正法眼蔵随聞記から考える2:
昔供養と今研究費
信州上田之住人
太田 和親
2006年7月12-14日随筆
最近、約800年前に曹洞宗を開いた永平寺の開祖である道元、その人の言葉を、弟子の懐弉がまとめた「正法眼蔵随聞記」という本を、私は夜な夜な読んでいる。昔の道元の言葉に、今の日本の世情に対して、大きな警句が潜んでいるように私には思えた。大変感銘を受けたので、下記の部分を引用して皆さんと一緒に考えてみたい。
正法眼蔵随聞記
懐弉編 真継伸彦訳
その一の四より ( )内は私が読替
「僧(学者)の堕落は多くは富裕な家(研究室)が原因となるものである。釈尊の在世時に堤婆達多<ダイバタッタ>が嫉妬心を起こしたのも、彼が阿闍世王から日に五百車の供養(寄付金)を受けるようになったことが原因であった。彼はそれゆえ釈尊の地位を奪おうとした。富は自分を堕落させるだけではない。他人にも悪事を働かせる原因になることをこれは物語っている。真に仏道(学問)を学ぶものがどうして富裕であってよいだろう。たとえ清い信心から施された供養(寄付金)であっても、多く積もってくれば、恩に着て報いたい気持ちになるものである。
まして、我国の信徒は、自分の利益を考えて布施(寄付)する。笑顔でむかって来る者には愛想もよくなる。それが人情というものであるが、他人に追従すれば学道の障害となろう。ひたすら飢え(研究費欠乏)を忍び、寒さを忍んで学道に専念すべきである。」
以上は僧(学者)の心得として、道元が弟子(学生)に述べたものである。
今年(2006年)、早稲田大学の松本和子教授が研究費を不正に使用していたことが明るみに出て、現在世情を騒がしている。近年、研究費をアメリカ式に一部の学者に集中配分し、それまでの平等分配をやめた。研究費獲得競争させることにより、大学を活性化するという理由である。松本教授にはここ数年間で3億円以上の研究費が配分されたという。しかし、あまりにも多額であったので、使い切れなくなり、つい魔が差して私腹に入れてしまったようだ。お金でスポイルされてしまったといって過言ではない。身に過ぎる多額の研究費が、松本教授をして悪事を働かせる原因になったことをこれは物語っている。2500年前の釈迦在世時のダイバタッタとなんら変わらない。
正法眼蔵随聞記
懐弉編 真継伸彦訳」
その三の三より ( )内は私が読替
「ここで仏道(学問)を学ぶ者に出来<しゅったい>するあやまりは、人に貴ばれ、財宝(研究費)を得られたことでもって、徳があらわれでたと、自分も思い、人もみなすことである。これこそ悪魔が心に取りついたと知らねばならぬ。とくにかえりみるべきである。経典の中にも、これは魔の所行であると説かれてある。天竺、唐、日本の三国において、財宝(研究費)に富み、愚人の帰敬をうるをもって仏道(学問)の徳とせよとは、いまだに聞いたことがない。道心といえば昔より三国の修行者はすべて、貧しく、身を苦しめ、節約して、慈悲心と道心とをそなえている者を、真の行者(学究者)と言うのである。おさめた徳があらわれるというのも財宝(研究費)が豊かで、供養(寄付金)の多さを誇るのを言うのではない。」
* 上に引用した「その一の四」と併せて考えると極めて示唆に富む。
* 学問の徳=学徳とは何だろう。おさめた学問からおのずとあらわれる能力や品性を言う。
今年になって世情を騒がせている、ホリエモンこと堀江さん、村上ファンドの村上さん、そして早稲田大学の松本和子教授、みんな「悪魔が心に取りついた」のだろう。これらの事件は、みんなお金が人を狂わせた例である。そして、この人たちはみんな東大出のエリートと一応世間がみなしている人たちである。上の道元の言葉からすると、みんなお金があっても、徳が無かったということになるだろう。
徳を品性・品格と言い換えると、最近ベストセラーになっている藤原正彦著「国家の品格」が思い浮かぶ。この藤原先生の本もまた、現在の我国は拝金主義が横行し徳をなくしてしまって「悪魔が心に取りついた」状態になっていないか、と問うている気がする。
我々日本人は、上に引用した800年前の道元の言葉を今一度噛みしめるべきだと私は思った。皆さんはどう思われますか。