手塚の唐糸と万寿姫の物語

 

2004910-16日随筆
201941日注記
信州上田之住人 太田和親

 

 皆さん「日本史で西暦1192年には何が起こったでしょう?」と問われたら、中学生以上ならほとんどの人が「いいくになろう、鎌倉幕府」とすぐ答えられるだろう (1)。ほとんどの日本人が知っている歴史的大変革が起こった年号である。貴族の時代が終り武士の政権が初めて出来た。そしてその後約七百年の間、武家が政治を行った。鎌倉幕府はその武家政治の始まりである。私はその動乱の時代のことを描いた前々から読んでみたいと思っていた「平家物語」を最近になって初めて全巻読み通した。何度も感動して泣いた。最高の文学だと思った。また「平家物語」で初めて知ったのが、源平の合戦で大活躍した木曽義仲はひょっとしたらこの武家政権の最初になっていた可能性が高いことだった。そこでもっと別の本も読んでみると、唐糸という人が頼朝の暗殺にもし成功していたら、きっと初めての武家政権は義仲によってこの信州の現丸子町か上田市に開かれ「丸子幕府」か「上田幕府」が出来ていたのではないかと私には思えてきた。この空想が現実だったら、今の日本中の中学生や高校生は「いいくになろう、上田幕府」と覚えているだろう。

 唐糸の手により頼朝が義仲よりも先に死んでいたら、歴史は大きく変わっていただろう・・・。そんな訳ないと思う人は上田市手塚の唐糸観音堂とその父手塚太郎の墓を訪ねてみて欲しい。源平の合戦はこの東信(東信濃)地区から始まったのを皆さん知っているだろうか。最近、私は源平の合戦や「平家物語」に関係する史跡が上田やその周辺に沢山あることを知った。そこで、その史跡を順次訪ねてみようと思いこのお盆の休みにまず上田市の塩田平にある「唐糸観音堂」と「手塚太郎光盛の墓」を手塚地区に訪ねた。しかし、そこでは観光案内板もなく全く探し出せないで困ってしまった。その日はお盆の814日だったので、地区の手塚公民館で明日の盆踊りの準備を地元の方がしていた。広場から出てきて自転車に乗って丁度帰ろうとした人を捕まえて、

「すみません、唐糸観音堂を探しているのですがどうしても見つかりません。どこにあるか教えて欲しいのですが・・・」

と聞いてみた。

「唐糸観音堂・・・?おりゃあ知らないなあ。公民館の中に、手塚の公民館長がいるからそっちで聞いてみて。」

それで公民館の建物の玄関から公民館長を呼びだして窓越しに聞いた。公民館館長も、

「唐糸観音堂?おりゃあ知らないなあ。」

唐糸について全く知らないようなので説明した。

「鎌倉にいる源頼朝を、ここの手塚出身で木曽義仲に仕えていたお父さんの手塚太郎光盛の娘唐糸が、暗殺する計画をたてていました。800年ほど前のことです。結果的には失敗して、鎌倉で石の牢屋へ入れられていました。万寿姫というその唐糸の娘がここから鎌倉に行って、お母さんの唐糸を牢屋から助け出して、二人でここ手塚に無事帰って来たそうです。それでその唐糸と万寿姫を祀った唐糸観音堂がこの手塚にあると聞いて訪ねてきました。」

「頼朝を暗殺!?唐糸?おれそんな話初めて聞いたなぁ。う〜ん、おれは知らないけど近くに郷土史家の先生がいるからついておいでよ。」

ということになり、そこから二百メートル位産川の川上に上ったところで、郷土史家の曲尾勝さんを紹介された。

 丁寧に公民館長にお礼を言い曲尾さんにことの次第を話した。

「手塚大城というところに唐糸観音堂があると本で読んだのですが、地図には大城というところがありません。捜しあぐねて公民館長さんにお聞きしたのですが、御存じなくお宅を紹介して頂いたような次第です。」

曲尾さんはさすがに、

「はあはあ、それはそれは、まあおあがりなさい。」

と良く御存知のようである。お言葉に甘えて突然の訪問にもかかわらずお家に上がらせてもらいお話を伺った。

 

 手塚大城とは現倉沢正二郎氏の宅地の通称であり、地図には載っていない。そこには手塚太郎金刺光盛の館つまり大城がかつてあったところである。大正七年生れで現在85才の曲尾勝氏によると、「私が子供の頃の七十年ほど前までは二階建ての木造の館があった。」とのことである。この館は蚕種選業の組合の共同作業場を建設するために取り壊された。丸子町から買ってきた機械を据え付けるためであった。当時は文化財保護意識が低かったため、取り壊してしまい残念なことになった。もし取り壊されていなければ、中部地方で最も古い木造建築物であっただろう。なぜなら市内前山地区にある同時代に建てられた中禅寺の阿弥陀堂は中部地方最古の木造建築と言われているからである。

