萱野茂さんについて

信州上田之住人  
太田 和親     
200185-7日随筆

アイヌ民族最初の国会議員、萱野茂さん
 だいぶ前になるが、まだ社会党があった頃、参議院選挙で、私はそれまで支持政党でない社会党に一票を投じた。それは、社会党からアイヌ民族出身の萱野茂さんが立候補していて、比例代表制に支持政党を記入する投票方式であったからであった。しかし、萱野さんは、拘束名簿方式で順位が下位であったので、次点で落選してしまった。私は、密かに現在在住の長野県から北海道の萱野さんを応援していたのに落選して、がっかりしてしまった。しかし、それから暫くして、参議院議員の誰かが亡くなり、萱野さんが繰り上げ当選となった。ついに、萱野さんはアイヌ民族最初の国会議員となられた。そして、在職中に、明治時代から法的に生きていた「北海道旧土人保護法」という屈辱的名前の法律の改正に尽力され、通称「アイヌ新法」と呼ばれる法律を1997年5月8日に成立させた。萱野さんが当選されなかったら、今もって、この差別的な名称を持った「北海道旧土人保護法」がそのまま生きていたかもしれない。中学の子供の教科書に、萱野さんが国会でアイヌ語で演説されている写真が載っているのを見て、私は、萱野さんに一票を投じた自分を誇らしくさえ思った。
 私は、萱野さんには直接お会いしたことはない。萱野さんのことを知ったのは、今から21年も前の、昭和55年(1980年)に、萱野さんが書かれた「アイヌの碑」という本を、そのころ住んでいた大阪府吹田市の本屋で、買って読んでからである。萱野さんの年齢はその時55歳で、アイヌ語が自由にしゃべれる人の中では一番若い方と思われた。萱野さんは大正15年(昭和元年)生まれである。この本によると、終戦間際の2年間ほど、萱野さんはアイヌ語だけで暮らしていたそうだ。それは、戦争が激しくなって、燃料が日本全体で不足し、それまで営林署の仕事をしていた萱野さんは、その期間だけ燃料増産のため、お父さんと一緒に炭焼きをして山で生活した。この時、長生きされていたテカッテおばあさんを含めた家族といっしょに生活を共にされ、アイヌ語だけでこの2年間は生活していたとのことである。この時、おばあさんから沢山のアイヌ語の物語を聞いたそうだ。
 戦後になって、アイヌ語はもう、明治生まれの方しか理解できず、金成マツさんの残されたローマ字で書かれた大学ノート25冊に及ぶユカラ(アイヌ英雄叙事詩)の翻訳は金田一京助先生が数冊のみ翻訳されたが、残りはもう無理ではないかと思われていた。それは、金田一先生も老齢となられ、また、わからない単語が出てきたときに聞てもわかる人がいなくなってきたからである。昭和36年8月、翻訳のため、登別の観光アイヌをしていた古老に、わからないところを尋ねてこられた金田一さんは、そこでその古老と一緒に観光アイヌをしていた萱野さんに出会った。若い萱野茂さんがこのユカラのほどんど全てがわかることに、驚喜した。ちなみに、今日(2001年8月5日)、NHKの教育テレビを見ていたら、萱野さんが出ていて、その後のことがわかった。今は、この金成マツさんのノートは、金田一京助先生の息子さんの金田一春彦先生から、萱野茂さん以外に翻訳できる人はないとして、萱野茂アイヌ記念館に寄贈されており、現在22冊目まで萱野さんの手で翻訳されているそうである。全冊翻訳が完了すれば、直ちに日本政府は萱野さんに文化功労者賞を贈るべきである。金成マツさんのノートも萱野茂さんの翻訳も日本国の宝であると思う。
 私は、萱野さんの「アイヌの碑」を読んで、日本は早く、法律を改正して、国語は日本語だけでなくアイヌ語や琉球語も含めて、憲法で保障するべきだと思った。さもないと、貴重なアイヌ語も琉球語も地上から消えてしまうのではないかと思う。フィリッピンは憲法で、英語とタガログ語を国語と定めて、学校で習うことを保障している。義務教育が犯罪である言うと、穏当でないかもしれないが、少数民族の言語を、小学校で教えてはならないとしているのは犯罪である。百年以上アイヌの人々に対してこういう政策を押しつけた結果、ほとんどの人がアイヌ語をしゃべれなくなってしまった。自分の文化や伝統・言語を奪う政策が犯罪でなくて何であろうか?地名から考えて、大昔の日本の東半分はアイヌ語の圏内にあったことは明白である。古い歴史を有する言葉がなくなるのは、日本の歴史の半分がなくなるのと同じである。英語を第2国語にするより先にやるべきではないかと思う。

萱野茂さんのアイヌ語辞書
 萱野さんの本を読んだ同じ年の昭和55年5月25日、私は大阪の心斎橋筋を歩いていて、大丸・そごう前の小さな古本屋、中尾書店にふいに立ち寄り、珍しい本を見つけて購入した。バチェラー著の「蝦和英三対辞書」という明治22年発行の本で、昭和50年に国書刊行会から復刻された本であった。そのころ、私は日本人のルーツや日本語の成立に非常に興味があり、この希少本に記載されているアイヌ語の文法や語彙に期待して購入した。しかし、使い物にならない物でとてもがっかりさせられた。文法には、日本語やアイヌ語に全くない冠詞についての記述があたりして、西洋文法からの視点で書かれており、著者の能力を疑うものであった。従って、この本でアイヌ語の文法がわかったり、この本の語彙でアイヌ語が読めるようになるとか期待できるものではなくかった。まして日本語との関連性や距離などが概観できるものではなかったのである。バチェラーは言語学者ではなく、北海道に渡ったキリスト教の宣教師であったので、仕方なかったのかもしれない。
 そこで、私は、萱野茂さんに著書「アイヌの碑」の感想とともに、バチェラーの辞書は使いものにならないが、かといって、アイヌ語を修得しようにもアイヌ語の辞書がないではないか、辞書を今あなたがつくらなければならないと言う趣旨を葉書に書いて送った。かなり不躾で失礼だったかもしれないが、私にはもう萱野さんしかそれをできる人はいないように思われた。
 最近、私が住んでいる長野県上田市の市立図書館で、最新のアイヌ語関係の本を調べてみた。そこで、萱野さんが4年前の1997年に、約6000語だったか、8000語だったかの語彙を収録したアイヌ語の辞書を出版されていることを知った。21年前の私の思いは萱野さんに届いたのだと、人知れず図書館で一人感動した。

