国分寺と国立大学の類似性

信州上田之住人
太田 和親  
2008124-28日随筆

1. はじめに
 最近、私は地方の国立大学の変容を体験しながら、次のような類似性に気が付いた。昔の地方の国分寺は今の地方の国立大学に当たる存在だった。そして昔の東大寺は今の東大に当たる存在だった。国分寺と国立大学、東大寺と東大、名前も似ているが、実は役割も似ていた。
 日本は歴史上、明治維新と同じような大変革を二度受けている。古代では中国文明を受け入れたとき、近代では西洋文明を受け入れたときの二度である。古代、中国文明を広く全国各地に受け入れるため、各地方に国分寺と国分尼寺を作った。近代、西洋文明を受け入れるために各地に国立大学を作った。古代では、各地の国分寺の総本山が中央にある東大寺であり、国分寺の最高峰のものだった。現代では、皆さんよく御存知の通り、国立大学の最高峰は東大である。従って、巨大文明を受け入れる仕組みとして、昔は国分寺があり今は国立大学があるといってよい。この小文で、国分寺の栄枯盛衰から現在の国立大学が今後どう変容していくか、考えて見たい。

2. 古代の国分寺と東大寺
 最近、私は古代の国分寺が現代の国立大学と同じ役割を担っていたのだということに気が付いた。
 先年、世界最古の木造建築である奈良の法隆寺を、奈良で開かれた国際会議のイクスカーション(遠足)で初めて行った。私は日本人だが法隆寺に今まで行った事はなかったので、大勢の外国人参加者と一緒に法隆寺にバスツアーで行った。聖徳太子が日本に仏法を隆盛させるため西暦607年に法隆寺を建てたというのは、日本人なら小学生の頃から習って知っている。でも、私は実際訪ねたのは四十代後半にもなっていた。国際会議場で知りあったインド人の研究者と一緒に法隆寺を巡った。図書館(経蔵)があったり、講義をする金堂があったり、講義時間を告げる鐘楼もある。建物の配置や設備から見てもこれは正に大学だ。僧は今の大学生だったのだと気が付いた。インド人の研究者に、これは古代の大学ですねと英語で話しかけたら、本当にそうですねとうなずいていた。
 また最近、NHKの人気番組「その時歴史が動いた」を見ていたら、飛鳥寺について大変面白い話を解説していた。古代、日本は、先進文明国の中国と国交を持っていたが、野蛮な後進国としての扱いしか受けていなかった。なぜなら、国家を運営するのに、法律もなく、中国の皇帝からどのように政治を行なっているのかと聞かれても、まともに答えられるような制度はなかったと中国の記録に残っているそうだ。飛鳥時代以前までの天皇はスーパーパワーとして多くの豪族の上に立ってはいたが、それをしのぐ強大な豪族が現れれば取って代わられる可能性があった。この頃の日本の天皇は不安定な政治体制の上にあり、部族集団の長のような存在であったようだ。実際、天皇が有力豪族に暗殺されるようなことがあったという。そこで、中国の進んだ政治制度や法体系を取り入れ、中国式の律令制の国家運営を取らなければ、強大な中国や朝鮮半島の国々から軍事侵攻があれば、日本全体の豪族が一致団結して反撃することは不可能であろうと考えつくものが、やはり現れた。その頃の日本を取り巻く国際情勢は極めて緊張した時代だったのだ。そこで蘇我馬子は、中国文明を受け入れる決意をし、古来の神道に固執する保守派の物部氏との内戦(587年)にも勝ち、日本で初めての仏教寺院である飛鳥寺を588年から596年にかけて建立した。そして、高句麗から高僧を招き自分の娘を尼にして、この高僧に就けて学ばせた。この新設の飛鳥寺を見た中国からの使節団は、東海の涯(はて)にもこのような立派な寺があり文字や仏法を学ぶ施設があることに驚いたという。これ以降、日本は進んだ中国文明を受け入れるために各地に本格的な寺院を建てていくことになる。日本は古代に、強大な中国文明を受け入れる「仕組み」として、寺が必要だったのだ。
 飛鳥時代、聖徳太子は仏教を国政の基本に据えた(594年仏教興隆の詔)。聖徳太子も607年に立派な法隆寺を建立する。そしてその同じ年、聖徳太子は隋の皇帝に宛てた手紙に、日本が対等の文明国であると宣言している。「日出ずる所の天子、日没する所の天子に送る。つつがなきや。」この有名な文言は、多くの日本人が知っているとおりである。その聖徳太子が建立した立派な伽藍がそろった法隆寺を、イクスカーションで見て、私もインド人の研究者もこれは古代の大学だと思ったのだった。
