努力ではもはや解決できない、世界的な問題となっております。上にも述べたように、現在、電子ジャーナルは、1雑誌ずつ別々に購入するのではなく、2000雑誌とか3000雑誌を一つにまとめて大型パッケージとして購入する包括的購読契約ですので、値上がり分が払えない場合は、そのまま契約を打ち切り、次年度からは2000雑誌とか3000雑誌が一気に見られなくなります。これは、研究ができなくなることを意味しています。最新の研究情報が得られないところでは、世界の最先端の研究は不可能となってしまいます。これが5年10年と続けば日本の大学や企業の凋落は必然です。昨今自動車産業では1社で空前の1兆円や2兆円を超える利益が出たとの新聞報道を見るたびに、一国全体の平均的成長を考えるなら、自動車産業で出た利益を一社で内部留保せずに、その一部を大学の図書費用として寄付することはできないでしょうか。電子ジャーナルのほとんどすべてを海外からの輸入に頼っている日本の体制も問題ですが、かといって明日明後日の図書費がなく最先端の学術情報が得られない状況は大学人だけでは一朝一夕に解決できるような状況ではもはやないのです。西暦2000年以来日本人のノーベル賞受賞者が多数出ていますが、それは30年前の学術研究体制がしっかりしていたからであり、今のままでは早晩終息してしまうでしょう。
以上のように、電子ジャーナルは国家の盛衰・興廃を決する問題となっています。是非、為政者の皆さんをはじめ一般の国民に皆さんにも知って頂き、みんなでこの問題を解決していきたいと思います。
目次へ戻る>>