日本国人と呼んではどうか

信州上田之住人
太田 和親  
200185-8日随筆
200277日訂正加筆

 日本国は、大和民族だけで成立しているのではなく、アイヌ人、ギリヤーク(ニブヒ)人、オロチョン(ウィルタ)人、小笠原白人などからなっている。アイヌ人のことはほとんどの人が知っているが、ギリヤーク人やオロチョン人になると一般には知られていない。

 ギリヤーク人はかつて7〜13世紀頃に、知床半島あたりからオホーツク沿岸、樺太、沿海州のアムール河河口にかけて住んでおり、オホーツク文化人として羅臼などに遺跡を残したが、その後はアイヌ人に押されて北海道オホーツク沿岸からは消えてしまった。彼らはおそらくアイヌのユカラ(英雄叙事詩)に出てくるレプンクル(沖の人)で、昔、アイヌ人と戦った人々あろう。坂上田村麻呂の時代、青森のあたりの海岸に逃げてきた北海道のアイヌ人たちが、坂上田村麻呂たちに、異民族(ギリヤーク人と思われる)が北から攻めてきたので難を逃れてここまで南下して来たのだと、話したことが記録に残っている。江戸時代には、ギリヤーク人はほぼ樺太の北半分とアムール河河口あたりに住んでおり、間宮林蔵は、北樺太に住むギリヤーク人の村長の助けを借りてアムール河中流のデーレンまで、すなわち清国の出先機関があったところまで行っている。当時、樺太の南半分に住んでいたアイヌ人たちは日本の番屋に貢ぎ物(今で言う税金にあたる)を納め日本国に属していた。一方、樺太の北半分に住んでいたギリヤーク人たちは清国に朝貢し清国の領民であった1。そのため、ギリヤーク人の村長は定期的にデーレンまで貢ぎ物を届けに行っていたのである。間宮林蔵はその村長に同行したのだった。現在、網走市あたりに住んでいるギリヤーク人は、戦後、南樺太道2から北海道へ日本国人して引き上げてきた人たちである。ところで、日本人で北見市か網走市かの出身で、種田さんという人がいる。種田さんは30カ国語ぺらぺらという人で有名な方であるが、少年の頃、網走に住むギリヤーク人の中村何とかというおばあさんのギリヤーク語の録音テープを聴いてから、語学に目覚めたという。樺太ギリヤーク語の本は戦前の昭和17年に朝日新聞社から出たものがあるだけである。私はこの本を大阪の古本屋で見つけ、買って持っている。大変貴重な本である。また、大阪あたりで活動している大道芸人に、「尼崎ギリヤーク」と名乗る人がいるが、この人は南樺太道か北海道出身の方であろうか。大阪あたりで、ギリヤークという名前を聞くのは大変珍しく、また体中白く塗って路上で踊っているというので、ちょっと近寄りがたいが、出身を聞いてみたいものだ。

 一方、オロチョンの人たちはオロチョンの火祭りで有名であるが、北方少数民族資料館「ジャッカ・ドフニ」を19788月網走市大曲に創設した初代館長の北川源太郎さんによれば、オロチョンの火祭りというのは本当はなく、熊祭りしかないそうで、誤解だそうである。オロチョンは自称ウィルタといい、トナカイを飼う人という意味である。やはり北方系の民族でありシベリヤから満州にかけて住んでいるツングース系の一民族である。北川源太郎さんは、ウィルタ名をダーヒンニェニ・ゲンダーヌといい、樺太ポロナイ河口オタスの出身である。ここに住んでいた10数人のウィルタの人たちも戦後南樺太道から日本国人として引き上げてきた。なぜ一緒に引き上げてきたかというと、戦前は南樺太道に少数ながら住んでいたオロチョン人やギリヤーク人は日本国人なので一緒にソ連と戦っており、もしそこに残ればソ連に捕らえられてしまうからである。彼らは、雪上のトナカイを飼育したり、氷上のオットセイなどを鉄砲で狙って捕ったりして暮らしていた。そのため雪中や氷上の行動には慣れており、酷寒の軍事行動において彼らの能力は高く買われていた。北川源太郎さんなどは日本国人としてソ連と戦いシベリヤに抑留され、大変な苦労をした。日本国人として戦争で一緒に戦ったのに、引き上げてから軍人恩給などが支給されず、市役所や役場に言いに行ってもなぜ国から支給されないのか市役所や役場ではかわからないと言う答えであったという。北川源太郎さんがおじいさんになって札幌移り住んだ1980代の後半に、NHKテレビに出て、こう語って政府の無策に憤慨していたのを思い出す。最近、狂牛病やHIVの対策を長年全く講じなっかったことで話題に上った農水省や厚生省官僚の無作為と同じである。これらの少数民族の人達は中央政府にアイヌ人以上に存在さえ忘れ去られているのであろう。だから1986年の中曽根首相の日本人は単一民族という発言が出るのである。この発言にはアイヌ人を中心に激しい反発があった。当時パリに住んでいた私さえもこのことをニュースで知っていたくらいである。しかし、オロチョン人やギリヤーク人の人達はアイヌ人以上に、一般に知られておらず残念である。最近、オロチョンという名の即席ラーメンが出てテレビでコマーシャルをやっていた。何で、ラーメンの名前がオロチョンなのかわからないが、一般の人達にもっと知ってもらいたいものである。

