またぎについて

信州上田之住人
太田 和親  
2001年11月13日
待ち時間にこの随筆を書く
2001年12月6日加筆
200748日加筆
2019年2月16日追記

 またぎは東北地方を中心に、残る習俗で、大変興味深い。またぎは、青森、秋田、岩手、宮城、山形、新潟北部などの東日本にだけ存在し、西日本は全く存在しない。またぎはどのようにして発生したのであろうか?
 またぎとは、農閑期の冬などに山に入り、熊やウサギなどをしとめて食料とする習俗や狩人のことである。その発生はどうも縄文時代からのようである。現在、秋田県の阿仁町はまたぎの町と言われている。この秋田県のまたぎについて、詳しく調べた太田雄治さんという方がおり、この人の本を読んで大変興味深かった。阿仁のまたぎの人たちには、代々またぎの聖典のような巻物が伝えられているそうだ。またぎをすることには、仏教が伝えられて以来、大変大きなイデオロギー上の軋轢や迫害があったらしい。というのは、またぎをすることは即ち四つ足の動物を殺して食うことであり、これは仏教のタブーを犯すことになる。仏教では、ご存じのとおり、4つ足の動物を殺してはいけないし、勿論食べることなどもってのほかである。
 私が子供の時にも、肉を食べるなどということは一月に一回あるかどうかであり、日本人は魚を食べることがもっぱらであった。肉を食べる習慣は40年前くらいには希薄だった記憶がある。だから、今日はカレーだとかすき焼きだとか言われると、久しぶりに肉が食べられると大変嬉しかったのを覚えている。また、私が小学生の時には、私達のおばあさんくらいの年齢の人達、つまり、明治10−30年くらいに生まれた人達は、肉を食べることに大変な嫌悪感があり、間違って食べると気持ち悪くなってもどしたりしていた。私が小学校の低学年の頃、大変なおばあちゃん子がいて、この子はおばあちゃんとそっくりで、肉を食べるとその嫌悪感から気持ち悪くなり、給食のとき、はいていたのを私はいまだに覚えている。昭和30年代当時としてもそんな子は珍しかったが、おばあちゃんに育てられたからだと皆納得していた。それは、昔は肉食がタブーであったという事を当時小学生でもみな知っていたからである。現在、そのような、四つ足の肉が食べられないような日本人は、たとえ仏教を熱心に信じていたとしても、もういないと思う。しかし、このように4つ足を食うなという教えやタブーは、1000年も2000年も前からほんの四、五十年前まで、この国で続いていたことは確かである。
 従って、狩猟を主にする縄文人に対して、仏教が入ってきたときには、それは大変なイデオロギー上の軋轢があったことは想像に難くない。今で言う文明の衝突であろう。今までの生活手段そのものが、いけないといわれるのであるから生活が成り立たなくなってしまう。縄文晩期や弥生時代に水田稲作が始まる時を一にして、仏教の思想が入ってくる。水田稲作があまり適さない東北地方には、必然的に食糧確保のため、従来通り四つ足を取って食べざるを得なかったものと考えられる。そのため東日本にはまたぎの習俗が今まで残ったのであろう。しかし、仏教伝来当時、四つ足を食うなというタブーは大変な精神的な圧力として、彼らを追いつめたに違いない。そこで、阿仁の人たちには、またぎをすることは、日光権現(権現は神様の称号の一つ)から許された生活手段であるというお墨付きがあるのだと書かれた、またぎの聖典が、仏教に対抗する形で存在しなければならなかったものと思われる。実際、門外不出であったこの聖典は、近年、太田雄治さん達の研究で初めて、内容が明らかにされた。この聖典には、またぎは神から許された生業(なりわい)だという趣旨が書かれているという。この聖典の存在から、縄文人の伝統を引くまたぎが、仏教という巨大な新しい思想と出会ったときの、大きな精神的苦悩が読みとれる。これは同時に、縄文人が弥生人と遭遇したときの苦悩を如実に物語ったものだと思う。

 この太田雄治さんの本には、さらにおもしろいことに、またぎ語辞典なる語彙集が第5章に納められている。またぎが山で使う独特の単語が多数集められていて大変興味深い。日本語では全く意味の分からないものが多数入っている。例えば、犬のことをセタ、水のことをワツカ、熊の頭のことをバツケ、沢山のことをホロ、などと言う。これは全てアイヌ語由来の言葉である。アイヌ語でセタは犬、ワッカは水、パケは頭、ポロは沢山、と言う意味である。そのこと自体大変興味深いが、もっと興味深いのはこのような言葉をなぜ山に入ったときだけ使われるかである。この本には理由が書かれていなかったが、私は全く別のアイヌの習俗に関する本を読んでいて、この謎が解けたことに大変興奮した。北海道のアイヌの人達は、明治頃まで日常はアイヌ語で生活していたが、山に猟に入ったときは、山の神をおそれ、山の神様に聞かれて気づかれないように、日常使わない言葉でお互いに話したという。それは日常語ではない日本語であったそうだ。東北のまたぎは日常は日本語を使っていたが、山に入ると日常使っていないアイヌ語を、反対に使ったのである。東北は北海道とこの点、全く反対であるが、その底流に流れる思想は、全く同じで山の神を畏れ神様に聞かれないようにしたと言うことである。山の神とは、アイヌ語でヌプリコルカムイ(nupri-kor-kamui:-守る-)で、それは熊を表す。熊は山の神の化身である。その熊を狩りにゆくのであるから、日常語で話していて神(熊)に気づかれてはまずい、ということである。その根本は全く同じ思想である。したがって、この東北のまたぎ語の習慣は、アイヌや縄文由来のものであることは明白である。
 またぎの南限はどこだろう。最近、今から約200年前に越後の魚沼郡の鈴木牧之によって書かれた「北越雪譜」という本を、読んでいたら、魚沼郡でも猟師が農閑期に山に入って猟をするときに使う特別な「山言葉」が存在していることを記録していることに気が付いた。鈴木牧之も約200年前に同様にこの山言葉の存在に気付き民俗学的に大変貴重なものとして記録している。ここの猟師は地元の者もいたようだが、山形(出羽)あたりから南下してくる者が主に熊をとっていたようだ。「北越雪譜」から考えると、この新潟県中部の魚沼郡辺りがまたぎの南限かと考えられる。識者の教えを乞う。


2019.2.16追記:
(1)秋田県由利本荘市の「鳥海マタギ」についての放映があった:NHK ETV特集 「熊を崇め 熊を撃つ」2019年2月16日(土) 午後11時00分(60分) 、やはり熊を山の神として敬っていることがわかる。
(2)現在、信州の秋山郷では、マタギの伝統を絶やさないようにと、6人のマタギが協力し合って狩猟の技術を守っているとのことである。この信州の秋山郷のマタギは、江戸時代新潟県魚沼郡辺りからが来たといわれている。ここが、現在のマタギの南限だと思われる。<http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s34.htm>を参照



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