 奈良時代に入って、聖武天皇は日本全国に、国分寺と国分尼寺を建てた(741年)。これらの寺院は、日本全体に中国文明を行き渡らせ、律令制の確立に大いに役立ったなったものと考えられる。そして大陸や朝鮮半島からの進攻に備えて全国から防人(さきもり)を九州に派遣できるようになった。信濃国の小県(ちいさがた)郡から他田舎人(おさだのとねり)という人が、防人として九州に出発する際に歌った万葉歌が、上田市の上塩尻神社の境内に石碑として残っている。「からころも すそにとりつき なくこらを おきてぞきぬや おもなしにして」これを読むと、地方の一般人はまだ昔ながらの貫頭衣を着ていたが、防人として出発する際には中国式の服、つまり唐衣(からころも)が正式の軍服となっていたようだ。この他田(おさだ)は彼の唐衣に取りついて泣く子供をおいて来たのが忍びない、母親が既に死んでいないからと、嘆いているのである。私の父母の子供時代(大正時代)は地方の一般の人は皆和服を着ていたが、80年も経た今の平成時代、地方の人とて洋服を日常来ているのと同じで、中国文明がまだ十分に浸透していなかった万葉時代の古代の地方の一般人は、昔ながらの貫頭衣を着ていても防人のような正式の軍役の時は唐衣を着るのが義務だったのであろう。服装の変化から見ても、地方においても徐々に中国式の文明に染まっていったものと思われる。さらに聖武天皇は、これら地方の国分寺をまとめて統括する総本山として、中央の奈良には東大寺を建てて大仏を鋳造した(752年)。この東大寺の大仏開眼の式典は何とインドから高僧を招き国家の威信をかけて行なった。東大寺は律令制という国家の基本を深化広めるためにはなくてはならない大変大切な施設であったのだ。この時、聖徳太子が仏教を国の基本に据えると宣言してから、既に145年も経っていたので、あちこちで勝手に僧になって税金を逃れる人が大勢出てきていた。僧は、一種の学割みたいに、僧となって勉強しているときは、税金を払わなくてよいという恩恵を受けていた。食べ物も人々の喜捨によってまかなうことになっていた。従って、私度僧といって正式な寺に入らず勝手に自分で頭を丸めて僧になる人、つまり偽学生がはびこることになりつつあった。そこで、国分寺は国家が正式に認めた寺であり、ここに入って勉学すれば、正式な僧として認定される仕組みであった。国家に有用な優秀な人材育成のため、正式な寺を全国的に造ることは律令体制確立のために必要なことであったのだ。奈良・平安時代、全国の国分寺国分尼寺がよく機能し、日本の中で中国語、サンスクリット語の出来る僧が育ち、さらに優秀なものは選ばれて中国へ留学した。このような人々が先進中国文明を持ち帰り、中央や地方で政治や学問の中心となった。しかし時代が下ると中国文明が衰え、留学してもメリットが無くなり、中国語が堪能で中国文明の支持者であった菅原道真でさえ、とうとう遣唐使の廃止を決断せざるを得なかった(894)。これ以降、寺院の中で中国語やサンスクリット語に堪能な僧が激減していったと考えられる。従って、国分寺は、741年から894までの約150年間が、最も隆盛の時代であったのだろう。その後は律令制が徐々に崩壊していく中で、各地の国分寺を財政的に維持していくことが困難になって、廃寺されていくことになったのだろう。上田市にある信濃国分寺も平将門の乱(939年)の時、兵火にあい焼失している(将門記)。国分寺という仕組みの制度的寿命は150年くらいだったのだろう。鎌倉時代に書かれた沙石集には、経文の中国語が読めず内容が理解できないので、全巻揃っていない法華経だかに、別の経文を付け足して数合わせだけして平気な愚かな僧達の話が出てくる。平安時代末期から寺院の衰退や僧侶の堕落が著しい。ちょうどその頃の人に道元という人がいる。道元は平安末期から鎌倉初期の人で曹洞宗の開祖である。その道元は、当時日本の国で高僧といわれる人から教わることは、形骸化していて本質がなく、彼らの教えは、彼の表現によれば、土や瓦のごとく思えたと言っている(正法眼蔵随聞記)。それで道元は、鎌倉時代の初期に当時としては珍しく中国へ留学している。
 こうしてみてくると、寺院は飛鳥時代から学問の中心として成立し、奈良時代・平安時代初期にかけて大いに発展し、平安中期から末期にかけては次第に衰退していった様子が概観できる。平安時代の文学を読むと他の時代を圧倒する素晴らしさが胸を打つ。日本人が文字を使いこなせるようになったのは寺院の発展があったからであり、政治が安定したのは、国分寺から人材が持続的に輩出できたからであろう。その国分寺の栄枯盛衰と、古代日本の律令制国家の栄枯盛衰とは軌を一にしていると考えてよい。また、国分寺の総本山である東大寺の、奈良・平安期における国家への発言力が、非常に大きかったことも理解できる。