 現在はこの倉沢正二郎氏宅地内には唐糸観音堂だけが残っている。この観音堂は手塚太郎金刺光盛の娘唐糸と孫娘万寿姫の二人を供養するために建てられたものである。

 唐糸の話は戦前には尋常小学校の教科書にも載っていた。唐糸の物語は源平の合戦の頃平安末期の忠と孝の実話を表したものである。この話の背景と粗筋は次の通り。

(政治的背景)

 治承四年(1180)以仁王の平家追討の宣旨を受けた木曽義仲は、現長野県小県郡丸子町の依田城にて東信および群馬の兵馬を集めて蜂起した。この時、義仲に従ったのは現上田市手塚の手塚太郎金刺光盛や現東御市海野宿の海野氏らがいた。兵馬は約三千騎にて依田川と千曲川の合流点付近の白鳥河原に集合した。これを白鳥河原の勢揃いという。この白鳥河原横には今も白鳥神社があり、これは海野氏の氏神として祀られている。

 義仲の軍は千曲川の横田河原で越後から来た平家味方の城四郎の軍四万騎と戦って勝った。わずか三千騎で勝利した様子は「平家物語」の「横田河原の戦」の段で語られ著名である。義仲の軍は破竹の勢いで北陸道を京へ攻め上って行った。越中加賀国境の倶利迦羅峠の戦では、義仲の兵一万騎平家は十万騎であったが、地形を巧みに利用し牛の角にたいまつを付けて不意の夜襲に見せかけて平家の兵馬を深い谷底へ追い落として勝った。連戦連勝で丸で朝日が昇るごとくであったので、人々は義仲を旭将軍と呼んだ。

 京に入った義仲はさらに西国の水島の戦などにより全国の三分の一を支配下に収めるに至った。

(唐糸の物語)

 その頃の日本は、平氏、義仲、頼朝の三者でほぼ三分割されていた。しかし、頼朝は同じ源氏の従兄弟の義仲が先に京に入ったことを快く思わず、鎌倉から義仲殺害の指示を出した。その頃、手塚太郎金刺光盛の娘唐糸は頼朝の下で働いていた。唐糸はこれは父手塚太郎の主君義仲の一大事と、京にいる父に手紙で知らせた。「頼朝のすきを見て唐糸が頼朝の寝首を掻くので、首尾よく成功のあかつきには父手塚太郎に信濃と越後の二国を下さい。義仲様の了解のあかしに代々伝わる家宝の短剣を唐糸に下されば、それで頼朝を討って見せましょう。」父手塚太郎光盛はこの手紙を主君義仲に見せた。義仲は、唐糸の忠義を大いに喜び、家宝の名刀の短剣とともに手紙に「この度の唐糸の注進、誠にありがたい。御褒美に父の手塚に信濃と越後二国を与えよう。さらに首尾よく成功したら関東八ヶ国をもさずける。このこと人に知られるな。」と書いて鎌倉の唐糸の元へ送った。唐糸はこの短剣を肌身離さず、また、義仲の手紙は部屋に隠した。頼朝のすきをうかがうがなかなかよい機会が巡って来ない。そうこうしていると、頼朝とその妻政子のお風呂のお供を仰せつかった。脱いだ着物の下に隠しておいた短剣を、風呂奉行の土屋三郎に見つかってしまった。問い詰められ木曽殿に仕えている時に形見にと頂いたと言い訳するが、木曽殿の代々伝わる名短刀を女の持つ形見にしてはあまりに不釣り合いと、いよいよ疑いを深められ松が岡の尼寺に暫く預けられた。風呂奉行の土屋はさらに唐糸の部屋を捜索して木曽義仲の手紙を発見し頼朝暗殺計画を暴いた。そこで唐糸は石の牢屋に入れられてしまった。

 信濃国手塚の唐糸の娘万寿姫は母の入牢を伝え聞き、名を隠し鎌倉に上って母を救い出す決心をした。万寿姫はお祖母さんの反対を押し切って、乳母の更級とともに鎌倉に上り名前や出自を偽り頼朝の屋敷で働いた。母の入れられた石牢を見つけ出したがどうすることも出来ない。そうこうしていると頼朝の屋敷で不思議なことが起こった。何と屋敷の中の畳のへりから松が六本生えてきたのだ。凶か吉かを占わせるために陰陽博士を呼んだ。松は千年の命ゆえ、六本も生えたのは頼朝の子孫が六千年も栄えることを意味する、吉兆であると占いが出た。そこで、祝賀の宴を開くことになった。十二人の美しい舞姫の舞いを鶴岡八幡宮の神前に奉納することとなった。舞姫は十一人まで集まったが、あと一人だけ足りなかった。そこで人にすぐれて美しい万寿姫がその舞姫になることを、乳母の更級が勧めて舞うことになった。美人の万寿姫が今様を上手に華麗に舞うと、感動の余り頼朝も途中から万寿姫と一緒に今様を舞った。翌日、頼朝は万寿姫を館に呼び出し「なんじは今様の名人だ。国は何処だ。親は誰だ。褒美に如何なる望みのものも取らせる。」と告げた。万寿姫はこの時を逃せば母を助けることは出来まい、我が命を奪われても構わないと心に言い聞かし、「実は、石牢に捕らわれの唐糸の子で、万寿姫と申します。母の代わりに私が石牢に入りますので、母を助けて下さい。」と助命を涙ながらに申し出た。その母を思う娘の孝行な心根に、頼朝をはじめ同席の全ての者が心打たれてもらい泣きした。そして、頼朝から母唐糸ばかりか娘の万寿姫も信濃に一緒に帰ることを許された。その上、頼朝からも他の多くの武士からも二人に沢山のみやげが贈られた。

