村上春樹著「ねじまき鳥クロニクル」と多重人格

信州上田之住人
太田 和親  
2006528日随筆

最近、村上春樹の大長編小説「ねじまき鳥クロニクル」3部作を読みました。私はこの作品が「多重人格(解離性同一障害)」を扱っていると思いました。皆さんはどう思われますか。本当は扱いにくい難しいテーマです。たぶんそれで村上春樹さんは、一言も多重人格とは言っていませんが、見事な筋書きで「私が私でない人たち」をソフトに扱って、我々に自分とは何かを考えさせていると思いました。以下私の意見を述べたものです。御一読の上、御感想をお聞かせ下さい。
 大長編小説「ねじまき鳥クロニクル」3部作は「私が私でない人達」1)を一貫して描いた作品だと思った。登場人物はそれぞれ程度の差はあれ、私が私であることが疑問であったり、苦痛であったりする人達である。

 主人公の妻クミコは、幼い頃の一時期、両親から引き離され祖母の手で育てられたが、祖母の溺愛と虐待という愛憎の両極端な育て方のため、人格形成に重大な影響を受ける。祖母から殺されそうになったとき、自分は自分でなくなった。そして、その時期のことがまるで思い出せなく、すっぽりと空白になっている。また、両親の元へ戻った後も、家族の中でクミコは姉とだけしか心を開けられなかった。その最愛の姉を自殺で失う。姉の自殺は、兄が姉を性的に汚したからだった。クミコは、人に言えないこのような異常な家庭環境から多重人格者になったようだ。著者は一言もクミコのことを、多重人格者とは言っていないが、「すっぽりとその時期が空白になっていて思い出せない」という症状は、多重人格特有のものであり、多重人格障害は明白である。また、加納姉妹の妹の方の加納クレタもまた、多重人格者である。クミコの夫、主人公の岡田亨が、ある夜、妻の出奔後一人暮らしの家に帰ってベッドに入ったら、何と加納クレタが裸で眠っていた。朝起きて、加納クレタに岡田が聞いた。「何でここに裸で来たのか?」「服も靴もなくしちゃったんです。」「どこで、どうして?」「それがわからないんです。気がついたら、ここで裸で寝てたんです。」これじゃあ読者は訳がわからない。嘘だろうと思う。しかし、これは、多重人格者に特有な症状で、Aという人格(つまりAという人)で行動していたが、ある時点でBという人格(つまりBという人)に入れ替わった後、Bという人はそれまでのAという人が何をしていたか思い出せない。ぽっかり時間的空白になっている。この多重人格の症状を知っていると、加納クレタが嘘をついているのではないことがわかる。

 著者の村上春樹はこの作品で、「一つの肉体に一つの自分というものが入っているのが当然だと皆さんは信じているが、本当だろうか?自分は何故自分なのか?私はどうして私なのか?」ということを、一貫して問いかけていることに、読者は気づくだろう。 私という肉体に、私という精神(人格)が入っている。しかし本当か?例えば次のような例はどうか。肉体と精神の乖離が起こって抜け殻になった人(間宮中尉)、肉体から精神が幽体離脱した人(シナモン)、私という肉体に入っている私というのは一体何なのか疑問に思っている人(笠原メイ)、私という肉体に何人もの人格が存在する人(クミコ、加納クレタ)。これらの人達は、「私が私でない人達」1)あるいは「私が私であることに苦痛や疑問を抱いている人達」である。

 私は、この村上春樹の大長編小説を読んでいて、これは現代版「源氏物語」2)だと思った。皆さんよく御存知のように、「源氏物語」は男女の性愛について様々な情景を描いたものであるが、またそのトラブルから起こる様々な精神的な症状も記している。これが千年前のものとは思えない普遍性がある。一条御息所(生霊、激しい嫉妬による幽体離脱)、黒鬚の大将の北の方(夫の浮気による精神障害と離婚)、浮舟(悲恋と激しい喪失感による記憶喪失、私が誰なのか思い出せない)など、様々な症例を描いている。そのような類似性から、この村上春樹の大長編小説「ねじまき鳥クロニクル」は、現代版「源氏物語」2)だと思う所以である。

 多重人格については、その発症の原因の多くが幼児期の家庭内で受けた肉体的精神的暴力や性的虐待によると言われており、女性に多く、男性には少ない。男性では戦争中の異常体験による発症が少数見られるとされている1)。従って、医学関係の書物では、極めておぞましい例、父親が娘をレイプするなどにより発症した事例が多く書かれており、読んだものに吐き気をもよおすことがしばしばである。しかし、本長編小説は、その点をうまくぼかしてある。難しい話題を扱っている本作品の大きな救いは、夫の岡田亨の妻クミコへの愛情がそれでも変わらず、クミコの心の闇に潜むもう一つ別の人格(電話をかけてきたなぞの女)を消し去り3)、自分の元へ取り戻す努力を最後まで続けて、ひたすらクミコの帰りを待つことである。岡田亨は井戸の底に下りて瞑想し、クミコの別人格が住む謎のホテルの208号室へ入る。井戸は無意識の世界への入口の比喩である。岡田亨は見事、クミコの別人格を消滅させることに成功する。読者は夫岡田亨のひたむきさに、妻クミコへの愛情を感じほっとする。「汝は(妻が)病めるときも、妻を愛せるか」「はい」。これを最後まで実行した岡田亨は立派だと感じ、救われた気持ちになる。岡田亨は夫の鑑である。

 以上のように、本長編3部作は、「私が私でない人達」を一貫して描いた作品である。

参考文献等
1 ラルフ・アリソン、テッド・シュワルツ著、藤田真利子訳「『私』が私でない人たち」、作品社(1997)。
2 紫式部著、瀬戸内寂静訳「源氏物語」、講談社(1997)。
3 人格統合という。1)のアリソンが世界ではじめて開発した多重人格障害の治療法で、ばらばらになった複数の人格を1つに統一することを言う。カウンセリングによりサブ人格を消していく。



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