萱野さんのアイヌ語塾
 萱野さんは若い人がアイヌ語を修得し、アイヌ語・アイヌ文化を継承発展させるべきと考え、幼稚園をつくりそこでアイヌ語を教えることにした。ところが、幼稚園で外国語を教えてはならないと厚生省だったか文部省だったかから通達があり、従わない場合は建設の補助金を出さないと言って来た。誠に嫌がらせである。そこで、幼稚園ではだめと言うことなら、私塾でとなり、30坪くらいのアイヌ語塾を併設してそこで教えることになった。私も、外国語を幼稚園で教えてはいけない法律があるなど、この話で初めて知った。しかし、英語を幼稚園で教えることなど都会ではいくらでもやっているのに、アイヌ語はだめなのか、そしてアイヌ語は日本国の中の固有の言語で外国語ではないのではないかなど、国の政策の根拠がどうなっているのか色々、疑問がいっぱいわいてきた。
 萱野さんのこのアイヌ語塾のことは話題になったので私も設立当時から知っていた。この萱野さんの試みが、多くの人を鼓舞し、各地でアイヌ語塾が開かれるようになっていった。萱野さんがつくった辞書や、教科書がそこで採用されているとのことである。また、1997年3月からはアイヌ語の季刊新聞が発行されるようになり、1998年4月12日からは、北海道STVラジオでアイヌ語ラジオ講座も始まった。今は他のラジオ局でもやるようになっている。最近は、インターネットでこれらのラジオ番組もダウンロードできるので、どこにいてもやる気さえあれば生のアイヌ語が聞けるようになった。インターネットは少数民族の人たちにとって、福音になると思われる。北海道全土に2万4千人、東京周辺に3千人、関西や九州などにも相当数の方がいるとのことであり、これだけ広い地域になると、塾や教室に通うことは不可能でアイヌ語を独習する人の方が多くなる。そこで、放送大学のようなところで衛星放送してくれるとありがたいし、有料でいいので常時インターネットから教材がダウンロードできるようにしてほしいと、考える人も多いだろう。北海道や東京から離れて私のように長野県などに住んでいると、アイヌ語の教材を手に入れるのは大変である。インターネットはまさにアイヌ語学習にとって革命的な手段となると思う。多くのアイヌ系の若人やアイヌ語を習いたい多くの人に学習の機会が提供できるので、是非、萱野さんに、次は萱野茂アイヌ民族記念館のホームページを開設するなどして、教材の情報をインターネット上に発信してほしい。

アイヌ語の教材を身近にする提案
 ここで、言語習得において大変興味深いことがある。中国残留日本人孤児に、3姉妹がいて、終戦当時それぞれ年齢が、15歳、12歳、9歳であった。肉親と離れ離れとなり、3姉妹は別々の中国人の養父母に引き取られた。戦後40年して、日本に肉親探しにそろって来たとき、55歳の姉は日本語が不自由なくしゃべれ、52歳の姉は少ししゃべるのに不安であったが、何とか思い出し思い出し、意志を日本語で伝えることが出来た。しかし、49歳の妹は、中国語でないと意志が伝えられなかった。このことから考えると、日常生活に不自由なく言語を習得して長期間使わなくても生涯維持するには、少なくとも15歳まではかかるのではないかと思われる。一方、全く知らない言語を12?15歳以上で習い始めて、他言語の中でいた場合は自分で不断に努力して10年、その言語の中に入った場合は2年くらいの習得期間がかかると、自分の経験から思う。私は日本にいて英語がしゃべれるようになるのに10年はかかった。フランス語はパリで1年しか習わなかったので、もう1年つづけてパリに住んでいたら、完ぺきだったと思う。しかし、毎日使っていない言語は急速に忘れていく。英語は毎日使っているので忘れないが、フランス語はあんなに単語を覚えていたのにほとんど忘れてしまっている。でも、15年経った今でも、何とか、聞いたり読んだりすることが出来る。ドイツ語は2年、中国語やハングルはそれぞれ数ヶ月独習したが、ほとんど何の努力もしていない今は完ぺきに忘れてしまった。したがって、本や、ラジオ、テレビ、インターネットを通じて、ふんだんに教材が、身近にすぐ触れられるように、アイヌ語をして欲しいと思う。さもないと、習得言語は、あやしくなっていくものである。特に、遠くにいる人はそうである。

 最後に、私は、萱野ニシパ(=さん)が今後も健康に注意され息長く、アイヌ語(=アイヌイタック)やアイヌ文化(=アイヌプリ)において、後進の指導をされることを、陰ながら祈ってやまないものである。

(追記)200659
 本日、萱野茂さんの訃報に接しました。79歳でした。まだまだ後進のご指導をいただけるものと思っていましたのに大変残念です。御冥福をお祈り致します。



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