 信濃国手塚ではお祖母さんが娘の唐糸と孫の万寿姫の二人のことを毎日心配し、その心労の余り病の床に着いていた。二人が帰国して無事な姿を見せると、お祖母さんは元気になったという。誠に唐糸の忠義、万寿姫の親孝行のめでたい話である。

 

 以上が曲尾さんからお伺いした唐糸の物語である。私はお話を伺いながら、「もしも唐糸が頼朝暗殺に成功していたら、日本の歴史は全く変わっていただろう。木曽義仲の武家政権が誕生し丸子幕府か上田幕府が出来ていたかも知れない。」と、心躍らせ空想した。

 その唐糸観音堂と手塚太郎金刺光盛の五輪塔を、実際に訪ねるため、曲尾さんに地図を書いてもらった。地元の人も全く知らないので案内板があるといいですねと私が言うと、「そうなんです、郷土史研究会のメンバーで、手塚の中心地に案内板を出そうと今言っているところです。」とのことであった。

 唐糸観音堂のある手塚大城は倉沢正二郎氏宅地の通称で、このお宅を道から入って行ってお庭を横切ると宅地の北東の隅に、観音堂が建っている。なんと個人の屋敷の中にあるという。このお宅の宅地は大変大きくて大変古い門が残っており、明治二年の上田の大規模な百姓一揆の時の刀傷が門の鴨居に残っているということもお聞きした。また、倉沢正二郎氏宅前の道を川下に向かって百メートル位行くと、堰口(せんげぐち)という地区の集会場火の見やぐらがあるところがあり、その道を隔てた向いのお宅が樋口さんという。この樋口家のお庭に、父手塚太郎金刺光盛の墓の五輪塔(「光盛五輪塔」という)がある。これもまたなんとひとの屋敷の中にあるという。

 その曲尾さんに書いていただいた地図を頼りに、ようやく「唐糸観音堂」と「光盛五輪塔」を訪ねることが出来た。倉沢家はお留守だったので黙って写真を撮らせてもらった。樋口家では奥さんにお断りして庭に入らせてもらって写真を撮った。それぞれ個人のお宅に、平安末期の文化財があるのである。えらく感動して帰って来たらもう夕方になっていた。

 このように手塚地区にこれらの案内板や掲示が全くなく探し当てるのは至難の業であった。是非早く案内板が欲しいと思う。また、「唐糸観音堂」と「光盛五輪塔」はもっと有名になっていいと思うのにほとんどの上田市民にいや地元の手塚地区の人々にさえ知られていないのは残念である。是非、上田の観光協会か教育委員会でもっとこれらの史跡について広報と支援をしてもらいたいものである。

 

 その後、唐糸の物語は「唐糸草子(からいとぞうし)」という名前の絵本として室町時代からあるとのことをインターネットで知った。「唐糸草子」は「御伽草子(おとぎぞうし)」の中の二十三話の一つである。御伽草子は室町時代を中心に、平安末期から江戸初期までの比較的短い様々な話を集めたものであり民衆に大変喜ばれ絵と文が付き、奈良本が有名である。つまり絵本で「文正草子」「鉢かつぎ」「唐糸草子」「ものぐさ太郎」「一寸法師」などが入っている。私も上田市立図書館で「御伽草子」を借りて読んでみた。「御伽草子」には「一寸法師」などの荒唐無稽なそれこそおとぎ話が沢山入っているので、「唐糸草子」も史実ではないように思われる方がいるそうだが、曲尾勝さんによれば手塚太郎金刺光盛も唐糸も万寿姫も実在の人々で唐糸の物語は実話である。手塚太郎金刺光盛はここ手塚の地名の由来になった人であり「平家物語」にも出てきて斉藤別当実盛を討った人としても有名である。最期は義仲と一緒に近江の粟津の戦で亡くなっている。木曽義仲が敗れたので手塚地区の手塚の人々は危険を避けるためにここからいなくなり、曲尾さんによると手塚地区に手塚という姓の家は今一軒もないとのことである。

 

 

(1)2019.4.1追記

最近、高校の日本史の教科書では、鎌倉幕府の開設は「いい国(1192年)なろう鎌倉幕府」ではなくではなく、「いい箱(1185年)作ろう鎌倉幕府」となっているそうです。