 しかしなぜほとんどの地方の国分寺が廃寺になってしまったのだろうか。私は次のように考えている。多くの国分寺国分尼寺を国家の税金でまかなっていたが、学問僧が増えると国家の財政ではやっていけなくなった。また、僧は税金を払わなくてよいので、勝手に私度僧になって働かず納税しない人が増加した。たびたび取り締まっても田畑から逃亡して私度僧になる。僧という身分は税金逃れの隠蓑となっていった。正規の国分寺国分尼寺の運営だけでも大きな出費で大変なのに、私度僧まではびこっては大きな収入減で、財政的にやっていけない。国家は増収を図るため墾田永代私財法を作り、自分で開墾した新田は自分のものにしていいという法律を作り田畑の面積拡大を目指した。しかしこの法は公地公民の律令制度を根本から揺るがし、私有の荘園の増加とそこへ逃げ込む人々の増加を招く。荘園へ逃げ込めば国へ納税しなくてよい。役人が来ても自警団が追い払う。そして荘園の自警団がやがて武士団として成長し勢力を伸ばして、貴族と対立する勢力となっていく。このように墾田永代私財法が荘園を増加させ、ひいては武士階級を生んだのだ。公地公民の制度の崩壊が、律令制度の上に立っていた各地の国分寺を廃寺に追い込んでいったといってよい。そして、その総本山の東大寺は、平安末期に平氏の南都攻撃の際に炎上してしまう(1180年:平家物語)。これは、新興武士階級が、古代の知識階級を凌駕した象徴的事件だと思われる。僧侶による知識力よりも、経済力を備えた武士階級による武力の方が勝る世の中が来たのである。

3. 近代の国立大学と東大
 さて、近代である。日本は明治維新により西洋文明を受け入れることにした。いわゆる文明開化である。今までの古い文明のままだと、西洋の圧倒的に進んだ科学技術や軍事技術により、植民地にされてしまう。西洋文明をいち早く取り入れ、西洋式の文明国にならなくてはいけない。そのためには、国内に学制をしき大学を設立して、西洋文明を受け入れる「仕組み」がなければならない。そのためはじめは沢山の日本人の若者を西洋先進国へ留学させ、また御雇い外国人を、日本の出来たばかりの大学へ教授として招いた。明治20年くらいまでになると留学から帰ってきた日本人だけで大学を運営できるようになってきた。このあたりの時代の雰囲気は、司馬遼太郎の「坂上の雲」に詳しく、明治青年の大いなる気概が感じられる。近代・現代の大学は、明治以降、大きな西洋文明を受容するための仕組みや仕掛けであったことがわかる。明治以降の日本の近代化は、大学を筆頭とする教育制度が支えたといえる。江戸時代の封建社会ではいくら能力があっても身分が固定したままで、農民の子は農民、武士の子は武士であり、たとえ武士であっても下級武士であれば藩主になれることは決してなかった。福沢諭吉が「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」と言ったのは、いくらオランダ語と英語に堪能で能力のある福沢も、江戸時代が続いていれば下級武士のままで世に出ることもなく後世1万円札の肖像画に載ることもなかった。明治時代になり、どんな身分のものも学問さえすれば出世できますという機会均等の世の中になった。その福沢諭吉の書いた「学問のすすめ」が空前のベストセラーになった。あの時代に300万部も売れたというから、当時の人口が3000万人くらいだったろうから、物すごいベストセラーである。十人に一人の国民が買ったことになる。今だったら、1300万部くらいの売り上げということになるだろう。「学問のすすめ」は明治時代の日本の時代精神を表したものだったのだ。いかなる貧農の子に生まれようとも、学問さえ出来れば「末は博士か大臣か」という出世のチャンスがある。この時代精神が日本の近代化に大いに貢献した。だから進んだ西洋文明をいち早く受け入れ、日本はアジアで植民地にならなかった唯一の国になったのだ。