 さて、小笠原白人は、江戸時代から小笠原に住む、ポルトガル人などの漂着船員の子孫である。江戸時代から小笠原は日本の領土であったので、白人であっても元々日本国人である。シボレー家は、瀬堀と言う漢字を当てていると聞いた。幕末のペリー来航の折り、諸外国に小笠原諸島を、国際的に日本の固有の領土と認めさせる外交努力があったと聞いている。戦前、アメリカとの戦争が激しくなったとき、島民は本土へ疎開したが、目が青いのでスパイに間違えられて大変苦労したという。男たちは日本海軍の兵士として戦争に行ったそうだ。戦後島民は小笠原諸島に帰ったが、1972年に、沖縄とともに日本に返還されるまでアメリカの統治下にあった。1972年、東京都から小笠原の義務教育のため、派遣された先生が書いた本を読んだことがある。戦後生まれの子供たちは、アメリカ統治下、英語で教育を受けていたので、派遣された小学校の先生は英語のできる先生であったが、日本語へ教育システムを切り替えるときの、滅多に聞くことの出来ない、苦労話が書かれてあり大変興味深かったのを覚えている。

 沖縄の人達は、独自の王朝を唯一つくっていたので、明治以前は日本国とは別の国家であった。しかし、沖縄の言語は、奈良時代に日本語から分かれたことがはっきりしている世界で唯一の言語である。方言と言われているが、沖縄の言葉は、標準語からは容易には、というより全く理解できないので、標準語と沖縄方言の差は、フランス語とイタリア語の差よりもずっと大きく、ヨーロッパだったら別の言語と分類して差し支えないくらいである。彼らの言葉は、「うちなーぐち」と呼ばれ、沖縄人は「うちなんちゅう」、本土の人のことは、「やまとんちゅう」という。この表現から伺えるのは、私見ではあるが、沖縄・琉球人は、大和民族に属さないと言っているのではないかと感じられる。

 沖縄よりもっと南方の台湾のこともついでだから考えてみたい。戦前、台湾は日本の領土であった。台湾には漢民族以外に、現在、山地人(サンチーレン)と総称される、漢民族が上陸する以前から住んでいる先住民族がいる。アミ族、タイヤル族、ピューマ族などで、言語上インドネシア語系の民族である。日本にも12世紀頃まで独自の言語・習慣を維持していた薩摩隼人と呼ばれた人達がいた。隼人は勇猛であったので、平安京の御所の警護にあたっていたそうだ。隼人の言葉もこのインドネシア語系統といわれている。12世紀頃にはこの隼人の警護員が朝、発する独特の叫び声が宮中で聞かれなくなったという記録が残っているそうだ。だんだん、同化が進んだ結果であろう。ところで阿蘇はインドネシア語で火を噴くと言う意味だそうである。従って、フィリッピンからバーシー海峡をわたり、台湾、薩摩と続く地帯の先住民族はインドネシア語系の人々のだったようである。戦前、この台湾の先住民族に初めて学校教育を日本語で行った。それまで、学校はなかったので、彼らにとって歴史上初めての学校教育であった。それで、各民族はお互いに言葉が違ってそれまで通じなかったが、以後、日本語が共通語となったという。今でも、台湾の山奥に行くと日本語が話されているのはそのためである。当時の日本の教育には、この人々はおおむね好感を持っている。
 だが、当初、表向き平等としていても、就職や昇進に差別があったらしく、これが原因で大規模な反乱に発展して、霧社事件となった。日本の統治時代の話であるのだから、日本の歴史の教科書に記述があると思ったが、日本では全く習わないし知られてもいない。しかし、大規模なものであったという。台湾の友人は皆知っていた。台湾の先住民は勇猛で、特にタイヤル族の武勇は有名であった。男子が成人するには敵対する村の人の首を狩ってこなければならないとされていたので、首狩り族あるいは蛮族とおそれられていたという。捕虜となるのはきわめて恥であり、捕虜となるより自ら命を絶つのが美徳とされていた。まるで日本の武士のようである。日本にも彼らの基層文化がかつて存在し影響があったものと思われる。戦前、蛮族と総称された彼らは、日本の教育によって、首狩りなどの風習をやめたものを、熟蛮、昔ながらの因習を持っているものは、生蛮といわれたという。
 戦後何十年もして南洋のモロタイ島で発見され、台湾に帰還した元日本兵に、中村輝男さんという方がおられたが、この方は確かアミ族出身で、アミ語の名前は、スリヨンという。台湾に帰ってきたとき、台湾の記者が、福建語で聞いても北京語で聞いても返事せず、日本語にしか返事をしなかった。それもそのはずで、彼はアミ語と日本語しか理解できず、台湾が戦後国民軍に支配され北京語が使われていることなど知らなかったのだ。いわば、浦島太郎になっていたのである。中村スリヨンさんは、日本政府から未払いの兵隊の給料と見舞金として500万円をもらい、帰還後、幸せに暮らし、7年後になくなったという。日本国人として戦争に行った多くの台湾出身の兵士の未亡人達は、戦争に行って帰ってこない自分の夫も、中村スリヨンさんのように生きて返ってくるのではないかと、思い涙したという。
 戦後は、彼ら先住民族は中国語で山地人(サンチーレン)と呼ばれている。最近は、日本のプロ野球に、沢山、山地人の人達が来て活躍している。もう引退したが、剛速球投手の郭太源など、みなさんも知っている選手が多い。戦前の全国中等学校野球大会の甲子園にも、台湾中部の嘉義農林の野球部が出場しているが、多くの生徒は蛮族の出身であったという。当時は、樺太から台湾までの生徒が出場していたのだから、すごい。このように台湾の例を見てもわかるように、戦前には今よりももっと多くの少数民族が日本国内に含まれていたのである。

