アイヌ人遣唐使となる
2012年7月8日随筆
信州上田之住人 太田和親
10年ほど前、日本書紀を読んでいて、非常に興味深い史実を知った。斉明朝5年(西暦659年)に、遣唐使が蝦夷の夫婦一組を連れて、唐に渡り、唐の皇帝に謁見したとあった。
当時、今の新潟県から宮城県に線を引き、この線より以北は、蝦夷の人々の住むところで、律令制の朝廷の力が及ばない地域であった。そのため淳足(ぬたり)の柵などの砦を築き、そこへ兵士を派遣した。さらに、農民を別の国からそこへ移住させて、開拓農業をさせた。兵士には、農民を蝦夷の襲撃から守らせた。日本書紀や続日本紀には。どこそこの国の農民○○人を、どこそこの柵に移住させたというのがたびたび出てくる。特に続日本紀には、律令制の国家建設を徐々に東北へ南西へ拡げていく様子が見られ、非常に興味深い。東北では蝦夷を追い払うか同化しながら領土を拡げた。また、南西では、隼人を鎮圧したり、同化した隼人には官位や爵位を与え慰撫したりした。また、屋久島や種子島、奄美、久米島など今の南西諸島へも役人を派遣して、島々を帰属させていった様子も書かれている。だから、日本書紀や続日本紀には、東北や南西へ国土を拡げていく時代の正史が書かれている。
このような時代に、遣唐使が、蝦夷(アイヌ人)の一組の夫婦を連れて、唐に渡ったことが、日本書紀に書かれているのだ。その後、この蝦夷の夫婦はどうなったのか。日本書紀にははっきり後でどうなったのか書いていないので消息が分からず、私は何年も気になっていた。
最近私は、藤堂明保先生らが訳された「倭国伝――中国正史に描かれた日本――」(講談社学術文庫)という、漢文の白文、書き下し文、現代語訳が載った本を買って読んだ。その中の新唐書日本伝に、遣唐使と一緒に渡った蝦夷(アイヌ人)のことが出ていて、大変興味深く読んだ。この中国側の正史を読むと、この蝦夷の男は、弓の名手で百発百中だったそうだ。彼らは蝦夷の習俗を中国の人々に披露するために日本から、遣唐使と一緒に唐へ渡ったのだろう。その後、日本に帰国したのかどうか、日中両国の正史には記述がないので不明である。夫婦で行ったということは、そのまま夫婦で唐に残ったのかもしれない。しかし、遣唐使とともに、蝦夷の夫婦が唐へ行ったことはもっと日本中で知られてもよいと、私は思うが皆さんどうだろう。
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