 教育が日本の西洋化の基本となった。そして明治以降、大学が進んだ西洋文明を受け入れる仕組みとして設立された。戦前は帝国大学を、戦後は地方の各県に一つずつくまなく新制の国立大学が設置された。また私立大学も戦前から設置され、戦後も多数設置され続けた。特にここ十年は設置基準が緩和され新設数がものすごい数になっている。2008年のセンター入試に参加した国公私大は777校であった。うそ800ではないが、今、日本中の大学数は約800である。ここ10年で400校ほど増えた。これだけの数になると、同一世代の約50パーセントが大学に進学していることになっている。国は国立大学ばかりか私立大学にも私学助成という形で財政援助をしているから、これほどの数の大学の面倒を国税で見ることはもはや不可能であることは明らかである。2004年にそれまで99あった国立大学を独立行政法人とし、さらに毎年1パーセントずつ国からの交付金を削減することにした。各独立行政法人は、ベンチャー企業などを興して独自に収入を得るようにと、護送船団方式から個別自営方式に方針を変えた。独立行政法人国立大学は、今合併により87大学になっている。教官は非公務員扱いとなってあたらしく教員と呼ばれるようになり、失業保険に加入しなければならなくなった。つまり、私企業の会社員と同じ扱いになった。財政的に自主運営できない大学は、国立大学といえども、倒産する可能性が現実に出てきた。また、私立大学もこれだけの数になると、一律の私学助成は、国の財政に大きな負担となり、削減の方向にならざるを得ない。従って、かなりの数の私立大学が今後10年以内に倒産するだろうと言われている。
 また、同一世代の約50パーセントもの若者が大学に進学して、これだけ多くの大学生がいると、大多数の大学生の学力レベルというものが極めて低くなってきている。大学生なのに勉学しない。大学入学以前の高校や中学での学力が身に付いていないので、中高のレベルの補習授業をしないと大学の勉強についていけないものが多数存在するようになった。では、そんなにしてまで大学に行かずに社会に出て働けばいいといっても、高卒の就職口が非常に少なくなり雇って貰えないので、とりあえず大学生になっているものも多数存在する。大学生として在学していれば学割もきき税金も納めなくてよい。従って、このような社会の仕組みから、早くから社会に出ようにも出られない状況ができ上がっている。こんなことで若年層からの税金があがらなくなってしまっては、年金制度は破綻するから、国は10年ほど前から20歳になれば、強制的に大学生であっても国民年金を払わせるようにした。しかし、1ヶ月14400円もの保険料を自分で払える大学生はまずいないから両親が払うか、両親も払えないと猶予届けを出すことになる。4年も6年も大学にいるから、猶予届けを出して待ってもらっていても就職して月々払うようになると、今度は猶予期間中の割り増し分も加算されているので月々の支払い額は大きく、正規社員にならないかぎり払えない。非正規雇用が労働者の4割にもなっているから、結局、論理的に考えても4割の人からの国民年金は未納になってしまう。働いても働いても日々の暮らしに追われてしまう非正規雇用の社員が若者を中心に極めて多くなっており、若者は、社会の仕組みから貧困層に転落させられるようになってきた。大学に行く数を減らせといっても非正規雇用の働き口しかないのでは、とりあえず大学に進学しようという若者や大学に進学せよという父母が多いのは当たり前だ。実はこの現象は欧米や日本などの先進国に共通して起っているのだ(潮木守一:世界の大学危機)。西洋文明の病理というものだろう。
 明治元年(1868年)から今年(2008年)で140年、大学という仕組みの制度的寿命が約150年だとすると、後10年で、国分寺と同じように隆盛の頂点を通り越して衰退へと転じるのだろうと思う。国分寺の廃寺は、国家財政による援助がなくなって起った。地方の国立大学もきっと同様なことがこれから起るのだろう。地方の国立大学の財政破綻は、国民の知らないところで進んでいる。総額28000億円の近く借金を、全国の独立行政法人国立大学は、今後自主努力によって支払うように制度設計されて、2004年国立大学は国の護送船団方式から切り離された。法人ごとに財政再建に努力せよということになっている。そのことは、平成17829日付けで文科省から発表された「国立大学法人の平成16事業年度財務諸表の概要」http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/17/08/05090601/all.pdfに明確に書いてある。これによれば、国立大学全部の資産の総額は全国立大学法人合計で9兆793億円、負債の総額は2兆8千20億円である。独立行政法人化したので当然であるが、この借金は国が肩代わりするのではなく各大学が自分で稼いで支払うことになっている。しかし、これらの借金は教員が野放図に赤字を繰り返したからではない。これらはほとんど国立大学病院が、国民のため高度医療を開発する目的で、国から財政投融資を受けたものだ。