 さて、よく考えてみると日本人と一般に自分たちを呼ぶとき、無意識に大和民族のみを指していると思われる。あるいは、大和民族さえ意識せず日本人は一種類で均一な人種と思っているのが実情かもしれない。しかし、上に述べたように、戦前戦後でその数は違うが、少数民族の人達が明らかに日本国内に存在し彼らはれっきとした日本人だが、大和民族ではない。したがって、日本人=大和民族とされると、彼らはこの国に住んでいるのに居心地の悪い疎外感を持つであろう。そこで、私の提案だが、これからは、日本国人と呼んではどうだろうか。中国人が約50民族から構成されているように。日本国籍を持つあらゆる民族・人種は全て日本国人である。日本国人は、大和民族、沖縄人、アイヌ人、ギリヤーク人、オロチョン人、小笠原白人、秀吉の朝鮮出兵の後大量につれてこられた高麗人(五木の子守歌に出てくる「かんじん」=韓人がそれにあたる)、近代に帰化した多くの在日韓国人・朝鮮人、漢民族(華僑)、台湾出身の山地人3)、などなど全てを含む。日本国人とは多民族国家であることを表す。戦前も戦後もいわゆる日本人にこのような、全ての民族を日本国人として受け入れる度量や視点が欠けていたように思う。これからの国際化はまずこのような内なる国際化であろう。

注釈
1)       ちなみに、幕末から明治初期になると、清国が衰退しロシアが進展してアムール川河口や北樺太まで達した。そのとき、アムール河河口から北樺太に住むギリヤークの人々は今度はロシアに組み込まれることとなった。これが戦前、北緯50度線に日ソ国境が引かれた歴史的な原因になっているようだ。
2)       現在、都道府県で、道とつくのは北海道だけであるが、戦前はもう一つ道がつく地域があった。南樺太道である。
3)       統計は全くないのだが、かなりの数に方が戦後日本に帰化しているらしい。なぜかというと、中村スリヨンさんの例を見てもわかるように、戦後大陸からやって来た国民党の政権下では、北京官話が出来ない人は、台湾では就職も困難で社会的に出世できなかった。もともと福建語を話す台湾在住の漢民族ならまだしも、先住民の方々は、北京官話は更なる言語的に大きな壁になってしまった。中年になってから、今更北京語をやれといわれても大変だったので、日本に移住して帰化されたと聞いている。また、台湾に残った人たちも、家庭では今も日本語を使っている人がいるという。戦前嘉義農林から甲子園にピッチャーで出場された方はアミ族で、奥さんは漢民族であったので、戦後も家庭では共通語の日本語ですごされており、今も毎朝おみそ汁飲んでいるというのを、昭和50年代に日本に来られたとき語っておられるのを実際聞いたことがある。




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