家紋はなぜできたのか
信州上田之住人
太田 和親
2001年5月3-31日随筆
2001年6月22日加筆
2002年6月27日加筆
2002年10月31日加筆
家紋は一体どのように成立したのでしょうか。また本来何の目的で作られたのでしょうか。
家紋は一家に2つあります。男紋と女紋です。男紋は父親から息子に引き継がれていきます。女紋は母親から娘に引き継がれていきます。したがって、一家に一つではないのです。最近、このことを知らない人が増えてきました。特に大都会の核家族が増えてから顕著になりました。男は男の系譜を示し、女は女の系譜を示す、この家紋の制度も、アイヌの習慣を見るとその理由がはっきりします。
アイヌの人たちは、家紋はありませんが同じような制度を持っています。男達が何人かで山に狩に行って、熊を見つけ矢を放ちました。当たった矢の柄の部分に、自分のマークがついていたら、自分がしとめた証となります。また、同じように矢を放ったが、しとめた矢が自分のマークでなければ、他の人がしとめたということになります。それで、父親は自分の家独自のマークを矢の柄に彫りこれを、息子に代々伝えました。母親は、自分の娘が初潮を見ると、ウプソルという前掛けのようなものを作り娘に付けさせます。この前掛けはうち懐に付けるもので外からは見えませんが、その家独自の文様が刺繍されています。この刺繍の文様は母から娘へ代々伝えられていきます。息子が成人し、あるところの娘と結婚ということになります。その時、その息子は自分の母親と同じ文様のウプソルを持っている娘とは結婚できないという決まりになっています。つまり、これは近親結婚を禁止するための手段だったことがわかります。したがって、大和民族の家紋もかつては、自分の母親と同じ家紋を持っている娘とは結婚できないという決まりになっていたものと考えられます。いまは、忘れさられていますが、そうでないと、女紋が代々母親から娘に伝えられていたということの意味がわかりません。
東アジアでは、この近親結婚を禁止する方法として、夫婦別姓を用いる国々があります。中国や韓国では、結婚しても男も女も姓は変わりません。自分の母親と同じ姓の娘とは結婚しないという決まりがかつてあったのでしょう。現在は子供は男も女も父親の姓を名乗るので、父親同士が同姓の男女は結婚できないということに変形しています。それでもやはり、そうすることで、近親結婚を防ぐことができます。私が博士課程の大学院生の時、ある台湾の留学生が結婚して新婚のアパートに私を招いてくれました。正式に結婚しても姓が変わらないことを私は知っていましたが、多くの日本人はそのことを知らないので、彼らが同棲していると勘違いして困るのだと言っていました。
このような近親結婚のタブーは、何万年もの人類の知恵から生まれたものだと思います。聖徳太子は八耳の王子と呼ばれた天才ですが、これは8カ国語もの言語を自由にしゃべれということを表しているのではないかと言われています。当時は標準語も共通語もなかった時代ですから、インドネシア語系の隼人語や東北のアイヌ語など、あるいは朝鮮半島の百済語など多くの言葉を通訳なしに理解できたのでしょう。このような天才の聖徳太子は、両親が異母兄妹でその結婚で生まれた子供と言われていますが、通常このように近親結婚をすると、多くの場合天才よりも知恵遅れや奇形児ができる確率が高くなると言われています。したがって、人類何万年もの経験から、近親結婚を禁止する制度がこのように生まれてきたのだと考えられます。
以上のように、明治以来西洋文化一辺倒だった日本人ですが、自分たちの周辺の東北アジアを見回してみると、非常にいろいろなことがわかり、家紋の意味や日本人の生い立ちがよくわかるようになります。