例えば、信州大学医学部で盛んに行われた臓器移植は11000万円から3000万円位かかるといわれていたが、開発途中で成功するとは限らない医療なので、保険は適用されない。したがって本当は全額患者が支払わなければならなかった。しかし、患者に全部おわせてしまうと患者はこの高額な手術代を払えなければ、死ぬしかない。さらに、患者側でも大金をはたいてなお失敗の可能性があるハイリスクの医療を受けることには躊躇する。そういう状況では、高度医療の開発は出来ない。そこで、これらは国民の為に高度医療を開発するという大義名分により国からの財政投融資(郵貯や簡保が財源)という、表の国立大学予算には出ない、文部官僚の采配で受けた裏の研究費でまかなっていたときく。2002年、時の小泉内閣はこの官僚主導の財政投融資は政治家が知らないうちにどんどん赤字が増える元凶だ、けしからんと、いろんな分野のものを一切やめさせた。さらに2004年、国立大学が独立行政法人化されたときに、今までの財政投融資分は各大学の借金として背負わされることになった。今これらの国立大学の多額の借金は、各大学で教員の給与や研究費、学生への教育費を削って支払っている。誤解を恐れずにいうと、1990年から2002年までに多数の患者が信州大学で臓器移植手術をうけたが、それらから発生した赤字は、今信州大学の教職員の給料や学生の納付金を削って払っていると言えなくもないのだ。善良な教職員や学生に何の非もない。ひどい政策だと思う。ちなみに、信州大学医学部は1990年から2002年の参議院議長河野洋平氏の生体肝移植まで、臓器移植を多数行い華々しく活躍していた。しかし、2002年財政投融資がなくなりさらに2004年に独立行政法人化されたのに呼応して、信州大学医学部では河野洋平氏の手術以後5年間臓器移植の手術は一つもされなかった。また、多数の臓器移植手術をされ活躍されていた幕内雅敏先生は、国立大学の独立行政法人化の丁度その年、2004年の4月に、東大医学部に移ってしまわれた。幕内先生の移籍は、財政基盤の弱い地方大学の独立行政法人化の影響といえるだろう。さて、この財政投融資による多額の借金のことは一般国民にもまた国立大学の教職員にも広報されていない。ただ、上のインターネットのウェッブサイトに情報公開されているだけなのだ。だから知らない人がほとんどである。なぜこんな情報の出し方をやっているのだろうと疑問に思う。国立大学の理系の研究室では、独立行政法人化前の西暦2000年頃までと比べて、法人化後国から来る研究費は10分の1になっている。一般の国民に信じてもらえないほど急減してしまった。理系の標準的研究室では、年間必要研究費の20分の1くらいしか国から交付されていない。自助努力といっても限度がある。おそらくこのままだと、これから10年以内に、地方の国立大学で特に医学部を持っているところは上に述べたように多額の借金を抱えているので、白い巨塔どころか白い廃虚になるだろうと予想されている(日経新聞20060821日:岐阜大学学長 黒木俊夫)。国民の知らないところで、国立大学、特に地方の国立大学の財政破綻が進行している。
 国に現在800兆円もの借金があるのだから、国民皆で何とかしないといけないのは当然である。しかし、各地方の教育研究の拠点である国立大学がこのまま廃校になっていいのだろうか。古代の地方の国分寺が、中国文明を受け入れ律令制の下支えをいていたにもかかわらず、国からの財政支援がなくなって、ほとんどが廃寺になっていったように、現代の地方の国立大学も、西洋文明を受け入れ科学技術立国の下支えをしているにもかかわらず、国からの財政支援が急速に減少していき廃校になっていく運命にあるのだろうか。当時の中央にあった奈良の東大寺は今も残っているから、現在中央の東京にある東大は今後も残るだろう。しかし、地方の国立大学は、今のままでは後10年も持たないところが多いと思う。

4. おわりに
 古代の墾田永代私財法が地方の国分寺の根幹を揺るがしたように、現代の国立大学独立行政法人化法が、国営から民営化の風潮にのり、地方の国立大学の根幹を揺るがしていると言える。
 私は、最近、以上のような古代の地方の国分寺と現代の地方の国立大学との類似性に気付き、今後100年間に地方国立大学がどのように変容していくか予言できるような気がしている。100年後、200年後、野原になって土台だけがかろうじて残っている場所を訪ねた人に、ここに実は昔国分寺があったと言うように、ここに今は正門しか残っていませんが、実は昔ここに国立大学があったのですと、私たちの子孫が言っているかもしれない。




目次へ戻る>>